校長BLOG

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2017/07
6月を振り返って

 6月は、春季スポーツデー(陸上競技大会)と淳心祭と大きな行事が2つ続きました。

 6月6日(火)におこなわれた春季スポーツデーは、今年は天気に恵まれて特別暑くもなく、雨の心配もなく、とても快適なよいコンディションのもとで実施されました。保護者の方にはウェブで事前にプログラムが送信されて観覧に来られる方に便宜が図られ、生徒には観客席以外の立ち入りが禁止されて周りのスペースで遊ぶこともなく、応援でもりあがってすっきりとした良い大会だったと思います。そうした中で陸上競技でずっと頑張ってきたS6の東郷将史君と藪下温司君が、東郷君が800メートル走において、藪下君が3000メートル走においてそれぞれ去年の自分のタイムを更新して大会新の記録を出すという形でS6の有終の美を飾ったことは素晴らしいことでした。2人の記録はおそらく長く残ることになるでしょう。

 6月11日(日)におこなわれた淳心祭も雨が心配されましたが、雨に降られることなく、生徒たちの熱意によって盛り上がった良い淳心祭となりました。私は淳心祭において「校長賞」という賞を出すという役割があって、毎年頭を悩ませます。ちなみに過去6年で「校長賞」を出したのは「アーチ」(校門入り口の装飾)、「東北ボランティア展」、「生物部展」、「鉄道研究部展」、「中庭催し」、「J1学年展」です。今年もまず展示を見て回ると、やはり例年の通り、「生物部展」と「鉄道研究部展」が他よりも充実して甲乙つけがたい出来でした。体育館に行ってみると、「劇団淳心」というS5のグループが「桃太郎」の劇を上演していました。劇の上演は久しぶりで、脚本も工夫され、役者の演技もそれなりに上手だったので今年の「校長賞」としました。やむをえず「評価する」という目でそれぞれの催しを見ると、やはり毎年出展している文化部、サークルはマンネリに陥らないということがなかなか難しいことがわかります。音楽部は例年心城館で素晴らしい演奏をしていますし、中庭の催しで私が最近審査員をさせてもらっている「女装大会」などは盛り上がりとお客さんの集客度は一番かもしれません。またプログラムに載っていなかったのですが、M3がおこなっていたキャリア教育についてのスピーチと、M4がおこなっていたニュージーランド研修の報告はそれぞれの学年の保護者向けでしたが、一般向けでも発表できるものだと思いますので、来年度のさらなる充実を期待したいと思います。淳心祭は、S5の執行委員長の楞野君を中心にした執行委員の生徒たちの縁の下の努力、運動部の諸君の黙々とお客様向けの食べ物などを作る売店・ゲームにおける作業、さらにS5役員の方を中心にした「喫茶」、J2役員の方を中心にした「Jコース催し」などの協力などを始めとして、様々の生徒や先生方、保護者の方々の協力で成り立っています。今年の淳心祭が無事に成功裡に開催できたことを皆様に心から感謝したいと思います。

 

2017/06
マルゴット神父のダイヤモンド祝について

 アントニオ・マルゴット神父は1957年に24歳でベルギーで神父に叙階されました。今年は叙階されてから60年目を迎え、教会ではダイヤモンド祝としてお祝いします。叙階に伴うお祝いは25年の銀祝、50年の金祝に次いで最後のお祝いとなります。神父に叙階された後、58年に日本に来日し、日本語の勉強の後姫路の網干教会の助任を勤め、63年に淳心に教師として来校され勤務を始められました。今年で勤続54年になります。その間1981年から2010年まで30年間校長を勤められました。校長の仕事を辞められた後も理事長の仕事を続けられています。淳心は今年創立63年を迎えますが、神父様はそのうち54年という大半の時間を淳心と共に過ごされてきました。その間文字通り淳心の大黒柱としてよきリーダーシップを発揮され、淳心を姫路、播磨地域における伝統ある名門校として育て上げられました。淳心も以前はたくさんの神父様がおられ、私が勤め始めた1981年には6人の神父様がおられましたが、亡くなられたり、引退されたりで現在神父はマルゴット神父一人となっています。残念ながらこれからベルギーから新たに神父様が来られる見込みはない現在も、神父様の存在は私たち教職員にとって大きな安心感の源となっています。そしてそれは教職員だけでなく、生徒はもちろん、多くの卒業生や保護者の方にとっても神父様の存在がまさに淳心の象徴として、頼れる拠り所として心の中に刻み込まれていると思います。

 なお、学院ではささやかですが6月14日(水)の午後に体育館で生徒・教職員と保護者の一部の方々とで記念式典の実施を予定しています。当日は神父様に心からのお祝いと感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。

2017/05
復活祭を迎えて

 4月16日(日)は復活祭のお祝いでした。キリスト教の復活祭は毎年日にちが変わり、「春分の日の次の満月の次の日曜日」という決め方をします。そのため約1ヶ月の幅があり、今年はやや遅い方でした。

 復活祭は十字架につけられて殺されたイエス・キリストが死者の中から復活したことをお祝いするお祭りで、キリスト教では1年のうち最も大きなお祭りですが、死者が蘇ったという教えですから、キリスト教の教えの中でもにわかには信じられない教えだと思います。しかしイエスの復活がなければキリスト教そのものが存在しなかったことも確かで、イエスが捕まった時、弟子たちはみんな逃げてしまいましたから、イエスの復活がなければ、単にイエスというえらい預言者がいたということで話は終わりになっていたと思います。しかししばらくすると、逃げ隠れしていた弟子たちは「私たちは復活したイエスに出会った」と言いだし、「イエスはキリスト(救い主)だ」という主張を始めます。これがキリスト教の宣教の始まりです。この考えを信じるキリスト者が少しずつ増えて、2000年後の現在のキリスト教になっています。ですからキリスト教の原点は弟子たちの復活体験なので、復活祭はキリスト教の最も大きなお祝いなのです。私たちキリスト教の信者にとって、イエスが死者の中から復活したこと、イエスが十字架上で死んだことによって私たち人間の罪が許されたこと、イエスが世の終わりまで私たちと共にいてくださるということ、これらの教えを信じることが生きていく支えとなっています。

 イエスがいつも私たちと共にいてくださるということについて一つの詩を紹介したいと思います。「あしあと」という詩です。

ある夜、私は夢を見た。私は、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。

一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとだった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。

このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたはすべての道において私とともに歩み、

私と語り合ってくださると約束されました。

それなのに、私の人生の一番辛いとき、一人のあしあとしかなかったのです。

一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません。」

主はささやかれた。「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。

あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みのときに。

あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。」

 この詩はマーガレット・パワーズという人が1964年に作った詩です。印象的な詩で、教会の黙想会などによく使われます。

2017/04
新入生 はげましの言葉

  新入生の皆さん、保護者の皆様ご入学おめでとうございます。淳心学院は皆さんを心から歓迎いたします。新入生のの皆さん、君たちはこれから6年間、神様の恵みのうちに心身共にめざましく成長していくことになります。

  神様はこの世界すべてをつくられた方ですから、君たち一人一人も神様からかけがえのない存在として生命を与えられ、愛され、大事にされています。まずこのことを胸のうちにおさめておいてください。君たちは決して一人ではありませんし、孤独でもありません。そして神様は君たち一人一人に人とは違った能力を与えています。君たちは自分にどのような能力が与えられているかまだ自覚していないと思いますが、いずれ将来その能力を生かして人のために役立つ使命が与えられています。これからの6年間、私たちは君たちと一緒に勉強し、生活する中で君たちの能力を引き出し、君たちの使命を探すお手伝いをしたいと考えています。先生方も後で紹介しますが、中学ではたさんの先生方に教わることになります。先生方はそれぞれ個性も性格も違いますが、君たちに最高のものを与えようという気持ちは同じです。それぞれの先生方から良いものを受け取ってください。

  そしてこの6年間良い友人をたくさん作ってください。君たちがこれから長い人生を生きていくうえでいちばん頼りになるのは良い友人です。これから生涯つきあっていくことになる友人が必ずこの中にいますから、心して友人を探してください。ともあれ来週からいよいよ授業が始まります。まずはしっかり勉強に取り組んでください。淳心学院が君たちにとって素晴らしい出会いと成長の場になることを願っています。頑張ってください。

 

 

 

2017/03
卒業生はなむけの言葉

 卒業生の皆さん、保護者の皆様ご卒業おめでとうございます。君たち58回生が卒業という栄えある日を迎えられたことを心からお祝いいたします。

 君たちは、私が校長になった年に淳心に入学してきて、校長としての6年間をつきあってくれ、卒業して送り出す最初の学年なので、私としてもとりわけ感慨深いものがあります。J1の宗教の授業も君たちが最初の経験でした。

 君たちはこの淳心の6年間の間に心身共に大きく成長しました。身体的には立派に大人の体格となり、精神的にも大人としての自覚をもち、学力的にも大学に進学するだけの力を身につけるにいたりました。さらに生涯つきあうであろう友人をたくさん得ることができ、教員との良い信頼関係もできたのではないかと思います。これらはひとえに保護者の方々の物心両面にわたるサポートの賜物として、君たちはご両親に深く感謝しなければなりません。さらに本校の建学精神であるキリスト教についてもいささかなりと理解してもらえれば幸いです。

 さて、君たちは東日本大震災が起こった年に入学してきました。君たちが入学してきた時、あの震災からまだ一月もたっていなくて、世間の雰囲気はあまりの被害の大きさと犠牲者の多さに茫然としていて、まだ不安と混乱が色濃く残っていたような気がします。あれから6年が経過していますが、被災地の復興はまだまだ道半ばであり、原発の被害については廃炉がいつ実現するのかまだメドすらたっていない状態です。それ以降も去年の熊本地震など地震や台風の災害が各地で発生して、残念ながら今日本は、一つの災害の復興が終わらないうちに次の災害がくるという状態になっています。さらに少子化、人口減少も着実に進行しています。去年とうとう一年間の子供の出生数が百万人を割りました。これは戦後初めてのことですが、既に大都市圏以外の地方の人口減少は、若者の人口流出も含めてはっきりした形で表れています。そして地方における人口減少が、災害からの復興を遅らす要因ともなっています。

 君たちはこのような困難が予想される社会に旅立っていきます。日本の社会の将来のあり方についての責任は、否応なく君たちの双肩にかかってきます。君たちはまず大学で自分に与えられた能力に磨きをかけ、社会で役立つ力量を養っていかなければなりません。神様から与えられた能力は皆それぞれ違うのですから、まずは自分に与えられた能力を最大限引き出すことに努力すべきでしょう。そして私が皆さんに言いたいことは、積極性と柔軟さを身につけてほしいということです。大学を卒業して社会に出てから、さまざまな仕事が君たちに与えられると思いますが、どんな仕事であっても一つのチャレンジとして取り組む積極性をもってほしいのです。与えられる仕事は必ずしも自分のやりたい仕事でないかもしれませんが、全力で取り組むことによって自ずと開けてくる道があると思います。それと同時に自分の置かれた立場を冷静に判断し、まわりの状況をよく理解した上で、まわりの人と協調しながら仕事をやり遂げていく柔軟さも必要です。とにかく仕事が成果をあげていくためには、まわりの人と上手にコミュニケーションをとること、まわりの人の信頼を得ることは絶対に必要な条件です。社会における仕事がうまくいくかどうかは、結局人間関係にかかっていると思います。

 君たちが活躍する20年後、30年後の社会・世界がどうなっているか正確にわかる人は誰もいないでしょう。そうした先の読めない不透明な社会を生きていくなかで、月並みな言い方ですが夢と希望は常に持ち続けてもらいたいと思います。社会のなかにおける自分に与えられた責任をしっかり果たしつつ、自分自身の幸福追求も誠実におこなってください。自らの幸福追求が同時にまわりの人の幸福につながっていけば、それは本当に素晴らしいことだと思います。君たちの前途に神様の祝福が豊かにあることを願って、はなむけの言葉とさせていただきます。

2017/02
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』について

  しばらく前からそれなりに評判になっている、矢部宏治氏の『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』を読みましたが、内容が衝撃的なので少し紹介したいと思います。矢部宏治氏は1960年、兵庫県生まれ、慶應大学文学部卒で1987年から書籍情報社代表ということで多数の著作をされている人物です。本の内容はバート1からパート5に分かれているので順に見ていきます。パート1は沖縄の謎で、最近オスプレイが沖縄の海岸近くに不時着(墜落)時に規制線が張られて、日本の警察などが全く近づけないなかで、米軍が機体の回収などを行ったことの理由が書かれています。結論からいうと、日米安保条約及び日米地位協定が日本国憲法の上に存在していること、及びそれに伴って設置された日米合同委員会が日本政府の上に存在しているということです。そして日本国内において在日米軍は日本政府の制約を受けずに自由に活動する権利があるということで、これは戦後直後のアメリカの日本占領時と何ら変化していないということです。矢部氏はそのことの例証として東京を中心とする首都圏上空にも、横田空域という米軍の管理空域があって日本の飛行機がそこを飛べないようになっている事実をあげています。まさに驚くべき内容ですが、矢部氏はこれらの事実はアメリカが公開している公文書によって立証することができるとしています。パート2は福島の謎で東日本大震災による福島の重大な原発事故の後、多数の国民が原発の廃止を望んでいるのに政府が原発再稼働などの政策をとる原因の1つは、日米原子力協定にあるとしています。つまり原子力に関しても日米地位協定のような日米原子力協定という日米間の取り決めがあって、原発の運用についてアメリカの承認がないと日本側が勝手に「脱原発」とか決められないようになっているというのです。これも事実とすればゆゆしき問題だと思います。パート3は安保村の謎①で日米関係の重要文書はすべて最初は英語で書かれていると指摘しています。たとえば1946年の昭和天皇のいわゆる「人間宣言」、サンフランシスコ講和条約、日米安保条約、そして最も大事なのが日本国憲法です。日本国憲法の草案は1946年の2月4日から2月12日にかけてGHQによって書かれました。このことは現在では多くの日本人が知っています。しかし矢部氏によれば日本国憲法をめぐる問題は①占領軍が密室で書いて、受け入れを強要した。②その内容の多くは(特に人権条項)、日本人にはとても書けない良い内容だった。という2つの面をもっていて、これが現在の改憲論と護憲論の左右両派の対立になっていると指摘しています。しかし私にとって本当にショックだったのは、矢部氏が戦前「天皇機関説」で有名だった美濃部達吉氏の枢密院の憲法審議の時の発言を紹介している箇所です。美濃部氏はそこで「現在進行中の手続きによると、草案を勅命によって議会に提出し、天皇のご裁可によって憲法改正が成立することになる。それにもかかわらず、前文では、国民みずからが憲法を制定することになっていて、これはまったくの虚偽である。」「民定憲法は国民代表会議をつくってそれに起案させ、最後の確定として国民投票にかけるのが適当と思う。現在のやり方は虚偽であり、このような虚偽を憲法の冒頭にかかげることは国家として恥ずべきことではないか。」という発言をおこなって枢密院の採決でただ一人反対票を投じたという事実です。矢部氏も指摘しているように近代民主主義国家における憲法制定の手続きは、政府が草案をつくるのではなく、国民代表会議をつくって草案を作成し、その後国民投票にかけて決定するというのが通常の手続きで美濃部氏の発言は正論です。制定過程のこの問題にまったく気づいていなかったことは社会科教師として忸怩たる思いです。パート4は安保村の謎②で国連について書いています。国連(ユナイテッドネイションズ)は連合国とも訳すことができ、日本との戦争が終了する前に、連合国の後の常任理事国になる国を中心につくられたことはよく知られた事実ですが、その国連憲章の中に「敵国条項」というのがあります。この敵国条項の主要な対象はドイツと日本であり、その目的はドイツと日本の永久的かつ有効な非武装化であり、これら2カ国の支配である、と執筆者が起草委員会で述べたことが議事録に残っているそうです。そして日米安保条約は日本の再軍備を阻止し日本を封じ込めることも目的にしていると指摘しています。また米軍機は日本各地で低空飛行訓練をしていますが、これはいつでも日本の原発を標的に爆撃するというオプションをもっていることを意味するとも指摘しています。またフランスの国連憲章の解説書によれば、敵国条項の当事国であるドイツは戦後の一連の外交努力によってソ蓮などとの関係を改善し、敵国条項を無効にしたと書かれているそうです。パート5最後の謎ではこれらの問題の本質は、占領終了後の米軍の駐留を日本側から働きかけたことにあるとしています。そしてその理由としてその当時の日本の支配層の共産主義革命に対する恐怖をあげています。憲法9条を執筆したケーディスは、その目的を日本を永久に武装解除されたままにしておくことでしたと述べたそうです。矢部氏は在日米軍基地と憲法9条2項、そして国連憲章の敵国条項の問題は密接にリンクしている。どれか1つでも解決しようとすれば、必ず3つをセットで考え、同時に解決する必要があると主張しています。以上大変に考えさせられる内容の本だと思います。

