神奈川新聞と戦争(1) 1927年・ 復興の背後の危うさ
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- 公開:2016/08/02 17:03 更新:2016/10/23 20:49
「本社新社屋成る」の見出しと、近代的なビルの写真が1927(昭和2)年5月22日の横貿に載った。23(大正12)年の関東大震災で倒壊した社屋の再建を伝えたものだ。ゆかりの地に再興した喜び、意気込みがうかがえる。「本社が今日に至つた長き道程の過半が其処(そこ)に費された事を回顧し、結局巣立ちの地に還(かえ)つた事を思ふ時、感慨の無量なるものがある」
折しも横浜の震災復興が形をなしつつあった。27年6月2日、開港記念日の同紙は「光輝を重ぬる歴史的記念日」と銘打った特集を展開。どんな歴史を「重ぬる」かといえば「港湾拡張の要求に伴ふ大防波堤築造の計画が確定し、或(あるい)は工業地域としての大埋立事業も認可され、或は隣接町村と合体して市域を拡張」。同年4月に鶴見、保土ケ谷、屏風浦など周辺町村を編入し「大横浜」となった記念の式典がこの日、秩父宮(昭和天皇の弟)が臨席して挙行されたのだった。
だが、こうした明るさとは裏腹に、同時期の横貿には政治経済の危うさが見え隠れしていた。同年3月に昭和金融恐慌が起こり、銀行は取り付け騒ぎに。5月24日の紙面は、横浜の貿易を支えた生糸産業について「蚕糸業興亡の決定期」と題し、原価の高騰や製糸業の放漫経営を背景にした貿易赤字を問題視した。
外交面では、同29日の紙面に「山東出兵断行」の見出しが見られる。「同胞の生命財産保護のため先づ山東省に出兵を断行する事となり田中首相は…」。中国では当時、政府と軍閥の対立が先鋭化し、同年春には南京や漢口で日本人を巻き込む暴行略奪事件が発生していた。直後に発足した田中義一内閣は、従来の幣原喜重郎外相による穏健外交から一転、強硬姿勢を取り、居留民保護を名目に中国山東半島に出兵した。
翌30日の紙面には出兵による現地人の感情悪化や、これを好機として英米が日中の離間を謀るといった観測を伝え「各地に於て排日運動を起す気勢を生ずる」ことを懸念。横貿もいち早く日本の国際的評価を憂慮していた。満州事変は4年後、日中戦争は10年後。
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先の大戦で、メディアは政府や軍部を批評する精神をいつしか失い、戦意高揚にさえくみした。メディアへの圧力が強まる今、戦前戦中の本紙をひもとき、戦争を止められなかった新聞の姿を目の当たりにする。