リア充と非リア充の生態
今回のテーマは「充実した日々を過ごしたいが、リア充と思われるのは嫌」だ。
非リア充の朝は早い。早朝4時には起き、邪神像に向かい、リア充の爆発を祈る。
このように、特に理由のないリア充の爆発を祈りがちな非リア充だが、決してリア充爆発跡地に、リア充として居を構えたいと思っているわけではない、爆発を見届けたら、また非リア充の長屋に戻る。
つまり、充実しているやつは羨ましいし爆発してほしい。そして自分も充実はしたい。だがリア充には見られたくない、それはなぜか。
爆発を祈られてしまうからだ。
当たり前だ、自分がリア充の爆発を祈ったのと同じように、リア充になったら爆発を願われるに決まっている。たとえば「キラキラ女子」とかどうだ。羨望の目で見る人も憧れる人もいるとは思うが、妬みやすい人間から見ると、しゃらくさくて涙が出ちゃうのである。
つまりリア充になると、今度は特に理由のない妬み嫉(そね)みを受けるし「俺よりキラキラした奴に会いに来た」という、ヴィトンの道着に鉢巻をしめた、キラキラ女子にストリートマウンティングを挑まれ、ボコボコにされる恐れがある。つまり、充実はしたいが出る杭にはなりたくねえ、ということである。
それ以前、まず「充実した日々」を送るのが難しい。全然充実してないのに「リア充に思われたらどうしよう」と悩むのは、外に出て、ナンパされたらどうしようと、10日ほど出ていない部屋の中でパンイチで悩んでいるに等しい。
「仲間とBBQする自分」は果たしてリア充なのか
もし今、充実していなくて、さらに、愉快な仲間とBBQや子供の写真をSNSにアップしているリア充と思わしきものを妬ましいと感じ、休日を一日寝て過ごした自分に焦りと苛立ちを感じているとしたら、まず、そのSNSにある充実が、自分にとって本当に充実か考えてみた方が良い。
結婚して家庭を持ったり、大金を掴(つか)むことが必ずしも幸せでないように、友達とBBQをするのが充実というわけではない。つまり充実も人それぞれである。世間一般が考える充実が自分にとっても充実であり、それが得られていない自分は充実していないと考えるのはおかしいのである。なぜ休日を一日寝て過ごした自分のことを「眠充」と呼ばない。
それに、みんな知らないかもしれないが、睡眠というのは重要なのである。なんと、しないと死ぬ。BBQは多分しなくても死なない。世の中には、眠(みん)が足らずに、病気や最悪命を落としてしまう人だっているのだ、それに対し、一日も寝ることが許される立場なんて石油王クラスである。ラグジュアリーすぎる。少なくとも100人友達がいるが、そいつらが俺を完全に取り囲んで一睡もさせないという状況よりは充実しているだろう。
いろいろやってみたが、何をしても楽しくないし、全てが憎いという、破壊神みたいな人は仕方がないかもしれないが、自分に合った趣味などを探さないで、恋人がいない、友達がいない、コミュ症だからと、自分を非リア充だと決めつけ、むやみにリア充を妬むのは早計である。
あなたが真のリア充となる方法
では、試行錯誤の結果、かげおくりなどの、無二の趣味を見つけ、充実した日々を手に入れたとして、次は「リア充に見られたくない」という悩みだ。
今まで、あまたの寝言は永眠して言えというテーマが出てきたが、今回はサービス問題かと言うぐらい簡単である。
「SNSに書くな」
我々が平素しゃらくせえと思うリア充。そのリア充の姿をどこで見ているか、海かクラブか、違うだろう、SNSである。そもそも、そいつが充実しているかどうかなんて、顔に「リア充」と彫ってない限りはわからないし、そう彫ってある奴はまずリア充ではない。
わかりやすいリア充写真を載せるから「あっリア充だ、射殺しろ」となるのである。SNSだけではない、リア充だと思われる要因の多くは、それをアピールしてしまったからだ。
充実した日々を送りながらリア充と思われたくなかったら、充実した時点で完結させればいい。切り取って他人に見せるからそうなるのだ。むしろ、本当に充実していたら、他人にそれを見せようという発想すら起こらないのかもしれない。
近年まれに見る、くっきりしたかげおくりに成功したら、それを誰に言うでもなく、飯を食って寝る、そういうことができる充実を見つける。そんな人生の楽しみを見つけるのが真のリア充への第一歩である。