2017/01
展望2017

  新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

  今年の正月は本当に穏やかな年明けとなりました。この1年が災害のない平和な1年となるよう祈りたいと思います。

  さて、淳心は今年は改革4年目を迎え、改革学年はM4になり高校生になります。大学進学という目標がいよいよ現実のものとして感じられるようになる時期だと思います。淳心はいうまでもなく6つの学年からなり、それぞれの学年に平等に必要な配慮とサポートを行っているつもりですが、世間的な期待と評価が改革学年に向けられていることも事実です。そうしたことも踏まえて今年も各学年、一人一人の生徒の確かな成長のために頑張っていきたいと思います。ところで去年の暮れに気になるニュースの発表がありました。2016年に生まれた子供の数が100万人を割ったというニュースです。1年間に出生する子供の数はここ20年ほど毎年確実に減少していましたから、いつかはこうなるだろうと予想していましたが、ついにその年がやってきたということです。もちろんここまで出生数が減少したのは戦後70年で初めてのことです。原因はいろいろ考えられます。出産適齢期にある女性の絶対数の減少や結婚しない男女の増加などが理由としてあげられていますが、私は今の日本の社会で子育てをしていくことに不安をもち、子供をもつことを躊躇している人たちがいるのではないかと思っています。今の日本の社会の気分を一言で言い表せばそれは「将来に対する不安」でしょう。これはもちろん簡単に解決できる問題ではありません。いずれにしても子供の数が減り続けているということは、教育の世界、学校にとっては厳しい現実が続いていくことを意味しています。

  目を世界に向けると、具体的に何をおこなうか全く未知数のトランプ大統領のスタートの年であり、フランスの大統領選挙やドイツの総選挙が行われる年です。現状に不満をもった排外的なナショナリズムのうねりが先進国で今年も継続していくのか注視していかなければならないでしょう。国内でも今年の何時の時点でか総選挙が行われる可能性が高いようです。「将来の不安」を解決するためにはどうしたらよいか真剣に考えていかなければならないと思います。

2016/12
回顧2016

  今年淳心学院は改革3年目を迎え、M3の授業にベルリッツを導入し、英会話力とコミニュケーション力の更なる向上をめざしています。またJ1キャンプを琵琶湖のマキノから広島県福山市の常石ビレッジに場所を変更しました。主なプログラムはカッター訓練としまなみサイクリングで、内容はハードでしたが良いキャンプでした。M4の修学旅行は久しぶりに東北・北海道を訪れ、自然の美しさと歴史に触れ、これも久しぶりのトラピスト修道院訪問も印象深いものでした。M3の長崎研修も今年は初めて五島まで足を延ばしました。歴史的な教会を見学し、生徒たちは民泊によって得難い経験をしたようでした。

  世界の動きとしては、6月のイギリスのEU離脱決定と11月のアメリカ大統領選でのトランプ氏の当選が、大方の常識的な予想に反した衝撃的な結果となりました。2つの結果に共通しているのは、グローバリズムによって恩恵を受けていない先進国の中間層や労働者の人たちの現実に対する不満と怒りが、本当に無視できない巨大な力となっているという事実です。この巨大な力は今のところ残念ながら内向きのナショナリズムと拝外主義に向かっています。先進国は民主主義の社会ですから多数派の人々の意見は尊重しなければなりませんが、この流れが他国との対立や移民の排除につながっていくとすれば、それはやはり危険な方向といわざるを得ないでしょう。来年以降これらの動きがどうなるか注視していきたいと思います。

2016/11
アメリカ大統領選挙

  11月8日におこなわれたアメリカの大統領選挙で、大方の予想に反して共和党のドナルド・トランプ氏が大統領に当選しました。民主党候補のヒラリー・クリントン氏と並んで、2人とも「嫌い」と言う人がそれぞれ50パーセント前後もいる「嫌われ者」同士の選挙戦で、内容も政策論争よりも互いの非難、中傷が多かったようで低調な選挙戦の末の結果でした。トランプ氏は共和党の主流派の政治家たちからも支持されず、多くのマスメディアからも批判される中での勝利でした。今回トランプ氏を大統領に押し上げた人たちは、グローバル化によって生活にダメージを受けている白人の中間層や労働者の人たちだといわれています。彼らがGDPの伸び率や失業率や株価など景気の指標は決して悪くないアメリカ経済のなかで、恩恵を受けているのは一部の金持ちとエスタブリッシュメントだとして、そしてクリントン氏は彼らの代表だとして、今まで政治的経験の全くないトランプ氏に現状の変革を託したということのようです。とにかく現状のアメリカの政治に不満と怒りを持つ人たちのバワーはそれだけすさまじいものだったということでしょう。トランプ氏の選挙戦での主張は「アメリカ第一主義」で具体的には保護貿易と移民に対する厳しい対応です。(特にヒスパニックとイスラム教徒に対して)彼が大統領になって実際に保護貿易的政策を実施すれば世界経済に与える影響は小さくないでしょう。ただ彼はもともと実業家ですから本当に保護貿易的政策をとるかどうかは未知数ですが、とらなかった場合は、今回彼を支持した人たちの支持を失うリスクはあります。

  日本にとってはTPPはまず駄目でしょうし、米軍の駐留経費のさらなる負担を要求されることになるでしょう。経費の負担をしなければ本当に米軍を日本から撤退させるのでしょうか。これも未知数です。とにかくこれからの彼の任期の4年間、今までの国際政治の常識にあわない決定をトランプ大統領がするかもしれないし、しないかもしれません。目が離せないでしょう。2020年の東京オリンピックまでが彼の任期です。それとイギリスのEU離脱の決定もそうでしたが先進国のなかで、グローバル化でダメージを受けている中間層の人たちの不満と怒りは相当なものなので、これを上手におさえていかないと、ナショナリズムと排外主義という危険な方向が支持されていくことが危惧されます。

2016/10
M4修学旅行

  9月26日(月)から9月30日(金)までM4の東北・北海道の修学旅行についていきました。今回は生徒の引率とは別に、災害について考えさせられた旅行でした。まず伊丹空港から仙台空港まで飛行機で飛んだのですが、仙台空港は東日本大震災の時、津波で一時使用不能になったとバスガイドさんが言われました。さらに高速道路で塩竃に向かう途中、津波は高速道路の橋脚まで到達して止まったと言われました。地形的には高速道路は海から数㎞内陸にあり、橋脚の高さは5~10m程もあるでしょうか。海からそこまでは確かに非常に平らな地形ですがそれら一面が津波によって海水に浸かったということです。もちろん家もたくさん建っています。それから塩竃の蒲鉾屋さんで昼食を食べました。塩竃の街は津波でそれほど大きな被害は受けなかったようなのですが、それでも建物の壁や電柱のいたるところに津波の時海水が上がってきた所の線が引かれていました。塩竃から遊覧船に乗って松島に向かいました。松島はご存じの通り海面にたくさんの島が点在している地形です。ここも大震災で津波が来た時、たくさんの島が防波堤の役割を果たして他より被害は少なかったと言われましたが、有名な瑞巌寺を訪れると海から続く参道は今だに修理中でした。私は震災から1年後の夏に海沿いの気仙沼、陸前高田、大船渡の街を訪れましたが、どの街も海岸沿いの平らな地形の所はすべてが津波に流されて何もありませんでした。それからそれらの街を訪れていませんが、報道で知る限り住宅は高台移転ということで内陸の奥まった所に集団で移転し、海沿いの平らな土地は土盛りをして地面をかさ上げするという工事をしているようです。しかし震災から5年半が経過していますが、それらの工事が完成したという報道はありません。震災の被害を受けた地域があまりにも広範囲で、なおかつ過疎化が進行している地域が多いことは事実ですが、それにしても震災の復興が遅れ気味であることは間違いありません。

  さて旅行は盛岡から新しく開通した北海道新幹線に乗って函館まで行き函館、洞爺湖、札幌と北海道を北上していきます。久しぶりに訪れたトラピスト修道院では案内の修道士の方が代わっていて、今回初めて聖堂のオルガンでバッハの曲を演奏していただいて感動しました。北海道でも8月に上陸した台風10号の被害の跡が残っていて、バスガイドさんが指摘されましたが、洞爺湖では道路周辺などで倒れた倒木があちこちでそのままになっていましたし、テレビのローカルニュースでは十勝地方などで作物が全滅に近い被害を受けた所があることを報道していました。それと今回の旅行で感じたもう一つのことは地方で人口減少が確実に進行していることで、函館などはかつて30万をこえていた人口が現在26万人ということでやはり街の活気が以前に比べて失われている印象を受けました。東北・北海道に関していうと人口が増えているのは札幌と仙台だけであとは軒並み人口が減少しています。これは東京圏以外、全国に共通する現象です。災害に関していえば熊本地震の被害の復興も相当長期になりそうな気配です。結局今の日本は一つの災害の復興が終わらないうちに次の災害が来ている状態で、なおかつ地方では人口減少によって基本的なマンパワーが落ちているために復興に以前よりも時間がかかるという悪循環に陥っています。とにかく日本はもともと災害が多い国ですから災害に強い国土を作っていくことは当然で、それと同時に高齢者の多い被災者が増えていくなかで、そうしたひとびとに丁寧に寄り添っていくこともしていかなければなりません。生徒諸君に大きな課題が待ち受けていることを感じた旅行でした。

2016/09
スペイン訪問記

  8月20日(土)から29日(月)まで家内とスペインに行ってきましたので、それについて少し書かせていただきます。スペインは歴史の古いカトリック国で周囲に知り合いのスペイン人の神父やシスターもいたのに、私も家内も今まで一度も行ったことがなかったので是非行ってみたい国でした。今回訪れたのはマドリード、トレド、アビラ、バルセロナの4つの都市です。天気はずっと快晴で雲一つない天気でしたが、気温は連日30度以上でやはり暑かったです。湿気はないので空気は乾いていますが日射しはかなり強いです。朝は涼しいのですが、夜はレストランが開くのが午後8時からでそのころまで暑い状態が続きます。マドリードではまずプラド美術館に行きました。ここは絵の多さでは世界有数の美術館だと思います。イタリアのボッティチェリやラファエロ、ティツィアーノやティントレットの作品、フランドルのボスやメムリンク、ルーベンスの作品、さらにドイツのデューラーの作品などがありますがやはり中心になるのはスペインのベラスケス、エル・グレコ、ムリーリョ、ゴヤなどの作品でしょう。特に有名なベラスケスの、王女マルガリタを中心に描いた「ラス・メニーナス」(女官たち)という作品が美術館の中央の一番いい場所に展示してあって、アムステルダムの国立美術館におけるレンブラントの「夜警」に相当する位置づけなのだなと思わされました。マドリードではまた近郊のエルエスコリアル修道院に行きました。ここはスペインが最も繁栄した時代の国王フェリペ2世が建造したもので、王宮と修道院と礼拝堂があわさった広大な建物で山の近くの風光明媚な所にあり、フェリペ2世の居室は装飾は質素ですが、窓からの周囲の景色は素晴らしいものでした。地下は歴代国王の墓所となっています。マドリードからローカル列車で小1時間の所にあります。次のトレドは16世紀にマドリードが首都になるまで首都がおかれていた古都で、周囲をタホ川と城壁に囲まれた印象的な街です。街の中央にカテドラルがあり、スペインの首座司教座が置かれていてスペインカトリックの総本山と言われている教会なのでその規模と荘厳さは素晴らしい。絵もいろいろありますがエル・グレコの「聖衣剥奪」のイエスの赤い服の色は印象的です。サント・トメ教会のエル・グレコの「オルガス伯の埋葬」の絵は有名です。また「エル・グレコの家」はエル・グレコが住んでいた家を改築してアトリエに彼の「トレドの景観と地図」や「12使徒」の絵などが展示してあります。トレドではパラドールに宿泊したのですが、タホ川をはさんだ街の対岸の丘の上に位置していて街の景観が一幅の絵のように素晴らしい所でした。次のアビラはカルメル修道会を改革したアビラの聖テレジアゆかりの街です。ここではカテドラルとアビラの生家があった場所に立つサンタ・テレサ修道院、そして聖テレジアが20年間生活したといわれるエンカルナシオン修道院を訪れました。16世紀の簡素な修道院の雰囲気の中で彼女の凛とした修道生活が想像されました。最後はスペインの新幹線に3時間ほど乗ってバルセロナです。バルセロナは地中海に面したモダニズムの雰囲気のあるしゃれた街です。イスラム料理店やインド料理店もあってマドリードよりも外国人が多く住んでいる感じです。まずはゴシック地区と呼ばれる中心部に行き、カテドラル、王の広場、ピカソ美術館、サンタマリアデルマール教会をまわりました。次いでバルセロナで最も有名な観光名所であるアントニオ・ガウディが建築を始めた未完のサグラダ・ファミリア教会に行きました。一度見たら忘れないユニークな塔を8本持った教会で、聖堂の内部もすべてユニークな曲線の柱で出来ていて、ちょうど昼過ぎに訪れので祭壇の西側のステンドガラスから射し込むオレンジ色の光が素晴らしかったです。聖堂の内部は既に完成していて、前教皇ベネディクト16世によって祝別された写真がありました。外側の塔を含めた完全な完成はガウディの死後100年となる2026年になるそうです。それからガウディが手がけた家の建築であるカーサ・バトリョ邸に行きました。自然をテーマにして様々な仕掛けをもった家で、まるで小さなテーマパークのようで興味がつきません。道路に面した壁面も大変ユニークで見方によっては動物の顔のようにもみえます。バルセロナの街にはガウディが手がけたユニークな家がいくつもあるのです。さらにオペラ劇場としてのリセウ大劇場、あらゆるジャンルの音楽のための装飾や色彩が非常にきれいなカタロニア音楽堂を見学しました。最後の日はモンジュイックの丘に登り、ロマネスク教会美術とゴシック教会美術の収集が素晴らしいカタロニア美術館、1992年にオリンピックが行われたオリンピックスタジアム、さらにモンジュイック城に行きました。モンジュイック城からのバルセロナ市街と地中海の眺めは素晴らしかったです。こうして初めてのスペイン旅行は終わりました。旅行中に接したスペイン人は、人なつこいイタリア人に比べ概して生真面目な印象を受けました。しかし教会建築や美術などで随所に深い精神性を垣間見ることができました。また機会を改めて、今回行けなかった南部のアンダルシア地方を含めて是非再訪したいと思います。

