日野さんのビンタの件で殴られた子供の父親のコメントを聞いて私は母親の事を思い出した。私の青春時代はどうであっただろうか。中学生で部活にも行かずブクブクと醜く太り、そして忘れもしない厨二でブルーハーツのマーシーに出会い、ロックは太っちゃいけないと無理なダイエットをして35kgほど体重を落としたあの頃。30代前半まではその体形を維持していたが、今では25年越しのリバウンドでまた醜く太るだけではなく薄らハゲまで加わり、理想と現実の境が分からなくなりながら空を見上げて不気味に笑っているといった気味の悪い中年になった。青春など幻。あの頃の私などもういないのだと別れを告げたのだが、ふと体罰について考えたのでこの際振り返ってみよう。
私がはっきり覚えている体罰、それが体罰なのかどうかは私には分からないが、先生にこっぴどく殴られたのは3回。実際はもっとあるが細かい事は覚えていない。こっぴどく殴られたのは3回だ。小学校4年生の時、中学2年生の時、高校1年生の時である。
小学生4年生
小学生の時は先生に「カーテンで遊ぶな」と何回も注意されていたにもかかわらずターザンのように宙を舞ったその着地点に大きくて高そうな花瓶があり、当たり前の話であるがカーテンにブレーキなど付いておらずそのままライダーキックに様変わりしたという具合である。その時の担任に往復ビンタどころか5往復の平手打ちと胸をドンドン押しながら詰め寄ると言った恐怖を喰らった。それもそのはずだ。私は何を思ったか謝らなかった。バカの極みである。
中学2年生
痩せたということ、ビーバップ全盛という事も手伝って、私はノリに乗ったイチビリとなっていた。そこでは先生たちが口を酸っぱくしながら「髪を染めるな」と言っていたが私にはそのなもの何も問題ない。オキシドールである。今の若い子は知らないだろう。オキシドールなどというおどろおどろしい名前の消毒液を大量に買い、頭にぶっ掛けているのである。私が当時の親であれば「コイツ気でも狂ったか」と思うはずである。言うまでもなく登校時に学校の門でボコボコに殴られた。バカの極みである。
高校1年生
バイトで買ったクレイマーのギターを必要以上にダルそうに肩で担ぎ「スルーネックやしめっちゃ重いわ...(苦笑)」などとのたまいながら、弾ける曲と言えば当時は「ゲットザグローリー」オンリーであった。ゲットザグローリーにスルーネックが不必要なのは言うまでもない。その調子に乗ったクソガキはあるマラソン大会の日、スタート地点まで走って来いと言われていたにも関わらず「ダルイっしょ!走ってなんか行けないっしょ!」とゲットザグローリーを歌い叫びながら原チャリに乗って行く途中で先生に見つかり原チャリから引き摺り下ろされた。お分かりだろうが、それがさも当たり前のように、華麗に、執拗に殴られた。何故かは知らないがそのマラソン大会ではいきなりやる気を出して3位になった。バカの極みである。
どうだろうか。こうやって書いていると私に関して言えば「殴られて当たり前」だと今でも思っている。「やるなよ貴様」と言われているにも関わらずやる。ではあの時私にダメな理由を言い続けて言う事を聞いただろうか。答えはNOである。子供ながらに私はこの人の言う事は聞くけどこの人は聞かないといった判断をしていたように思う。それは「殴る先生」なのか「殴らない先生」なのかだ。今では信じられないだろうが殴る先生はいつも使わないくせに木刀を持っていた。鬼である。鬼。その鬼の前では我々は翼の折れたエンジェルとなり、なるべく目を合わさないように、見つからないように、絡まれないように歩いていた。しかしながらこのおかげで私は「頭一つ出る悪さ」をしなかったのだと思う。理由は簡単だ。殴られるのが嫌だからである。もちろん鬼にすら歯向かって悪さをしていた連中は未だにほぼ全員行方不明になっている。
体罰絶対反対となる環境
最近興味深いものを見た。それはチビが通っている幼稚園と私立の小学校である。参観と学校説明会で私が目にしたのはどこを見ても「悪い奴がいない」のだ。私がよく見ていた風景と全く違う。子供たちは先生の言う事をちゃんと聞き、騒ぐ子供もいない。先生の言う事を聞くのが当たり前なのだ。ちゃんと整列し、ちゃんと声を出して挨拶をし、ちゃんと誰かの発言に黙って耳を傾けている。整列してる時に後ろからわき腹をくすぐったりダルそうに挨拶したりいきなり意味不明な踊りを踊りだす子供がいない。なるほど。この環境に「体罰など必要ない」んだなと思った。
しかしながらそんな環境ばかりではないしそんな人間ばかりではない。突き抜けて悪い奴は何やっても無駄だと思うが、私のような中途半端なイチビリに関して言えば目が碧く光っている鬼は効果的なのである。そして我々も理不尽に殴られていたわけではない。何度も「やるなよ」と言われているにも関わらずやる、その結果ゲンコツが飛んでくるのだ。昔の大人・父親のゲンコツは「このオッサン鉄球でも握ってんじゃねえか」と思うくらい痛かった。幼い日を思い返すと「この線を越えたら殴られる...しかし...どうだ...面白そうじゃねえか...向こう側に行きてえ...どうする俺...どうする!!!」と面白い事とゲンコツを天秤にかけ、そして魅惑の向こう側に行って殴られるのである。
先生と親の信頼関係
昔は親が学校の先生を完全に信用していた。いつから「先生」は今みたいになったんだろうか。私が学校で先生にゲンコツを喰らって「オカン!今日先生にどつかれたで!」とドヤ顔でチクった私は「お前が悪さするからじゃ!」ともう一発ゲンコツを喰らって泣いたあの日。子供からすればこんな理不尽があって良いものかと思うが今となっては「先生」は「先生」であったのだと私は思う。先生のレベルが下がったのか親がおかしくなったのかは知らないが、今の関係性で「体罰」もクソも無いだろう。お互いの信用が無ければそれは「暴力」でしかない。
私の思う「体罰」とは、善悪の線引きがちゃんと出来る感覚と信頼関係があって初めて成り立つものだと思う。理不尽に殴るのは暴力であってそんなものは許されるはずない。私は体罰を肯定しているわけではない。私の幼い頃のように言っても聞かない場合はどうするんだろうか。そして我が子はどうだろうか。学校で先生に殴られたとチビが私に言った時、私はどう思うんだろうか。それは「体罰云々」ではなく、その先生がどんな人物なのか、で私のその時の思いは180度変わるんだと思う。日野さんにビンタされた子供の父親は「うちの子が悪い」と言った。日野さんを信頼していたんだろうなと私は思った。この先生なら任せても大丈夫だ、そんな先生がウチのチビにも現れてくれる事を祈るばかりである。