2016/07
イギリスのEU離脱

  先日の国民投票でイギリス国民はEU離脱を選択しました。ただ離脱と残留の両派の勢力はほぼ拮抗していたので、離脱に賛成したイギリス人が半数強いたということになります。報道によると、20代・30代の若い人たちは残留支持が多く、60代以上の高齢者は離脱支持が多かったようです。イギリスがEU(当時はEC)に加盟したのは1973年(当時私は高校3年)のことで、それから43年間が経過しているので、現在20代・30代の人たちはEUに加盟しているイギリスしか知らないということになります。それに対し60代以上の人たちはほぼ成人するまでは、EUに加盟していないイギリスというのを経験しているので、EU以前とEU以後の比較が可能だということになります。私の個人的経験を述べると、物心ついた時にはEEC(ヨーロッパ経済共同体)という西ドイツ、フランス、イタリア、ベネルクス3国の6カ国の組織があって、共同市場を作り経済統合を進めている段階でした。1973年にイギリスが加盟すると、以後西欧の加盟国が増加し、1993年にはEUとなって単一の経済市場を結成し、人・物・資本の移動が自由化し、国境管理がなくなりました。さらにユーロという共通通貨が導入され域内は通貨の両替も不要になりました。(イギリスは共通通貨には不参加)また東欧諸国も加盟して現在加盟国は28カ国の大所帯になっています。西欧で加盟していない主要国はノルウェー、スイス、アイスランドだけです。しかし近年、ブリュッセルのEU本部で主要なことがすべて決定されることと各国の国家主権との関係、西欧諸国と東欧諸国の経済格差から、移動の自由によって東欧から西欧に移民が多数流入していることなどが問題になっています。今回イギリスの国民投票でも移民の問題は主要な対立点の1つだったといわれています。

  もともとイギリスは日本と同じ島国で、国民感情や歴史的な歩みもヨーロッパ大陸諸国とは一線を画している面がありました。大英帝国という植民地帝国として繁栄しているときには特にヨーロッバ大陸と経済的に結びつく必要がありませんでした。アメリカという大国と歴史的経緯から特別親しい関係でもあります。こうしたことから伝統的にイギリス人は大陸と強く結びかなくてもやっていけるという意識をもってきたと思います。しかし逆に若い人たちはもうEUの中でのイギリスということしか考えられないでしょう。こうした世代間の意識の違いというのはいつの時代にもみられるもので、このことがある意味で歴史の歯車を前に進める役割を担ってきたともいえると思います。その意味では、今回イギリスは歴史の流れを逆戻しにする選択をしたといえるかもしれません。いずれにしても今先進国では現状に強い不満をもち、既存の政治エリートの体制を壊していこうとする人々の発言権が非常に大きくなっています。アメリカの大統領選挙でもそれが顕著にみられますし、今回のイギリスの国民投票もそうした見方ができると思います。こうした流れというのは危険な側面をもっていると思いますが、さて日本の参議院選挙はどうなるでしょうか。今回からS6の一部の諸君も有権者になっています。

2016/06
グローバル教育について

  4月下旬に東京で「カトリック学校校長・理事長の集い」という催しに参加しました。毎年おこなわれているのですが、今年のテーマは「カトリック学校におけるグローバル教育」でした。昨今グローバル教育という言葉をよく耳にします。基本的な意味は現在のグローバル化した世界に適応した人間を育成する教育ということだと思います。グローバル化した世界に適応した人間の育成というのは、まずは日本人と価値観の異なる外国人と仕事をしていくことができる人間の育成ということになるでしょう。これからの時代、海外においても日本においても外国人と一緒に仕事をすることは避けられません。その場合、語学力、コミュニケーション能力、そして日本人と異なる相手の価値観を理解する能力が必要になるでしょう。さらにこれからの世界・社会はこれが絶対に正しいという唯一解のない社会になります。そうした中で活躍していくためには、世界の人々と一緒に協力しあって世界のさまざま問題を創造的に解決していく能力が求められます。今までの既存のやり方ではなく、新しい課題解決方法を考え出す能力が必要とされるということです。

  これに関連して文部科学省は2020年度からの大学入試改革を計画しています。今回の大学入試改革で文部科学省が目指しているのは、今まで以上に思考力、判断力、表現力を問うものにしていこうということです。私は人間を育てる方向性として思考力、判断力、表現力を重視するという方向性は間違っていないと思います。さまざまな問題に対処していく場合、自分の頭で考えて、自分の意見を表明し、行動に移していくというのは必要なことだと思うからです。ただ今までの日本の教育のやり方はこれらの能力を重視してきたとはいえません。基本的に教師の教える知識や公式などを正確に暗記・理解し、さまざまな試験の問題解決能力を高めていくということが教育現場でおこなわれてきたことだと思います。さらに日本の教育では学年・クラスといった集団の和を重視し、集団として力を発揮できることが大事にされてきました。そうした中では個性の強さ、自己主張の強さというのは必ずしも歓迎されなかったのは事実です。

  しかし今、思考力、判断力、表現力を育成するのに有効と考えられている授業の方法として「アクティブラーニング」という方法があります。「アクティブラーニング」とは、教師による一方的な講義形式の授業ではなく、生徒が授業に能動的に参加して課題解決能力の育成をはかるもので、グループディスカッションやディベートなどを取り入れた授業というように説明されています。つまり「アクティブラーニング」とは「対話」や「検討」を中心にした授業で、この授業では人と異なった意見を表明することが重視されます。こうした授業のやり方は日本ではあまり馴染みがありませんが、欧米では普通のやり方だと思います。ですから今、文部科学省が進めようとしている方向性は日本の教育システムを欧米のものに近づけようとしているといっていいかもしれません。

  私はこの方向性に先程も書いたように必ずしも反対ではありません。ただ教育のシステムを変えるということは、まず生徒を教育する教師から変わらなければなりませんが、私を含めて現場の教師は「アクティブラーニング」の養成を受けていません。ですから本格的にこうした方向性に変えていくのであれば、まず教師の養成から始めなければなりません。これはなかなか大変な作業です。そしてこうした教育システムの変化は日本人の教育観を大きく転換させるものになるかもしれません。文部科学省が進めようとしているこうした方向性が確固としたものになるかどうか、これからいろいろ紆余曲折があると思います。私たちはそれをしっかりと見守っていかなければならないでしょう。  

2016/05
ユリウス・カエサル

  2月に下見でイタリアに行き、ローマでフォロロマーノを再訪したのをきっかけにローマ帝国の話が読みたくなり、塩野七生さんのローマ人の物語の「ユリウス・カエサル」を読みました。ユリウス・カエサルは(ジュリアス・シーザーという呼び名の方が有名かもしれませんが)それまで共和制だったローマの政体を帝政に変革しようと努力したローマ史上最大の政治家の一人です。塩野さんはそれなりに人物評は辛口ですが、カエサルについてはかなりの尊敬と共感をもって描いているように思えます。イタリアの高校の歴史の教科書には「指導者に求められる資質は、次の5つである。知性。説得力。肉体上の耐久力。自己制御の能力。持続する意志。カエサルだけが、このすべてを持っていた。」と書いてあるそうです。

  カエサル、正確にはガイウス・ユリウス・カエサルはユリウス一門という古くまで遡れる名門貴族に連なるが、特別裕福でない家に姉と妹に挟まれた一人息子として生まれ、母親の愛情を一身に受けて育ったようです。「生涯を通じて彼を特徴づけたことの一つは絶望的な状態になっても機嫌の良さを失わなかった点であった。楽天的でいられたのも、ゆるぎない自信があったからだ。そして、男にとって最初に自負心をもたせてくれるのは、母親が彼にそそぐ愛情である。幼時に母の愛情に恵まれて育てば、人は自然に、自信に裏打ちされたバランス感覚も会得する。」と塩野さんは書いています。カエサルの母親アウレリアは学者一家の出身で教養の高い女性として有名でした。当時上流階級の家では子女の教育にギリシア語のできる家庭教師をつけるのが普通で、彼女もカエサルにギリシア語と完璧なラテン語のできるガリア人の家庭教師をつけ、この2つの言語をきちんと習得させたのでした。カエサルの青年時代、ローマの政治は「民衆派」のマリウスと「元老院派」のスッラという2人の将軍による軍事的抗争がおこなわれていて、互いにローマを制圧すると反対派を処刑するという凄惨さであったが、カエサルにとってマリウスは伯父にあたる存在でした。カエサルは16歳で父を亡くして家長となり、同じ年民衆派の執政官(ローマの最高官職)キンナの娘コルネリアと結婚することによって民衆派の立場を鮮明にしました。ところが2年後、小アジアにいたスッラがローマに帰還し民衆派に対する大規模な処刑が始まりました。カエサルもあやうく処刑されそうになり、キンナの娘との離婚を条件に助命されますが、カエサルは離婚を拒否します。もちろんそのままでは命が危ないので彼は小アジア(今のトルコ)に逃げ、そこで現地のローマ軍に志願します。4年後スッラが死去して22歳のカエサルはローマに帰国します。家では娘ユリアが生まれていました。カエサルはローマで弁護士を開業しますがあまりうまくいかず、ロードス島に留学したりして彼は20代に巨額の借金をつくります。借金の内訳は主に本、おしゃれ、女性関係だったようです。30歳でカエサルは会計検査官に選ばれ政治への道をスタートさせます。37歳で宗教儀式を司る祭司や神祇官のトップである最高神祇官に当選し、この職は終身職であったので彼はフォロロマーノに面した最高神祇官の公邸に暗殺されるまで居住することになりました。40歳にしてカエサルはローマの最高官職である執政官(コンスル)に当選し、同時に元老院の影響力を排除するためにスッラのかつての部下で軍事的実力者のポンペイウス、経済界の代表でカエサルの債権者であるクラッススと手を結んで「三頭政治」を開始しました。ポンペイウスには娘のユリアを嫁がせています。カエサルは執政官に就任すると70年前に護民官のグラックス兄弟を死に追いやった「農地法」を成立させました。この法律は農地改革を目的とした法案で国有地の借用に上限を設け、上限以上に借用している者には土地を返還させ、返還させた土地は兵役を終えた者や無産者に再配分するというものです。カエサルは抵抗の強い元老院の採決をパスし、全員参加の市民集会でこの法律を成立させました。

  1年間の執政官の任期を終えたカエサルは属州総督としてガリアに赴任します。この属州としてのガリアの範囲はだいたい現在のフィレンツェ以北の北イタリア(この地域はまだローマ直轄l領でなかった)とマルセイユを中心とした南フランスでした。任期は5年間。この任期中、彼はローマ軍団を率いてガリア人との戦闘に終始しガリアの平定に力を尽くすことになります。このガリア人との戦闘の記録が有名な『ガリア戦記』です。カエサルがガリアと呼んだ地域は現在のライン川以西の西ヨーロッパにあたります。もう少し詳しく戦闘地域を見てみると、1年目は東部フランス、2年目ベルギー、3年目西部フランス、4年目はライン川を渡河したドイツとドーヴァー海峡を渡ったイギリス、5年目は再度イギリスと北フランス、6年目はベルギーとドイツと北フランス、7年目はヴェルチンジェトリクスという指導者の下に結束して総決起したガリア人との中部フランスのアレシアでの決戦となります。カエサルはアレシアでの決戦に勝利してガリアを平定しました。以後ガリアはローマ化され、ローマに対する反乱は起きなくなります。この間三頭の一人クラッススは中東のパルティアで戦死していたので、元老院派はポンペイウスを味方にしてカエサルに対抗しようとします。50歳のカエサルは軍事的対決を決意し軍団を率いてローマと北イタリア属州の境界のルビコン川を渡りました。「賽は投げられた。」です。カエサル軍の南下にともないポンペイウスと元老院派の人々はイタリアを捨ててギリシアに渡ります。翌年ギリシアのファルサルスで決戦がおこなわれ、カエサルが勝利しポンペイウスはエジプトに逃れてそこで殺されます。エジプトにポンペイウスを追っていったカエサルはそこで姉と弟の王位争いに巻き込まれ、姉のクレオパトラを王位につけます。そして有名なクレオパトラとのロマンスが生まれます。さらに北アフリカとスペインの元老院派の残党を制圧し、ローマに凱旋して独裁官に就任し帝政化をめざして矢継ぎ早に改革を実施します。そして反対派の反乱がすべて制圧されてからわずか1年後の3月15日、カエサルは元老院で暗殺されました。55歳でした。カエサルは共和制のローマの統治形態に固執する元老院派の人々に対して、領土が飛躍的に拡大したローマの統治形態として多民族総合国家としての帝政を目指し実現直前に倒れたわけですが、この統治形態は彼の後継者によって実現されました。

  なお、ヘンデルのオペラ『ジューリオ・チェーザレ』(ジューリオ・チェーザレはユリウス・カエサルのイタリアb語読み)はユリウス・カエサルを主人公としたヘンデルのオペラの最高傑作の一つです。

2016/04
新入生はげましの言葉

 新入生の皆さん、保護者の皆様ご入学おめでとうございます。淳心学院は皆さんを心から歓迎いたします。新入生の諸君、きみたちはこれからの6年間、神様の恵みのうちに心身共にめざましく成長することになります。

 神様はこの世界すべてをつくられた方ですから、君たち一人一人も神様からかけがえのない存在として生命を与えられ、愛され、大事にされています。まずこのことを胸のうちにおさめておいてください。そして神様は君たち一人一人に人とは違った能力を与えています。君たちは自分にどのような能力が与えられているかまだ自覚していないと思いますが、いずれ将来その能力を生かして人のために役立つ使命が与えられています。これからの6年間、私たちは君たちと一緒に勉強し、生活する中で君たちの能力を引き出し、君たちの使命を探すお手伝いをしたいと考えています。先生方も後で紹介しますが、中学ではたくさんの先生方と関わる事になります。先生方はそれぞれ個性も性格も違いますが、君たちに最高のものを与えようという気持ちは同じです。それぞれの先生方から良いものを受け取ってください。

 そしてこの6年間良い友人をたくさん作ってください。君たちがこれから長い人生を生きていくうえで一番頼りになるのは良い友人です。これから生涯つきあっていくことになる友人が必ずこの中にいますから、心して友人を捜してください。ともあれ明日からいよいよ授業が始まります。淳心学院が君たちにとって素晴らしい出会いと成長の場になることを願っています。

 

2016/03
卒業生はなむけの言葉

  卒業生の皆さん、保護者の皆様ご卒業おめでとうございます。君たちが淳心卒業という栄えある日を迎えられたことを心からお祝いいたします。

  君たち57回生は、まず何よりも修学旅行で沖縄に行った最初にして恐らく最後の学年として記憶にとどめられることになると思います。石垣島のあのコバルトブルーの海の色は私にも強い印象として残っています。君たちは淳心に入学してからのこの6年間で,身体的には両親の背丈を追い抜き、学力面では希望する大学に入学できるだけの学力を身につけ、精神的にも大学で未知の人たちと関わり、社会に出てからいろいろな人たちと接する事のできる強さとたくましさを育てることができたと確信しています。そしてこれから生涯つきあっていく多くの友人たちという大きな財産を獲得し、先生方との親しい交わりも続いていくことでしょう。さらに本学の建学の精神であるキリスト教についてもいささかの関心と知識を得てくれたものと思います。

  さて君たちが淳心から旅立ってゆく世界とはどのような世界でしょうか。率直にいって非常に不透明で先の見通せない世界になっているといわざるをえないと思います。グローバル化社会という名のもとで、資本の論理が世界中を覆い尽くす中で、どこの国も貧富の格差が拡大し、中間層が打撃を受けています。そして日々の生活が苦しくなる中で、人々は安易にナショナリズムに頼り、外国人や移民を攻撃する主張に傾いています。日本ももちろんそうした流れと無縁ではなく、隣の中国や韓国とギクシャクする中で、特に若い人たちの間で国家主義的な考え方が支持を広げているようにもみえます。しかしそうした流れに抗して地道に民主主義や平和を守っていこうとする力強い動きもみられます。人口の減少も地方ではそれが目に見えるような形で表れ、ひいては労働力の不足ということが問題になり始め、外国人を入れるかあるいはロボットによって代替させるかといったことが議論になりつつあります。さらに貧困層に属する子供が6人に1人というのは日本の社会の抱える大きな問題です。このように現代の日本の社会は様々な問題を抱えていますが、しかしいつの時代も社会は常に何か問題を抱えていますし、バラ色の未来ということはありません。人間が生きている限り社会から問題がなくなることはありません。しかしその問題のいくつかを君たちが解決していくということはできます。そういう意味において君たちの社会における活躍に期待がかかるのです。

  では君たちはこれからの社会を生きていくにあたってどのようなことを心がけるべきでしょうか。まず自分に与えられた使命を自覚し、自分の生き方に自信をもつことです。すべての人には、それぞれ異なった使命が与えられています。まだそれが何であるかわかっていないにせよ、他の友人たちと自分の能力や性格を比較することによって、自分に与えられた使命がおぼろげながらわかり始めているのではないでしょうか。君たちが大学に進んですべきことは、自分に与えられた使命がどのようものであるかをできる限り明確にし、それの実現に必要な力をより多く身につける努力をすることだと思います。そしてそれがどのような使命であるにせよ、やはり必要とされるのは目標を実現するためにコツコツと努力する忍耐力、困難にあたって簡単にくじけない強い意志力、人との関係をより良いものにしていくコミュニケーション能力、そしてもちろん何をするにしても欠かせない専門についての幅広く深い知識といったものになるでしょう。そして特に私がお願いしたいのは、平和を作りだす人になってほしいということです。平和は人々の対立をなくしていくことから始まります。

  ともあれまずは自分自身の幸福を追求してください。それが結果的にまわりの人の幸福につながっていくと思います。君たちの人生に神様の豊かな祝福があることを祈ってはなむけの言葉とさせていただきます。

2016/02
イタリア修学旅行下見の記

  2月1日(月)から6日(土)まで宮崎先生と近畿日本ツーリストの方と3人でイタリア修学旅行の下見に行ってきました。今回はそれについて書かせていただきます。

  行きの飛行機はアラブ首長国連邦のエミレーツ航空23:30発。本番の時には日曜発になります。飛行時間は約11時間です。機内ではそれぞれの座席の前の画面で映画を見たり、音楽を聞いたりすることができます。映画は最新の外国映画、クラシックな名画、日本映画などさまざまなジャンルから100本以上のストック、音楽もあらゆるジャンルの充実したブログラムが揃っていて機内で退屈することはないと思います。食事が2回出ます。あいだの時間は大半が睡眠時間になるでしょう。アラブ首長国連邦のドバイに着くのが現地時間の5:45。ドバイはアラビア風の装飾がところどころに見られる近代的でとても広い空港です。飛行機からターミナルまではバス移動です。トイレがきれいで感心しました。3時間ほどの待ち時間のあと9:00発。ボローニャまでの飛行時間は約6時間半で現地時間12:30着。食事は1回です。いよいよイタリアです。ボローニャの天気は曇り、風が吹いて少し寒かったですが日本より寒いことはないでしょう。マイクロバスでピサまで移動しました。本番は大型バスになります。移動は約2時間。ピサは斜塔があまりにも有名ですが、隣にロマネスク様式の大聖堂(ドゥオモ)、その隣に12角形の洗礼堂があっていずれも見事な建築です。私はピサは初めてでしたが夏は観光客でごったがえすそうです。冬の夕方で観光客はまばらでした。どこでもそうですが中国人と韓国人が多い。それからこの時もそうですが本番の時も、現地在住の長い日本人ガイドが各クラスについて詳しく説明をしてくれます。ガイドは資格試験を受けているそうで知識は半端ではありません。それから約2時間かけてフィレンツェまで移動しました。ホテルは本番で宿泊するホテルですが、中心部まで2キロ程の所にありクラシックでこぎれいなホテルです。部屋も広くはありませんがきれいです。夕食は本番と同じメニューということで野菜サラダ、トマト味のスパゲティ、豚肉のソテーでした。2日(火)終了です。

  3日(水)は天気は曇り、それほど寒くはありません。8:00にホテルを出発して徒歩で中心部に向かいます。約20分程で中心部のシニョリーア広場に到着して朝一番でウフィツィ美術館に入ります。空いています。絵は写真に撮ることが可能です。ここではボッテイチェリの「春」「ヴィーナスの誕生」、レオナルドダヴィンチの「受胎告知」、ラファエロの「ヒワの聖母」、ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」などのルネサンス絵画の傑作を部屋ごとに観ることができます。とにかく冬場の朝早くなので他の観光客が少なく、ゆっくりと観ることができました。1時間程見学した後、ドゥオーモに向かい、まずクーポラに上りました。螺旋階段で上るのは大変ですが、屋上からの眺めはすばらしい。丘陵に囲まれたフィレンツェの街を一望のもとに観ることができます。それから聖堂の中を見学した後、アカデミア美術館に行きミケランジェロの「ダビデ像」を観ました。絶妙な写実性で有名な作品です。それから昼食を食べた後、タクシーでミケランジェロ広場に向かいました。アルノ川をはさんでフィレンツェの眺望が素晴らしい所です。私たちはそこでしばし眺望を楽しんでから、鉄道でアシジに向かいました。本番ではフイレンツェに連泊しますのでフイレンツェの街はゆっくり観ることができますし、班別自由行動や買い物が可能だと思います。夜にアシジの駅に着き、本番はスーパーマーケットで買い物をする予定なので見学に行きました。品揃えはなかなか興味深いものでした。豚のもも肉などをぶらさげて売っています。スーパーでは安い価格のお土産が買えると思います。宮崎先生は奥様にパスタのお土産を買っていました。それからサンフランチェスコ大聖堂近くのホテルに向かいました。大聖堂のライトアップは素晴らしかったですが、残念ながらこれは本番では観られません。3日(水)終了です。

  4日(木)は夜に雨が降って朝から素晴らしい天気になりました。ホテルは丘陵の上にあるので下の平野の眺めは素晴らしいです。私たちは8:00にホテルを出発して大聖堂に向かいました。大聖堂は上層と下層の2つの聖堂からなっていて、フランチェスコの生涯を描いたフレスコ画が美しい。それから街の反対側にあるフランチェスコの同志であった聖クララの遺骸のあるサンタキアーラ教会に向かいます。街の端から端まで歩いても15分ぐらいだと思います。本番は昼前にバスで到着する予定なので2つの教会を見学し、真ん中の広場周辺で自由昼食となるでしょう。私たちはそれから市街を外れて聖クララが修道生活を送り亡くなったサンダミアーノ修道院を訪ねました。とにかくアシジはフランチェスコの爽やかさを感じさせる美しい街です。次に鉄道でローマに向かいました。ローマ到着後ガイドさんとバチカン美術館に向かいました。それからバチカン美術館に入りましたが、展示されているのはギリシア・ローマの彫刻やフランドルのタペストリーによる聖書の物語など様々です。さすがに観光客も午後なので多いです。バチカン美術館の最後がシスティーナ礼拝堂でここの天上画がミケランジェロの「天地創造」、祭壇の壁画が「最後の審判」です。ここはさすがに観光客で一杯です。ここを出て近道を通り、横からサンピエトロ寺院に入ります。ここは入って右手にミケランジェロの「ピエタ」があり、中央の祭壇の下にペトロの墓があるのですが、とにかく巨大な教会です。いろいろなところに歴代教皇が作ったモニュメントと墓があります。ここを見学してから私たちは淳心会のコレジオに行き、そこでかつて淳心にいたことのあるジェローム神父と再会しました。そこで車で30分ほどかかるという本部を2年後の本番で訪問する打ち合わせをしました。なんとか実現するメドはたちました。それからホテルに向かいました。ホテルは中心部から車で15分ぐらいのアメリカ風のモダンなホテルです。部屋も広く設備も整っています。夕食はペンネとお魚の皿でした。4日(木)終了です。

  5日(金)は晴れて暖かです。ローマは冬のこの時期だいたい晴天が続くといううれしいお言葉でした。ホテル出発は渋滞を避けて7:30。コロッセウムに向かいました。コロッセウムの前にあるローマでは一番大きい凱旋門であるコンスタンティヌスの凱旋門を見学してコロッセウムに入場しました。ここはネロの後のヴェスパシアヌス帝が72年に建築させた建物で今から2000年以上前の巨大な石造建築です。中に入るとその巨大さの迫力に圧倒されます。一番高い外壁の高さが約60mあるということで現代のビルの何階に相当するのでしょうか。地下から地上に剣闘士をあげてくる仕掛けなどは現代の劇場のモデルになったものだと思います。3人で映画「グラディエーター」の話をしながら見学しました。それから天気が良かったし、時間もあったのでガイドさんに案内されて皇帝たちの邸宅があったというパラティーノの丘を散策し、それからローマ時代の中心街だったフォロロマーノをゆっくりと見学しました。カエサルが死体を焼かれて遺灰が置かれていたという所には花が供えてありました。カエサルはイタリア人にも人気のようです。とにかく天気が良かったので気持ちのよい見学でした。それからトレビの泉とスペイン階段を駆け足で見学しました。トレビの泉では2年後にまた来れることを願ってコインを泉に投げました。コインはローマ市が回収するそうです。スペイン階段は現在修理中で下から見上げるだけです。2年後には修復されているでしょうか。昼頃にローマの空港に向かいました。帰りの飛行機は14:40発です。後は来た順を逆にたどるわけですが飛行時間は行きより少し短くなって約6時間と約9時間です。

  全体として日本より寒くはないし、観光客も少ないので見学はしやすいと思います。スリとかもあまり見かけませんでした。やはり冬は少ないそうです。警備は今の所厳重で要所には自動小銃をもった兵士が立ち、美術館などのチェックも厳しいです。以上特に大きな問題は感じませんでした。2年後の旅行が無事に実現できるよう祈りたいと思います。

2016/01
展望2016

  新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

  さて、2016年は改革3年目の年となります。改革学年はM3に進級いたします。そろそろ大学進学という将来の進路について意識し始めなければならない年ですから、進路について考える機会を提供していきたいと考えています。また英語の聞く能力、話す能力の向上をめざしてベルリッツを授業に組み込むことを計画しています。さらに去年の秋に改革学年から修学旅行をイタリアに行くことを決定いたしましたが、その準備のため2月に私と宮崎先生でイタリアに下見に行くつもりでおります。引き続きいろいろと試行錯誤を行いながら改革を進めていくつもりですので、どうかご理解ご協力をお願いいたします。

  また今年は夏に参議院選挙がありますが、18歳以上に選挙権を引き下げる法律の改正によって現S6のすべての生徒とS5の一部の生徒に選挙権が与えられます。選挙で投票することは、参政権として国民が政治に参画する大切な権利ですから、是非投票に行くよう生徒に話しをしたいと思っています。今年は夏にリオデジャネイロでオリンピックがあり、秋にはアメリカで大統領選挙があります。それぞれ盛り上がりがみられることでしょう。また今年は夏目漱石の没後100年にあたっています。彼は49歳という若さでこの世を去ってしまいましたが、彼が提起した近代人の孤独、淋しさといったことについて改めて考えてみたいと思います。

2015/12
回顧2015

  2015年が終わろうとしています。今年は淳心にとって改革2年目の年でした。コース制を導入した改革学年はJ2に進級し、去年からの改革は継続しています。今年は新たに国際教育室を立ち上げ、グローバル化社会に対応した国際教育を検討し、具体策を提案してきました。そうした中で去年から導入しているベルリッツの利用をさらに拡充し、語学研修旅行をカナダからニュージーランドに変更しました。さらに今まで国内で実施してきた修学旅行を海外、イタリアで実施することを決定いたしました。グローバル化社会にあって高校生の時に海外を経験することは、非常に意義があると思います。またカトリック学校である淳心にとってカトリックの総本山であるバチカンを訪問することは、自らの存在基盤を確認することになりますし、ローマ、フィレンツェという歴史的、文化的に非常にに魅力のある都市を旅行することは、生徒の今後の人生にとって大きな実りをもたらすことと期待しています。

  さて、今年は戦後70年という節目の年でした。日本の明治以降の近代の歴史を振り返り、特に戦後の70年の歩みについてその意味を考える機会が与えられました。つきつめていえば戦前の日本は常に対外戦争をおこなっていたのに対し、戦後の日本は敗戦とアメリカの占領を経て平和国家として再出発し、戦争をすることなく70年を経過してきました。この歩みは国際的に誇るべきことだと思います。秋に国論を二分した安保関連法案が可決されたことによって、これまでの平和国家としての歩みが変化していくのかどうか注視していきたいと思います。

  また目を外に転じれば、今年はIS(イスラム国)による日本人人質殺害事件、イスラム過激派によるパリの出版社襲撃事件に始まり、最後にISによるパリの大規模テロ事件で終わろうとしています。ISはイスラム教の鬼子ですが、去年イラク、シリアの一部を占領して国家を宣言してから、今年に入って西欧諸国から空爆をうけても容易に勢力は衰えていないようです。パリのテロ事件では、西欧育ちのイスラム教徒の人たちが自分の育った国に戻ってテロをおこすのではないかと危惧されていたことが現実になっていしまいました。これは西欧のキリスト教社会の中で移民したイスラム教徒の統合がうまくいっていないという点に原因があると思います。しかしこれはとても大きくて難しい問題です。今回の事件でフランスのオランド大統領はフランスは戦争状態にあると発言しました。これから西欧の有志連合プラスロシア対ISの戦争状態になっていくのでしょうか。来年にかけて目の離せない展開となっていきます。

2015/11
難民問題について

 現在、多数のシリア難民がヨーロッパへの受け入れをめざして移動しています。彼らの受け入れをどうするかが大きな国際的関心を呼び起こしています。問題が大きく取り上げられるようになったきっかけは、9月2日シリア難民の3歳の男の子の溺死体がトルコの海岸に流れ着いた写真が世界に報道されたことです。この子は家族とトルコからギリシャにゴムボートで渡ろうとしてゴムボートが沈没し、父親だけ助かり母親と兄も死亡しました。この写真によってシリア難民の問題がにわかに人道問題として取り上げられるようになったのです。今年になって地中海、エーゲ海からヨーロッパに渡った難民の数は36万人に達しているとのことです。

 シリア内戦は2011年にイスラム各国で起こった民主化運動、いわゆる「アラブの春」の1つとして起こった反政府運動がきっかけでした。政府の厳しい弾圧によって反政府側も武力で応戦して内戦となり、ロシアが支援するアサド政権とアメリカが支援する反政府勢力それにイスラム国(IS)が加わり、三つどもえの戦闘となって内戦は泥沼化し、内戦の死者はこの4年間で25万人を超え、国連としても正確な数は把握できないという状況になっています。そうした中で難民として国外に出た人の数はすでに400万人を超えているといわれています。シリアは人口約1800万人の国ですから人口の2割以上の人が国外に出たことになります。難民となった人々はシリアの隣国であるトルコ、レバノン、ヨルダン、イラクにも多数存在しているのですが、多くの人々が安住の地を求めてヨーロッパに向かっているのです。

 こうした状況の中でドイツのメルケル首相は難民を数年間で50万人受け入れると発表しました。イギリスも5年間で2万人の受け入れを表明しました。いうまでもなく難民を受け入れるということは大きな経済的負担を伴います。まず当面住む場所、食べる物、着る物を提供しなければなりません。さらに定住するということになれば大人には仕事、子供には教育を与えなければなりません。シリア人はイスラム教徒ですから、キリスト教社会のヨーロッパにとって文化的摩擦という問題もあるでしょう。ですからヨーロッパの人々も皆が難民の受け入れに賛成というわけではありません。ドイツでも強い反対があります。ハンガリーやセルビアのように難民を受け入れない厳しい対応をしている国もあります。逆にヨーロッパ以外でもカナダやオーストラリアのように受け入れを表明している国もあります。そのようにいろいろな考え方がある中でともかくEU(ヨーロッパ連合)はこの問題をめぐって何度も会議を開いて対応を協議しています。そして難民の受け入れを表明している国も単純に人道的問題として捉えているだけでなく、将来の労働力として期待している面があることは否定できないでしょう。

 ひるがえって日本政府は去年50人ほどのシリア難民が難民申請をしたのですが、一人も難民として認定していません。シリア人に限らなければ約5000人が難民申請をおこなったのですが、認められたのはたった11人です。以前から日本は難民認定の厳しい国ですが、それにしてももう少しなんとかならないのだろうかという数字です。この政府の姿勢には多くの日本人の国民感情も影響していると思います。外国人と一緒に暮らすことに慣れていない、外国人は何となく怖いといった気持ちを持っている人が多いように感じます。しかし日本でも難民の受け入れをおこなった例があります。1975年にベトナム戦争が終結した後、多数のボートピープルが南シナ海に漂流して国際問題になりました。このとき日本は人道的見地から1万人のインドシナ難民の定住受け入れを決定しました。そして姫路市と神奈川県の大和市に難民定住センターを作り、入所した人たちに4ヶ月間日本語や日本の生活習慣を教えた後定住させました。姫路市は定住センターがあった関係でたくさんのベトナム人が居住しています。最初の頃は居住した集合住宅に夜集まって騒ぐなどちょっとしたトラブルはあったようですが、現在特に問題はありません淳心でも生徒がベトナム人の子供に勉強を教えるボランティアをするなど関わったこともありました。今、姫路カトリック教会の日曜のミサには100人前後のベトナム人が参加しています。教会学校の子供の大部分はベトナム人です。これは難民受け入れの立派な成功例といえると思います。キリスト教の最も大事な考え方の一つはつねに困っている人、弱い立場の人の側に立ちなさいということです。人道的見地からシリア難民も含めた難民受け入れの拡大を検討してもよいのではないかと思います。定住した彼らは将来日本にとって役に立つ人たちになることも期待できるのではないでしょうか。

2015/10
安保関連法案の可決について

  国論を二分した安保関連法案が国会で可決されました。これについて反対の立場から少し感想を書かせていただきます。

  安全保障が国家の存立にとって非常に重要な分野であることは間違いありません。今回の問題は去年、安倍内閣が集団的自衛権は違憲であるという従来の内閣の見解を覆して、合憲であるという閣議決定をおこなったことから始まりました。自衛権には個別的自衛権と集団的自衛権の2種類があり、この違いは重要です。個別的自衛権とは外国から自国が攻撃されたらそれに反撃する権利で、個人の正当防衛と同様でいやしくも独立国であるならばすべての国が保有する権利です。日本としてもこれの行使は何ら問題はありません。日本の安全保障は日米安保条約によって日本がアメリカに基地を提供す見返りにアメリカは日本防衛の義務を負っていますから、もしある国が日本を攻撃したら日本の自衛隊とアメリカ軍が共同で対処することになるでしょう。またこの条約によって日本がアメリカの「核のカサ」の下にあることは自明ですから、この条約が日本を攻撃しようとする国にとって抑止力となっていることは事実だと思います。しかしいずれにしても日本が外国から直接攻撃を受けた場合は、すべて個別的自衛権で対処できますから集団的自衛権は必要ありません。

  これに対し今回安倍内閣が成立させた安保関連法案は、集団的自衛権に基づいて自衛隊が海外で武力行使をすることを認める法案です。集団的自衛権というのは軍事同盟関係にある国々が、同盟の利害に基づいて共同で武力行使をおこなう権利ですから、日本が直接攻撃されていなくても海外に自衛隊が派遣されて武力行使をおこなうことがありうるわけです。具体的には日本の同盟国はアメリカですから、アメリカの利害にもとづいた紛争に自衛隊が派遣される可能性があります。いわゆる「アメリカの戦争に日本が巻き込まれる」事態が十分想定されるわけです。そうした事態になれば最悪の場合自衛隊員に犠牲者がでることもありうるわけで、そこまでしてアメリカの要求に応える必要があるかどうか疑問です。

  またこの法案の成立によって安倍首相、自民党、賛成の論者の人々は日本の抑止力が増した、より安全な国になったと言っています。しかしありていにいってこの人たちが考えている日本を攻撃する可能性のある国は中国だと思いますが、中国にとって日米安保条約はすでにそれなりに抑止力になっているわけで、ここで日本がアメリカに追随して海外に自衛隊を派遣することができるようにしたところで抑止力が増したと考えるのは、はなはだ疑問だと思います。安倍内閣が多くの学者、識者の安保関連法案は違憲であるという声を無視し、また国民の半分以上が反対している法案を強行採決したことが将来に禍根を残すことにならないか憂慮されます。

 

2015/09
日本の誇るべき力

 今回は朝日新聞8月4日付け紙面に載った、アメリカの日本戦後史研究者ジョン・ダワー教授のインタビュー記事を紹介したいと思います。戦後70年にあたって非常に示唆に富んだ内容だと思うからです。題はインタビュー記事のものです。まず戦後日本が成し遂げたこと、評価できることについて問われて彼は「世界中が知っている日本の本当のソフトパワーは、現憲法下で反軍事的な政策を守り続けてきたことです。」と答え、その理念がどこから生じたのかについて「日本のソフトバワー、反軍事の精神は、政府の主導ではなく、国民の側から生まれ育ったものです。敗戦直後は極めて苦しい時代でしたが、平和と民主主義という言葉は、疲れ果て、困窮した多くの日本人にとって、とても大きな意味を持ったのです。」と答えています。戦後日本がおこなってきたことで世界に評価されるのは、憲法に基づいた軍事に関わろうとしない姿勢だという指摘は非常に素晴らしい指摘だと思いますが、多くの日本人にとってふだんあまり意識していない事柄かもしれません。ダワー教授はさらにその精神、理念は政府ではなく一般の民衆が支持し支えてきたと指摘しています。私は戦後の日本人が平和と民主主義を強く支持してきたのは、国策としての戦争に国民こぞって協力しながら300万人という膨大な犠牲者をだして完膚無きまでに敗北し、国土は焦土と化し国民は食料不足で飢えに苦しむというていたらくにおとしめた無能な政府に対する怒りと悲しみが、「二度と戦争はごめんだ」という腹の底からの想いを生み出したものだと理解してきました。そこには戦地から帰還した兵士たちの戦地での日本軍の残虐行為、非人間性に対する深い反省、食料不足による飢餓(兵士の戦病死の半分以上は戦闘によるものではなく、栄養失調による病死だともいわれている)をもたらした軍、政府に対する怒り、さらに銃後を守った女性、子供たちの空襲、原爆の被害の悲惨さに対する怒りと悲しみなど様々な想いが積み重なっていると思います。

 さらにダワー教授は日米の外交関係について「戦後日本の姿は、いわば『従属的独立』だと考えます。独立はしているものの、決して米国と対等ではない」と言っています。これは私たち日本人が深く、真剣に考えなければならない問題だと思います。そして最後に彼は「繰り返しますが、戦後日本で私が最も称賛したいのは、下から湧き上がった動きです。国民は70年の長きにわたって平和と民主主義の理念を守り続けてきた。このことこそ、日本は誇るべきでしょう。一部の人たちは戦前や戦時の日本の誇りを重視し、歴史認識を変えようとしていますが、それは間違っている」と述べています。これは自分自身、戦後民主主義の申し子として育ってきたという自負のある私にとっても非常に勇気づけられる言葉です。そして彼は憲法改正についての女性の役割について次のように発言しています。女性の方はどう思われるでしょうか。「朝鮮戦争の頃、国務長官になるジョン・ダレスは、憲法改正を要求してきました。吉田首相は、こう言い返した。女性たちが必ず反対するから,改憲は不可能だ。女性に投票権を与えたのはあなた方ですよ。と。」なおダワー教授には日本の戦後を取り扱った「敗北を抱きしめて」という優れた著作があります。

2015/07
戦後70年

  今年は第二次世界大戦で日本が敗北してから70年の節目の年です。節目の年にあたって記憶しておくべき事柄をいくつか書きたいと思います。

  まず戦前の事ですが、日本は1910年に日韓併合をおこなって朝鮮半島を植民地化しました。それから終戦までの36年間の植民地支配によって朝鮮半島の人々に多大な精神的苦痛を与えました。現在約50万人程日本に居住している在日韓国・朝鮮人の人々の存在も、この植民地支配を抜きにして語ることはできないでしょう。また1931年に始めた満州事変とその後の傀儡国家満州国の建設、さらに1937年に始まった日中全面戦争によって、国土が戦場になった中国に多大な犠牲を出しました。中国側発表で2000万人といわれます。さらに太平洋戦争開始後はシンガポール、フィリピンなどの住民に多くの犠牲者を出しました。これらのアジアの人々の犠牲や精神的苦痛に対して、日本が明確な責任を負っていることは認めなければなりません。

  戦後の始まりですが、ドイツが降伏し単独で連合国と戦っていた日本に対し、1945年7月に連合国からポツダム宣言が出されました。主な内容は日本軍の無条件降伏、軍国主義勢力の除去、戦争犯罪人の処罰、基本的人権の確立、民主的政府が成立するまでの連合国による占領などでした。政府は当初黙殺しましたが広島、長崎への原爆投下、ソ廉の対日参戦などによってポツダム宣言を受諾して降伏しました。昭和天皇による敗戦の放送があったのが8月15日です。9月2日に降伏文書が調印され、連合国による占領が始まります。アメリカがソ連の占領参加を拒否したため、実質的にアメリカの単独占領となりました。占領を担ったのはGHQ(連合国軍総司令部)、司令官はマッカーサー元帥でした。これ以降日本は1952年4月に主権を回復するまで足かけ7年間、アメリカによって占領されました。このことは改めて言うまでもなく戦後の日本に多大な影響を与えました。

  日本国憲法の制定については、1945年の10月にマッカーサーから日本政府に改正の指示があり、幣原喜重郎内閣の松本蒸治国務相が担当となって憲法草案の作成に取りかかりました。しかし政府は基本的に天皇主権を変更するつもりはなかったので、翌年2月にGHQに提示された憲法草案は拒否されました。そしてGHQは内部での作成を決定し、作成チームは民間の憲法研究会の「憲法草案要綱」(国民主権、象徴天皇制を含む)や諸外国の憲法を参照し、約1週間でマッカーサー草案を作成しました。これが日本国憲法の原案となったものです。日本国憲法の3つの特徴といわれている国民主権、基本的人権の尊重、戦争放棄(平和主義)が基本になっています。このマッカーサー草案が3月に政府から「憲法改正草案要綱」として公表され、マッカーサーもただちに支持を表明しました。4月の総選挙の結果、内閣は吉田茂内閣に代わり、衆議院・貴族院の審議を経て10月に憲法草案が可決されました。11月3日に公布、翌1947年5月3日に施行されました。制定過程をみると確かに原案がすべてアメリカ人によって作成されたのは事実ですが、日本政府によってはとうていこのような民主的憲法はできなかったでしょうから、それはやむをえないと思います。日本国民は憲法の民主的内容を評価し、尊重してこの70年が経過したわけで、この歴史的事実は非常に重いといわざるをえないでしょう。とかく議論のある平和主義についても、先の大戦における日本の戦争責任が意識されているわけで、軽々しく変更すべきではないと思います。

  戦後冷戦が進行していくなかで、1949年に中華人民共和国が成立して中国大陸は社会主義化し、1950年に始まった朝鮮戦争によって朝鮮半島の南北の分断は固定化されました。これらの過程のなかでアメリカは日本をアジアにおける強固な同盟国として位置づけることになりました。そして1951年9月8日に占領を終了させるための連合国との講和条約がサンフランシスコで調印されました。ただしこの条約にロシア(ソ連)は調印せず、中国は招請されませんでした。ロシア、中国、韓国との国交回復はこの後の課題として残ります。日本はこのサンフランシスコ講和条約によって主権を回復し国際社会に復帰しますが、領土問題等はすべてこの条約が出発点となります。そしてこの講和条約が調印された同じ日に、日本はアメリカと日米安全保障条約を調印します。これによってアメリカは占領終了後も日本の領土に米軍基地を維持することが可能になりました。この講和条約が発効したのは1952年4月28日ですが、日本の戦後はすべてこのサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が出発点になっていることを忘れてはならないと思います。

  

 

  

2015/06
過保護にならないように

  このテーマはコース別保護者総会で取り上げたのですが、きちんとお話できなかった所もあるので、改めて考えていることを書いてみたいと思います。私は淳心の教育で、社会にでてから自立して生きていける人間を育成したいと考えています。自立して生きていけるというのは、具体的には自分の頭で物事を考え、判断し、行動できる人間です。なぜそうした人間が求められるかというと、これからの社会は残念ながら、かつての高度経済成長の時代のようにすべての人に安定した生活が保障された社会にはならないことが予想されるからです。そうであればこれからの社会を生きていくためには、他人に依存することなく、自らの判断と責任で生きていく力が必要とされると思います。

  それでは自立した人間を育てるため保護者はどのようなサポートをしたらよいのでしょうか。それは基本的には生徒の自立を助けることが、自立を妨げることより望ましいといえるでしょう。具体的には生徒が自分で出来ること、自分でやらなければならないこと、たとえば自分の身の回りのことなどは出来る限り自分でやらせるということだと思います。私は女の子ができていることが男の子ができないとしたらそれはおかしいと思います。生徒が自分でできることを親が世話しているとしたら、それは親が良かれと思ってしていることが逆に生徒のためにならないという場合がありえます。社会にでて自立して生きていけないとしたら最後に困るのは本人です。振り返ってみれば生徒は生まれてからずっと基本的に保護者に依存して成長してきていますが、この中高の6年間が親からの依存から抜け出していく時期にあたります。「このまま親に頼っていてはいけない。自分のことは自分の責任でやらなければならない」と生徒が思うことが自立の第一歩だと私は思います。そして実際に淳心生は大学進学と同時に家を出る生徒が多いです。ですからこの淳心の6年間の間に上手に親離れ、子離れをしていただきたいと思います。

2015/05
見えるものと見えないもの

 新緑が目にまぶしく、風薫る良い季節になりました。 私は校長になってから4年間、その時々のJ1の生徒と宗教の授業を共にしてきました。今回はそこで感じたことを少し書きたいと思います。淳心はいうまでもなくキリスト教主義の学校で私はカトリックの信者ですから、私にとって宗教の授業の目標はキリスト教の考え方を生徒たちにできるだけ理解してもらうこと、そしてできればキリスト教の考え方に共感してもらうことということになります。しかし現実にはごく少数のキリスト教系幼稚園などに通って少しキリスト教に馴染みがあるという生徒を除けば、大多数の生徒はキリスト教に触れたことがほとんどありません。イエス・キリストという名前とクリスマスだけは知っていますという生徒たちに話しを始めます。最初にイエスは名前ですが、キリストは名字ではありませんと言います。キリストは「救い主」という意味でイエス・キリストとは“イエスは「救い主」である”という信仰告白の意味がありますと説明します。そして西暦2015年は何を基準にしていますかと質問します。イエスが生まれた年が基準であることを説明し、キリスト教が世界全体に大きな影響力をもっていることを話します。しかし生徒たちは普通の日本人ですから、当然のことながら仏教的価値観に自然に馴染んでいます。たとえばキリスト教では旧約聖書で神が天地を創造した時に人間を理性的存在として造り、この地上のものを支配する役割を与えたと考えています。しかし生徒たちは、生きとし生けるものは人間も動物も自然の中で平等であるという仏教的価値観に親しみを覚える生徒が多いようです。こうした考え方はどちらが良いとか悪いということではありませんが、考え方の違いというのは理解しておかなければならないと思います。そして生徒たちの考え方を聞いていると生徒たちの多くは科学技術と目に見えるものに信頼をおいている、あるいはそれ以外のものは信頼できないと考えていることが伝わってきます。これは生徒たちだけのことではなく、現代の日本社会が基本的に持っている傾向だと思います。現代の日本社会の便利さ、効率性、快適さといったものがこうした傾向によって維持されていることはまちがいありません。ただ私が宗教の授業で扱おうとしているのは主に目に見えないもの、すなわち“こころ”に関する事柄になります。こうしたことをそれこそ生徒の“こころ”にすんなりと響くように扱うのはなかなか困難なのですが、“私たちが生かされている喜び”とか“私たちが受けている恵みに対する感謝”とか“私たちの悩みに対する癒し”といった事柄を少しでも感じてもらえたらと思っています。そして目に見えないものが、生徒たちがこれから長い人生を生きていく上での支えになってくれればと願っています。

2015/04
新入生はげましの言葉

 新入生の皆さん、保護者の皆様ご入学おめでとうございます。淳心学院は皆さんを心から歓迎いたします。

 君たちが淳心学院に入学してくることは、君たちにとっても淳心にとっても神様の恵みだと思います。君たちはこれから淳心の中で6年間、神様に見守られて成長していきます。それは学力の面においても、心の面でもそして身体の面でもめざましい成長になるはずです。つねに君たちを見守っている神様に信頼して、もちろん自分自身でもできるかぎり努力してください。勉強に取り組むのは自分自身ですが、勉強は一人だけでやるものではありません。前にいらっしゃる先生方の授業をしっかり聞き、出された課題をきちんとこなし、わからないところは何でも遠慮なく質問してください。先生方は君達が質問にくるのを待っています。先生方を信頼して勉強に取り組めば、まちがいなく学力がつきます。そして友達を作ってください。今君たちのまわりにいる人は知らない人が多いでしょうが、その中に必ず生涯の友人になる人がいます。知らない人に積極的に話しかけてください。そして君たちには神様がそれぞれ君自身にしかない能力を与えてくれていて、将来その能力によって君たちが社会の中で人々のために活躍していくことを期待しています。これからの淳心での6年間、先生や友人たちと自分に与えられた能力を探していきましょう。君たちの健闘を心から祈っています。

2015/03
卒業生はなむけの言葉

 卒業生の皆さん、保護者の皆様ご卒業おめでとうございます。

 君たちは6年前に淳心に入学してから、この6年間で心身共にめざましい成長を遂げました。身体的には多くの生徒が父親の背を上まわり、学力的には大学進学に十分な学力を身に着け、精神的にも大人の一歩手前となる精神的大きさ、豊かさを獲得していることと思います。そして君たちは、この淳心における6年間の間にこれから生涯つきあっていくであろう数多くの友人たちと、さまざまの忘れることのできない思い出を得ることができたと思います。君たちが淳心生活で得ることのできた財産は、数多くのかけがえのない友人と教師の先生方との暖かい人間関係、それにここまで育ててくださった保護者の方々への感謝の気持ちだと思います。それに加えてキリスト教的価値観として自分は神様に愛されている存在だという確信をもってくれれば、学校としてこれほどうれしいことはありません。いずれにしても人生の次のステップへの準備は完了しました。

 しかし君たちがこれから大学に進学し、卒業してから活躍していくであろう社会の現状は、君たちも覚悟しているでしょうがそう楽観できるものではありません。日本の人口減少社会というのは、もうすでに現実のものとして立ち現れてきています。地方では過疎化がいよいよ進行を早め、将来的にはかなりの自治体が消滅するという予測が出されました。地方都市においても人口が減少して街にかつての活気がなくなったという声はいたるところで聞かれます。とにかく相対的に若者の割合が減り、高齢者の割合が増えていく社会を君たちは支えていかなければなりません。

 そして目を外に向けてみれば、世界はグローバル社会化ということで世界全体が1つの市場となり、利潤獲得のための激しい競争がおこなわれています。そうした中で少数の大企業、少数の金持ちに富が集中し、中間層が力を失い貧困層が増加して貧富の格差が拡大しているということが指摘されています。こうした問題山積の社会で君たちはどう生きていったらよいのでしょうか。

 まずは自分が将来本当にやりたいことが何かを見きわめ、それを実現できる仕事を探していくことから始めるべきでしょう。この困難な社会の中で自分が本当の意味で自立していくことを出発点とするのです。もちろん人間は一人で生きていくことはできませんから、友人によるアドバイス、保護者・先輩の助言は大事にすべきだと思います。人の意見を素直に聞くことができるというのは、人間として非常に大事なことです。

 「シンクグローバル、アクトローカル」という言葉があります。物事を考える時には、日本だけでなく世界で起こっているさまざまな出来事を考慮に入れ、行動は自分の住んでいる地域に本当に根づいた存在として生活していくという意味だと思います。君たちは将来海外で生活する人、東京、大阪、姫路で生活する人、あるいはそれ以外の地方都市で生活する人と住む場所はさまざまになると思います。でもどこで生活するにしても、その地域に根づいた存在としてその地域の人々と共に社会を支えていける人間となってほしいと思います。生活する場所が海外であれ、大都会であれ、地方都市であれ、そこを与えられた場所として前向きに受けとめて生きてほしいのです。そしてできることならば、その与えられた場所でまわりに平和をつくりだす存在になってくれれば素晴らしいと思います。平和の基本は、まず人間がお互いの存在を受け入れあい仲良くくらしていくことですから、まわりの人々の人間関係をより良くしていく仕事はすべて平和をつくりだしていく仕事といえます。そうした仕事はたくさんあるでしょうし、ある意味ですべての仕事はそうした面をもっているといっていいかもしれません。どんな仕事でもそうした心構えでがんばってもらえたらと思います。

 最後に神様は君たちが幸せな人生を送るために生かしてくださっていることを忘れないでください。君たちの前途に神様の豊かな祝福があることを願っています。

2015/02
言論の自由と宗教の尊厳

 1月は2つの悲劇的事件が起こりました。1つはパリのシャルリーエブド社襲撃とそれに関連する事件であり、もう一つは「イスラム国」による日本人人質脅迫・殺害事件です。パリの事件はイスラム過激派による風刺漫画週刊紙出版社のシャルリーエブド社に対する襲撃とそれに関連する事件で、編集部を中心に17人の犠牲者がでました。まず当然のことながら、いかなる理由があろうと問答無用の殺害という暴力行為を許すことはできません。そのことを踏まえたうえでこの事件の原因を考えてみると、シャルリーエブド社は風刺のなかでイスラム教の創始者である預言者ムハンマドを風刺する対象としてたびたび取り上げていたようです。それに対しイスラム教は偶像崇拝を厳格に禁止している宗教ですから、預言者ムハンマドを風刺漫画の対象とするという行為自体、イスラム教徒の人たちはイスラム教に対する許すべからざる侮辱行為と捉えたようです。シャルリーエブド社がよりどころとする考え方は言論の自由です。言論の自由は自分の考えていることを自由に表明できる権利で、特に権力者や権威に対する批判、具体的には政府や教会を批判しても処罰されないことが保証されているという権利です。この権利はイギリスのロックやフランスのヴォルテールなどの啓蒙主義者によって主張され、フランスの人権宣言に盛り込まれ、フランス革命によって確立されました。西欧近代社会の基本原理の1つと言ってよいと思います。特にフランスは革命によって確立した「自由・平等・友愛」という考え方を国家の基本原理とする国ですから、この権利に対するこだわりは強いといえるでしょう。ただフランスでも言論の自由は無制限ではなく、人種差別、民族差別、ユダヤ人差別などは制限されているようです。しかし政府と宗教は批判の対象となります。キリスト教や教会も批判や風刺の対象となりますが、ある意味慣れっこになっているところもあるのか、当然のこととして許容しています。中世ヨーロッパでは教会の権威は絶大で批判は決して許されなかった歴史の結果ともいえるでしょう。シャルリーエブド社の考え方としては、風刺の対象となる宗教のなかには当然キリスト教だけでなくイスラム教も含まれるということだと思います。

 しかしひるがえってイスラム教社会はイスラム教という宗教が絶対的権威となっている社会です。神や預言者に対する冒涜は決して許されません。現在はイスラム教の国も世俗の法によって運営されてい.るところも多いですが、本来イスラム教に基づく法(シャリーア)によって統治されるべきだという主張が説得力を持つ社会ですし、イランのようにイスラム法が優先されている国もあります。ですから宗教と社会が公的には分離して世俗化している西欧社会(日本もそうですが)と宗教優先のイスラム社会とは基本的な社会の構成原理が異なっているわけです。お互いが共存していくためには、2つの社会はその構成原理が異なっていることを認めあわなければなりません。そのうえで世俗化した社会の人間は、預言者の風刺はイスラム教に対する侮辱であるとするイスラム教徒の感情を尊重しなければならないのではないでしょうか。ローマ教皇フランシスコも、他者の信仰に関しては言論の自由にも限度があると言っているようです。

 「イスラム国」による日本人人質事件は非常に残念な結果に終わりました。「イスラム国」の行為は決して許すことはできません。ただこの事件は、日本人にとって今まであまり馴染みのなかったイスラム教ともしっかり関わっていく必要があることを示していると思います。もちろん「イスラム国」はイスラム教のなかでごく一部の過激派で、大多数のイスラム教徒は穏健で平和を愛する人々であることはまちがいありません。ただイスラム教徒は統計によれば世界でキリスト教徒に次いで数が多く、世界人口の5人に1人はイスラム教徒です。それだけ世界で影響力をもっている存在ですから、私たち日本人はもう少しイスラム教及びイスラム教社会を知る努力をしていくべきでないかと思います。

2015/01
展望2015

  新年あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

  さて2015年は、去年の12月から始めた体育館の耐震工事が継続中です。当初の予定では3月末に完成の予定でしたが、予定が延びて4月末完成予定となりました。リニューアルされた、きれいな体育館の完成を待ちたいと思います。なおS6の卒業式は予定通り、3月2日に体育館でおこなわれます。また今年は改革の2年目ということで、去年スタートさせたコース制といろいろの改革をより着実に進行させていきたいと考えています。どうかご理解ご協力をお願いいたします。

  また今年はカトリック教会にとって長崎「信徒発見」150年の記念すべき年となります。17世紀の初めからの徳川幕府によるキリスト教への迫害と殉教によって、長崎のキリシタンたちは神父なしで200年以上、自分たちの信仰を表沙汰にすることなく隠れて受け継いできました。1865年3月17日、長崎の大浦天主堂のプチジャン神父に対して、浦上からやってきた信徒たちのなかの婦人が「私たちの信仰はあなたと同じです。」と告白しました。これによって隠れキリシタンたちはカトリック教会によって「発見」されたのです。「信徒発見」から150年の記念すべき年にあたって、わたしたちカトリック信徒は先人たちの素晴らしい信仰を受け継ぎ、日本の社会に対してさらに宣教するためのよりよい方法を探求していかなければならないでしょう。

   さらに今年は1945年に戦争が終わってから70年の節目になる年です。今年は、今いろいろ議論されている「戦後体制」について検証をするべき年になるでしょう。そのためには基本的な歴史的事実をいくつか確認しておかなければなりません。まず韓国については、日本は1910年、当時の大韓帝国を併合し領土の朝鮮半島を領有しました。その状態は1945年まで継続しました。現在日本に約50万人居住している在日韓国・朝鮮人の存在理由が、この植民地支配に多く起因していることはまちがいありません。次に中国に対しては1931年に関東軍の独走によって満州事変を引き起こし、満州国という傀儡国家を樹立し、それが為に国際連盟から脱退し、さらに1937年の廬溝橋事件によって中国と全面戦争となり、以後1945年まで戦争は継続しました。この中国大陸を戦場とした戦争において中国国民に甚大な被害を与えました。さらに1941年12月8日の真珠湾攻撃によって日本は米英などの連合国との戦争を開始し、しだいに戦況が不利になり、1945年8月に連合国の出したポツダム宣言を受諾して降伏しました。ポツダム宣言の内容としては、日本軍の無条件降伏、軍国主義勢力の除去、平和と安全の体制の確立までの日本の占領などがありました。これによって日本は1952年にサンフランシスコ講話条約が発効するまで7年間、連合国(実質的にアメリカ)によって占領されました。このサンフランシスコ講和条約、同時に調印された日米安全保障条約、占領中に作成された日本国憲法がいわゆる「戦後体制」の基本的枠組みとなります。教育に関しては教育基本法(旧)も重要でしょう。これらの基本的枠組みをきちんと振り返りつつ「戦後体制」について考えていく年にしたいと思います。  

2014/12
回顧2014

  早いもので1年が終わろうとしています。今年は淳心にとって創立60周年という記念すべき年でした。記念すべき年を区切りとし、新たなスタートとして4月から改革を開始しました。新入生(61回生)からコース制を導入し、Sコースで下校時間以後の自習延長をおこない、Jコースでは土曜のスタディサポートも始めました。夏休みにはJ1からS5までの全員補習もスタートしました。今年度も3分の2を消化しましたが、これまでのところ改革は順調に進行していると思います。これも偏に生徒諸君の頑張りと保護者の皆さんのご協力の賜物と感謝しております。ただ新入生のコース制にしても最終的に結果がでるのは6年後になるわけで、少しでも良い結果を出すためにこれからも試行錯誤をおこないながら、慎重に改革を進めていくつもりですのでよろしくお願いいたします。

  さて、目を世界に転じてみると、今年は第一次世界大戦100年というヨーロッバを中心にした世界大戦の回顧の年でした。かつて戦争を繰り返したヨーロッバの国々は現在はEUという大きな組織を作り、実質的に国境をなくし、ユーロという共通通貨を導入し、特に経済的な結びつきを強めて統合を進めようとしています。ただ28カ国という大きな組織になって、構成メンバーの国の経済的な力の差が明らかになり、ドイツの実力が抜きん出て大きく、南欧諸国の経済的困難や東欧諸国の経済的弱さという現実の中で統合を進めていくための課題が大きいことも事実です。そうした中で春にウクライナで政権交代があり、その機に乗じてロシアはウクライナのクリミア半島を併合し、新たに成立した親西欧派の政権と対立するウクライナ東部の親ロシア派の武装勢力に軍事的な支援をおこなっていることは明白で、ロシアがヨーロッバと一線を画した独自な存在であることを誇示しています。冷戦時代と比べればロシアと西ヨーロッバ諸国との経済的な結びつきは格段に強くなっていますが、相変わらず軍事力と資源エネルギーで抜きん出た力を持つロシアは、文化的にヨーロッパと一体化しない独特の存在で在り続けています。

  また6月29日に「イスラム国」は指導者アブー・バクル・アル=バグダーディが「カリフ」となり、シリアとイラクの支配地域をカリフの支配する「国家」とすると宣言しました。現在、この「イスラム国」の支配地域はシリアとイラクの国土のそれぞれ約半分を占めているようです。8月にアメリカのヘーゲル国防長官はこの「イスラム国」について「これまでに見たどの組織よりも洗練され、資金も豊富で、単なるテロ組織をこえている」と評価しました。この「イスラム国」の指導体制の中核にいるのはイラクの旧フセイン政権の軍人や政治家であり、資金源になっているのは支配地域の油田の原油で、装備はイラク政府軍から奪った近代的装備を用い、兵力としてはイスラム諸国やヨーロッバから多数の外国人が流入しているようです。国際的にこの「イスラム国」を承認している国は一つもありませんが、「イスラム国」側は第一次世界大戦後、オスマン帝国が崩壊する時に英仏でシリアやイラクの国境線の線引きをした、サイクス・ピコ体制の打破を掲げているようです。「イスラム国」は欧米の現状に不満をもっている若者たちをインターネットを通じた巧みな宣伝で勧誘し、それに応じている若者たちが多数いると伝えられ、捕虜を処刑するなどの残虐行為は主に彼らがおこなっているともいわれています。欧米を中心としたキリスト教社会とイスラム教社会の伝統的な対立も影を落としているといえるかもしれません。ある意味で現代世界の矛盾が集約されている「イスラム国」を来年も注視していかなければならないでしょう。

2014/11
長崎平和研修旅行

 10月1日から3日までM3の生徒と一緒に長崎平和研修旅行に行ってきました。この平和研修は私が淳心に赴任するとすぐに開始され、一昨年まで30年以上広島で実施してきました。私はM3の現代社会(公民)の授業を担当していた関係でこの旅行の付き添いで行くことが多く、10回以上行っていると思います。この広島平和研修では最初はすでに故人となられている広島学院の西尾先生にコーディネートと付き添いをお願いし、西尾先生が退職されてからは広島教区神父の長谷川儀神父に被爆体験のお話と付き添いをお願いしてきました。そうしたことで淳心の広島平和研修はこのお二人の方に大変お世話になってきました。実施時期は7月下旬の非常に暑い時期で生徒たちにとってはきつい研修だったと思いますが、8月6日に被爆された被爆者の方々の苦しみを追体験するという意味もありました。この長く続いた広島研修を長崎に変更した理由は、被爆体験を語ってくださった長谷川神父が亡くなられたこと、明石などの地域で小学校の時にまったく同じプログラムを経験している生徒達がいること、さらに熱中症の危険性を考えなければならなくなったことなどがあります。

 さて長崎ではまず浦上天主堂(浦上教会)に行きました。浦上教会はカトリック信者の多い長崎でも特に信者の多いことで知られている長崎市北部の浦上地区にある教会で信者数約7000人といわれ、建物の規模、信者数共に日本のカトリック教会の中で最大規模の教会です。また長崎大司教が所属している教会で司教座聖堂(カテドラル)ともよばれます。私たちはここでこの教会の長老の信者である深堀繁美氏の話を聞きました。深堀氏は浦上地区の歴史から話し始め、16世紀にフランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられてから、この浦上でもキリスト教が広まり、キリシタンの集落になっていったことを話されました。徳川幕府になってからキリシタンに対する迫害、殉教がひどくなり、表向きキリスト教の信者を名乗ることはできなくなりました。そして毎年正月に庄屋の屋敷に集落の人たちが集められ、いわゆる「踏み絵」がおこなわれました。そしてこの浦上教会はその庄屋の屋敷跡に建てられているそうです。1864年、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手地区に大浦天主堂が建てられました。1865年3月17日、浦上地区の信者数名が教会を訪れ、女性信徒がプチジャン神父に私たちの信仰はあなたと同じキリスト教ですと告白しました。これが世界中に驚きをもって伝えられた「長崎の信徒発見」です。来年2015年は信徒発見から150年の記念すべき年になります。しかしこれによってただちに信仰が保証されたわけではありませんでした。明治政府は浦上地区の信者達を捕縛し、津和野、萩、福山など日本の各所に流罪としました。これが浦上四番崩れと呼ばれている迫害です。この流罪は1868年からキリスト教の信仰が認められた1873年まで続きました。流罪になった人たちの扱いは場所によって違いますが拷問など過酷な扱いを受けた所もありました。流罪にされた人たちは全部で約3000人、そのうち流罪中に亡くなった人は約600人といわれています。さて深堀氏は被爆した時中学3年でした。小神学校に通っていて8月9日は勤労動員で工場で働いていたそうです。工場で被爆したあと、自宅のある浦上地区に戻ると地区は壊滅状態で、自宅はつぶれお父上以外の家族は皆亡くなったそうです。深堀氏は話の最後に平和の大切さを強調され、生徒たちが平和のために働いてくれることを期待されました。私たちはアシジの聖フランシスコの「平和の祈り」を皆で唱え、小聖堂にある被爆したマリア像に拝礼して教会を後にしました。

 教会を出た後、長崎さるくのガイドの方々に案内していただいて、12のグループに分かれて班別学習をしました。1グループ約10人です。行き先はもちろんグループによって異なりますが、だいたい共通していたのが浦上教会の崖下の原爆によって吹き飛ばされた教会の鐘のある所(鐘楼ドーム)、毎年8月9日に平和記念式典の行われる彫刻家北村西望が制作した有名な平和祈念像のある平和公園、さらに爆心地の公園などを案内していただきました。それから長崎平和資料館を全員で見学しました。平和資料館の中は「1945年8月9日」「原爆による被害の実相」「核兵器のない世界を目指して」といったセクションに分かれていてそれぞれ展示がしてあります。広島の平和資料館と比べると、被爆直後の写真が多いので(街角の黒焦げの遺体やケロイドの写真など)惨状がより強く印象づけられるような気がします。

 2日目の午前中、日本26聖人記念館を訪問しました。26聖人とは、豊臣秀吉の禁教令により京都、大阪で捕縛された9名の神父と15名の信徒さらに長崎までの途中に自ら加わった2名の信徒のことで、彼らは1597年1月から2月にかけて京都、大阪から長崎まで歩かされ、2月5日に長崎の西坂で磔の刑に処せられ、日本で最初のキリシタン殉教者となった人々です。後にカトリック教会によって聖人とされました。私たちは処刑跡地にある26人のレリーフの前で記念館長のレンゾ神父の話を聞きました。神父は話のなかで26聖人について考えてもらいたいこととして2つのことをあげました。1つは身分も異なり、お互い知らない人もいた1つの集団が京都から長崎までの行程でお互い助け合い、殉教を目指す1つの仲間になっていったこと、もう1つは処刑前に神父であるパウロ三木が処刑する役人たちに「私たちはあなたがたを許します」と言ったということです。自分を殺す者たちを許すという姿勢は、後のキリシタンの殉教でも貫かれて幕府の役人たちにも感銘を与えたということです。憎しみや対立に対して「許す」ということをしないと結局平和はもたらされないということで、これは現代にも通用するキリスト教の大事な考え方だと思います。話の後記念館を見学しましたが、記念館にはフランシスコ・ザビエルの直筆の手紙や天正遣欧使節の一人で後に神父となり殉教した中浦ジュリアンの直筆のポルトガル語の手紙など貴重な資料が展示してありました。この後、国宝の大浦天主堂を見学して平和研修は終わりました。長崎は日本のカトリック教会にとって聖地です。平和研修と共に日本のカトリック教会の魂に触れることができて有意義な旅行でした。

2014/10
ベルギー、オランダ訪問記

  今年の夏は、お盆の一週間家内とベルギー、オランダを旅行しました。ベルギーを訪れるのは2度目ですが、今回の訪問の目的は以前、姫路教会の主任神父と淳心会の管区長を務められて私が大変お世話になった、ヴァンガンスベルゲ神父を訪ねることでした。神父様は現在ベルギーのコルトレイクという所にある淳心会の高齢者施設に入られていて、88歳で耳が少し聞こえにくくなられていましたがお元気でした。ベルギーではそれからマルゴット理事長の出身地であるブリュージュに行きました。ブリュージュは街全体が運河に囲まれている美しい街です。古い教会、広場、鐘楼などと運河がマッチした美しい街並みを多くの観光客が歩いていました。特に印象に残ったのはメムリンクの美術館です。メムリンクは15世紀にブリュージュで活躍した画家で、深い信仰に基づいた神秘的で静謐な絵が特徴です。代表作とされる「聖女カタリナの神秘の結婚」「聖女ウルスラの聖遺物箱」はとても素晴らしい作品でした。天候に恵まれて、午後訪れたベギン会修道院の聖堂、木立、運河などの周辺の風景は天上的な雰囲気でした。

  オランダは私は初めてでしたが、アムステルダム、デンハーグ、デルフトを訪れました。オランダに行った大きな目的は絵画を見ること、特にフェルメールとロイスダールの絵を見ることでした。17世紀に黄金時代を迎えたオランダの絵画は、それまでの中世やイタリアルネサンスでつねに題材とされていたキリスト教やギリシア・ローマの神話に代わって、当時の市民の日常の生活やオランダの普通の風景を題材にしたことで知られています。それは絵画の注文主がそれまでの教会や王侯貴族に代わって、経済的に裕福になったオランダの市民であったからといわれています。現在、世界的に人気のでているフェルメールの現存する30数枚の絵は、2枚の風景画以外ほとんどが室内における当時の人の人物画となっています。風景画家として有名なロイスダールの絵は画面の下3分の1ぐらいの所に水平線や地平線が描かれ、上3分の2が空で複雑な雲と空がおりなす風景が描かれるというのが特徴で、国土の低平なオランダの風:景をよく表しています。アムステルダムの国立美術館はとても大きな美術館ですが、3階の正面の通路の奥にレンブラントの「夜景」が展示され、通路の左側にフェルメールの4枚の絵、右側にロイスダールの代表作「風車」などがありました。フェルメールの絵の前はすごい人だかりで人気の様子がよくわかりました。デンハーグのマウリッツハイス美術館は、貴族の城館を利用した華麗な美術館で、最後の部屋に私が今回一番見たかったフェルメールの「デルフト眺望」の大きな絵と、一昨年神戸でも見ることができた「真珠の耳飾りの少女」が向かい合わせに展示してあって、私は少女の輝かしい瞳に再び再会することができました。デルフトの街もブリュージュと同じように運河に囲まれた美しい小さな街で、フェルメールがこの街で生まれて生涯ほとんどこの街から出なかったということで、フェルメールの絵の雰囲気を味わうためにたくさんの観光客が訪れていました。デルフト焼も有名ですが、現在フェルメールはデルフトの大変な観光資源だと思います。街を歩くと旧教会には彼の墓があり、生家跡は「フェルメールセンター」となっていて彼の現存する30数枚のすべての絵の複製を見るこができます。運河沿いに歩いて水門までいくと、運河を隔ててデルフトの街が眺められ「デルフト眺望」の絵に描かれている新教会の塔も遠望することができて、絵の雰囲気を十分に感じることができました。

   オランダは日本とは浅からぬ関係があった国です。江戸時代、徳川幕府が鎖国をしていた時に西欧の国で唯一交流があった国がオランダでした。長崎の出島にオランダ東インド会社の商館があって貿易をしていました。さらに商館長が江戸にやってきて将軍に謁見する江戸参府が江戸時代計167回も行われたということです。その時オランダが提出したいわゆる「オランダ風説書」が、幕府が西欧人から国際情勢についての情報を得る唯一の機会でした。また8代将軍吉宗は参府の商館長(カピタン)と直接面談し、政治体制・地理・軍事技術など広範囲に質問をしたようです。ですから江戸時代に国際情勢や科学技術など西欧の学問について知ろうとすれば、オランダ語を勉強しなければなりませんでした。当時の知識人たちは、江戸参府の時のオランダ人たちの定宿だった日本橋の長崎屋を訪問して交流をもったようです。こうした蘭学者で有名なのが新井白石や青木昆陽です。小塚原での囚人の死体解剖を見てオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」の記述の正確さに驚いた前野良沢と杉田玄白らが苦労して同書を翻訳し、初めてのオランダ語書籍の翻訳書として「解体新書」を出版したのは有名です。幕末に幕府が海軍を創設した時に指導をしたのはオランダ海軍の軍人ですし、福沢諭吉が最初に創設した塾(後の慶應義塾)は蘭学塾でした。こうしてみると江戸時代オランダは日本と西欧とを結ぶ窓の役割を果たしたことがわかります。旅行中、家内の教え子でオランダで音楽を勉強しオランダ人と結婚した女性と話す機会があったのですが、良くも悪くもオランダ人は現実的で実際的な民族です、と言っていました。確かに世界で最初に安楽死を合法化したのはオランダです。それやこれやを考えながら、今回の旅行はなかなか感慨深い旅行でした。

2014/09
佐久間彪神父追悼

 7月27日(日)東京教区の佐久間彪神父が帰天されました。86歳でした。私は佐久間神父のキリスト教入門講座に1年間通った後、1980年の復活祭に東京の世田谷教会で洗礼を受けました。ですから現在の私のキリスト教信仰の信仰内容に最も大きな影響を与えているのは佐久間神父です。この文章を読まれる方で佐久間神父をご存じの方はほとんどいないと思いますが、神父のキリスト教についての考え方を少し紹介させていただきます。私の手元には佐久間神父の教会での説教の内容を収めた本が2冊あります。1冊は世田谷教会が編集して1993年に発行した『神 ひと 宇宙』ともう1冊はオリエンス宗教研究所が2009年に発行した『神への憧れ』です。主に前者の方からいくつかの文章を抜粋します。神の働きについて。「主イエスは“目覚めていなさい”と仰せになりました。とは言え、もし神ご自身が目覚めさせてくださるのでなければ、どうして目覚めていることができましょう。すべては神の恵みだからです。神が働かれるのでなければ私たちは何もできないのです。天地創造の瞬間に神が“光あれ”と仰せになったとき、初めて光があったのでした。爾来、一瞬ごとに神は働いておられます。私たちは神に先立って働くことはできず、また、誰が神とその業を競いあうことができるでしょう。神は、常に、一瞬一瞬、私たちに先立って働いておられるのです。神が働きたもう、それゆえに私たちは存在しています。神が働きたもう、それゆえに私たちは生きています。神が働きたもう、それゆえに私たちは愛しています。神が働きたもう、それゆえに私たちは信ずることができます。神が働きたもう、それゆえに私たちは神に賛美と感謝を捧げることができます。そして、神が働きたもう、それゆえに私たちは神と化されていきます。主イエスが“目覚めていなさい”と仰せになるとき、この言葉はむしろ、主イエスがいつも私たちと共にあり、私たちのために、まずご自身が目覚めておられるということの、約束の言葉なのです。」祈りについて。「回心とは、何か道徳的な意味での、心を改める改心というよりは、内なる世界に心を回らし、神における生命の循環に気づき、目覚めることではないでしょうか。主イエスは私たちに、この神秘に気づけ、それに目覚めよ、そう言っておられるのではないでしょうか。イエスは私たちに空の鳥、野のゆりを指し示しつつ、神なる父の慈しみを教えられました。私たちが模範としなければならないのは、この自然界、神の御旨のままに生かされている、あの動物たち植物たちなのかもしれません。それゆえに、復活節も終りに近いきょうこの頃、もう一度私たちが神の内に生かされているということを自覚して、深い魂の平安を得たいと思います。もちろん私たちはこの世にあって働かなければなりません。そして、神に、助け、支えを求めなければなりませんが、しかし同時に、そのような煩わしさのすべてから折りおりに解放されて、深い沈黙、平安のうちに、神と一つであることを自覚してすごす時を持つべきでありましょう。それをこそわれわれは“祈り”とよぶのではないでしょうか。」信仰について。「イエスのお考えによれば、私たちの心に書き記された新約の律法、すなわち新しい“生活の原理”とは“愛”であって、人間は愛をもって行動するときに、つまり愛しているときに、実は自分の内にそのような原理が、深く深く刻み込まれていると気づき、まさに愛しているときにこそ、人間は本当に人間らしいのであり、その愛の原動力は神なのであって、人間はみなこの愛である神によって生かされているからこそ、愛することが出来るのだ、と気づくのです。宗教というものは本来自然なものなのです。そしてイエス・キリストほど自然に生きておられた方はありません。イエス・キリストの一挙手一投足に不自然なものはなかった。イエスの愛は不自然ではなかった。無理に愛そうとしておられたのではない。私たちもイエスにならって、本当に自然に愛して生きていきたい。そう心から念ずるのであり、そして、宗教というものは私たちに義務を負わせるものではなく、むしろ生き、愛することの喜びを伝えるものだと悟るべきなのです。信仰とはこの事実に気づくことではないでしょうか。」生き方について。「神の恵みというものは、人々が期待している形で与えられるものではありません。神はある時、ある人に、愛する力をお与えになります。しかし、ある人にはまだお与えにならない。ひとは、ある時は愛せますが、ある時は愛せません。あの人がひとを愛したからといって、この自分がひとを愛せるかといえば、そうは言えないのです。したがって私たちの目の前には、いわゆる模範はありません。あの人が愛したから私も愛せるはずだ、とは言えないのです。愛は神の恵みだからです。当然のことながら、逆に、私が愛せたからあの人も愛せるはずだ、ということもないのです。そして同じ人間が、きのうは愛せても、きょうは愛せないこともある。きょうは愛せなくても明日は愛せる、そういうこともあるのです。私たちは神が与えたもう恵みのままに生きるのであって、その意味では、一瞬一瞬を生きることだけが重要だと思われます。伝統的にカトリックの哲学ではラテン語で“ヒック・エト・ヌンク”と申します。ヒック(ここで)、エト(そして)、ヌンク(いま)。私たちにとって大事なことは、“ここで、今(ヒック・エト・ヌンク)”あるがままに生きていくということなのです。なればこそ、私たちは希望を持ち得ますし、また驕り高ぶることもなく生きることができます。愛せたならば感謝し、愛せないならば恵みを願う、それ以外に私たちの選ぶべき道はないのです。私たちは、日々新たな瞬間を受けるのであり、その一瞬一瞬をこそ、神に委ねて生きるのです。」

  これらの文章を読んでおわかりのように、佐久間神父は心から子供のように神の愛と恵みに信頼し委ねられた方でした。最後に神父がたびたび引用された聖書の箇所を記しておきます。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように。アーメン。」(パウロのローマ人への手紙11・36)

2014/08
漱石雑感

 現在朝日新聞で、夏目漱石の『こころ』が朝日新聞で連載されてからちょうど100年ということで、復刻の連載がおこなわれています。100年前とはちょうど先月書いた第一次世界大戦が勃発した年で大正初期にあたります。私も高校の国語の授業で『こころ』はずいぶん読まされましたが、皆さんの中にもそういう方がいらっしゃるかもしれません。私は今回これをきっかけにして『三四郎』以降の作品をいくつか読み直してみました。『三四郎』以降の小説、具体的には『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こころ』『道草』『明暗』はすべて漱石が東大の教師をやめて朝日新聞に入社してから新聞に連載されたものです。時期的には漱石が40代の約10年間、時代は明治末期から大正初期にあたります。

 これらの小説を読むと内容は別にして、この時代の東京の中流家庭の社会風俗を書いたものとして読んでも非常に興味深いです。まだ一般家庭に電気がきていないので夜はランプです。もちろんラジオ・テレビはありません。暖房は火鉢と炬燵。交通手段は徒歩か、自動車がないので人力車か電車です。主人公はよく散歩をしています。急ぎの連絡は電報、通常は手紙、公衆電話が設置されはじめています。夜の娯楽は何かというと、寄席、浄瑠璃、芝居それに近所の寺社の縁日など主人公はよく出かけています。また戦前都市の中流家庭では普通だったようですが、女中(お手伝いさん)が住み込みでいます。奥さんはもちろん専業主婦で家事はそれなりに助けてもらっているようです。奥さんは暇な時間はだいたい裁縫をしています。家は基本すべて平屋です。漱石の小説の舞台となっているのは、現在の山の手線の内側の北半分、新宿区と文京区が中心です。地名としてよく出てくるのは本郷、小石川、牛込、市ヶ谷、神楽坂などです。ほかにもちろん神田の古本屋街や銀座も出てきますが、主人公が住んだり散歩したりしているのは上記の地域です。私は東京出身なので少し土地勘がありますが、要するに漱石が生まれた早稲田界隈と勤めていた東大のある本郷周辺の地域でそれほど広い地域ではありません。先日帰省した時に行って来ましたが、漱石が『三四郎』以降の著作をして亡くなったいわゆる「漱石山房」があった場所は早稲田大学のすぐ近くで、現在新宿区立漱石公園となっています。新宿区はいずれ記念館を整備したいようです。漱石が生まれた喜久井町も目と鼻の先にあります。

 漱石の専門は英文学でしたが、彼の問題意識は文学とは何かということと、西洋と日本の対比ということに注がれていたように思います。彼が生きた明治という時代は、日本が欧米列強の海外進出に負けまいとして維新以後、急速に近代化を進めた時代でした。そしてそのころの近代化というのは要するに西洋化と同義です。19世紀後半という時代にあって、欧米以外のアジア・アフリカ諸国の中でこの西洋化という意味の近代化を成し遂げた国は日本だけであり、その一応の成果が日露戦争の勝利でした。ただこの近代化は、西洋の制度・文物をしゃにむに取り入れておこなったものだったために普通の日本人の考え方、感じ方とは相当ズレがありました。これが漱石が「西洋の開化は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。外発的とは外からおっかぶさった他の力でやむをえず一種の形式を取る」『現代日本の開化』と指摘していることです。一言でいえば、日本人は近代化で本来自分たちのものでなかったことをして相当無理をしているということだと思います。そして近代人は共同体から切り離されて自由な存在になった時、必然的に孤独に悩むようになりました。漱石は孤独を「淋しさ」という言葉で表現していますが、「自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わなくてはならないでしょう。」『こころ』と書いています。自由と孤独というのは近代人の意識の裏表です。ただ近代人は今更もとの共同体に戻るわけにはいきません。“自己本位”という個人主義でやっていくしかないというのが漱石が英国留学で悩みながら獲得した考え方だったと思います。「私は多年の間懊悩した結果漸く自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような気がしたのです。」『私の個人主義』ただ漱石は当然のことながら自己本位というのは、自分の個性を発展していくとともに他人の自由も尊重することだとしています。このような漱石の問題意識は月並みな言い方ですが、現代の我々も考えていかなければならない問題だと思います。

 漱石は1916年に49歳という若さで亡くなりました。最後に書いていた『明暗』という小説は、非常に興味深いテーマを扱っていたのですが未完となりました。もし彼があと10年生きていたらどれだけ豊かな創作の世界が広がったかと思うと早い死は残念でなりません。私は文学というのは人が生きていくための指針を与えるものだと思うのですがいかがでしょうか。

2014/07
第一次世界大戦100年

 今年2014年は第一次世界大戦が開戦した1914年からちょうど100年目にあたります。開戦のきっかけになったのは、1914年6月28日にボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボでオーストリア皇太子夫妻がセルビア人の青年に暗殺された事件です。それから1ヶ月後の7月28日にオーストリアがセルビアに宣戦布告して戦争が始まりました。その当時、オーストリアはドイツと同盟し、セルビアの背後にはロシアがいて、ロシアはイギリス、フランスと同盟を結んでいたので、戦争は結局ドイツ・オーストリア対イギリス・フランス・ロシアというヨーロッパ中をまきこんだ戦争となりました。最初は皆、戦争は短期で終わると考えていたようですが、最終的には1918年11月まで4年以上続き、双方の戦死者は900万人をこえたといわれています。この戦争は機関銃と大砲を主な武器として、塹壕を奪い合う激しい人的消耗戦となりました。飛行機、戦車、毒ガスという新兵器も登場しました。また国家総動員体制という国全体で戦争を遂行する初めての戦争となりました。男性の国民は根こそぎ軍隊に動員され、銃後の社会を女性が守るというシステムが実施されました。太平洋戦争で日本が経験したことが既におこなわれていたのです。結果的に女性の社会進出が進んだともいわれています。

 第一次世界大戦を扱った文学の名作はたくさんあります。ロジェ・マルタン・デュガールの「チボー家の人々」、トーマス・マンの「魔の山」、ロマン・ロランの「魅せられたる魂」など、さらにより直接的に戦場の現実を扱ったものとしてはレマルクの「西部戦線異状なし」(これは映画化もされました)。私はこれらの本を読んで、第一次世界大戦がヨーロッパの人々の精神のなかにどれだけ深い傷を残しているかを考えさせられました。またフランスのパリの教会に入ると、どの教会でもその地区で第一次世界大戦で戦死した人の名前がたくさん残されています。私はそれを見ると戦争の記憶というものを肌で感じたものです。

 今年の初めには第一次世界大戦100年は単なる回顧になるかと思っていたのですが、ウクライナで問題が起きてウクライナの領土のクリミア半島(住民はロシア人が多い)をロシアが自国領に編入してしまいました。また西部の親西欧派の政権と東部の親ロシア派の住民の対立が続いています。現在アメリカと西欧諸国はロシアに制裁措置をおこなっています。古来、戦争の原因は領土・民族・宗教などだったのですが、これは現在もいささかも変わっていないということができると思います。私は全校朝礼でこれらのことを話した後で、生徒諸君に平和のために働く人になってほしいと言いました。それは人々の間の憎しみを取り除く仕事だとも言いました。生徒諸君に期待したいと思います。

 

 

 

2014/06
古楽の楽しみ

 5月11日、姫路パルナソスホールの大塚直哉チェンバロリサイタルに行きました。プログラムはスペインのカベソン、オランダのスウェーリンク、フランスのクープラン、そしてバッハの作品というものでした。チェンバロの生の演奏というのはなかなか聴けるものではありませんので貴重な機会であり、また予想通り素晴らしい演奏でした。当日はS6のペパー福井君のお父様とお会いしました。大塚直哉さんは、現在東京芸術大学の准教授でNHK・FMの朝の放送「古楽の楽しみ」の案内人の一人でもあります。また姫路で過去3回おこなわれたヘンデルのメサイアの指揮者であり、パルナソスホールのチェンバロ講座の講師も務められています。私は音楽を聴くのが趣味で、特にバッハ、ヘンデル以前のいわゆる古楽(バロック音楽)が好みです。ですからFM朝6時台の「古楽の楽しみ」を毎日聴いて出勤しています。バッハ、ヘンデルが亡くなる18世紀半ばまでのいわゆる古楽は、それ以降のクラシック音楽と明らかに異なる色合いをもっています。私は学生時代はバッハをよく聴いていましたが、最近は特にヘンデルのオペラを好んで聴いています。ヘンデルのオペラには「生きる悦び」が色濃く表現されていると思います。私は校長室にCDプレイヤーを置いて放課後好きな音楽を聴いています。ただ古楽の同好の士というのはそれほど多くありません。同じ趣味の方がおられましたら、是非校長室に話しに来てください。お待ちしています。

2014/05
学力を伸ばす工夫

新聞で既に報じられていますが、毎年全国の小6と中3を対象におこなわれている全国学力調査と、同時に実施されているアンケートの結果から興味深い分析内容が発表されました。まず1つは親の年収や学歴が高いほど、子どもの学力が高い傾向が明らかになったということです。このことは前から既に指摘されていたことですが、親の年収や学歴が高いグループの家庭では、低いグループの家庭に比べ、英語や外国文化に触れるよう意識する、本や新聞を勧める、計画的に勉強をするように促すことが多いとされています。また年収が低いグループで成績が上位であった子の特徴は、規則正しい生活(朝食の習慣、ゲーム時間の制限)、読書について親が働きかける、勉強について親子で話す、家での学習習慣があるなどの点がおなじグループの成績下位の子より多く見られたということです。ここには学力を伸ばすための家庭での工夫の仕方が、かなりはっきり示されていると思います。新聞や読書に親しむことによって、現代の世界の動きに関心を持ち、先人の思想や知識に触れ、論理的な文章構成力を身につけることができます。また親子で勉強や進路について話をすることは、コミュニケーション能力を培うことや将来の生き方についての動機づけに役立つと思います。これらのことをそれぞれのご家庭でも参考にしていただけたらと思います。

2014/04
淳心学院は創立60周年の記念すべき年を迎えます。

2014年、淳心学院は創立60周年の記念すべき年を迎えます。60年という年数は人間の人生でいえば「還暦」で、暦が一巡して新たな循環のなかで生まれ変わる年です。淳心も今までの伝統を継承しつつ、新たな「再生」への歩みを始めます。 折しも今年度は「コース制」という、淳心が今までおこなったことのない新しいシステムが新入生に導入されます。新入生である61回生は、今までにない高い目標をめざしてスタートをきります。この2014年度を神様の祝福のうちに歩んでいくことができるよう祈りたいと思います。

学校案内
中学入試について
淳心教育の特色
進路
学校生活
学校法人淳心学院中学校・高等学校
〒670-0012 兵庫県姫路市本町68 TEL:079-222-3581 FAX:079-222-3587

デジタルパンフレット

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