外資系金融マンの読書ブログ

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教育のために「体罰」を行う自称教育者は、うぬぼれすぎである

さすがに平日に記事を書く暇はなく、最終更新日から1週間が経ってしまいました。この土日に書き溜めたので、しばらくは毎日更新ができると思います。

暴力による指導が認められるべき場面

誤解を恐れずに言えば、私は、暴力による教育が問答無用で悪いとは思わない。極めて限定的ではあるものの、暴力による教育を行わざるを得ない場面はあるだろう。

暴力による教育が認められる典型例には、人命や人権を軽んじる国家に対する武力制裁がある。

多少過激だと思われるかもしれないが、いまの北朝鮮に対して何らかの暴力が行使されたとしたら、私は「やむを得ない指導」と認識すると思う。北朝鮮に対する暴力を「暴力はいけない」と批判できる自信はない。

もう少しスケールダウンをするとしたら、強盗に対して警官が警棒で応戦するという場面がありうる。状況が状況なら発砲もあるかもしれない。これらも暴力による教育だといえると思うが、私個人は、やはりやむを得ないことだと感じてしまう。

暴力による教育を行う人の思考回路

要するに、暴力によって指導を行おうとする人は、自らを「強盗と制圧する警官」や「世界の警察」と同じような位置づけでとらえているのである。

しかし、実際に暴力を行使している自称教育者は、暴力によってきちんと制圧する能力もなければ、武力行使による教育が認められている立場でもない。ただの一般人であることがほとんどだ。

ここでいう一般人とは、特別な権限などを付与されていない人のことを指している。犯罪者も一般人に含まれるので、ここでいう「一般人」には善良であるとか一般的な頭脳を持っているとか、そういう意味は含まれていない。

名前も忘れたが、いま問題になっている自称教育者の音楽家は、音楽家ではあっても教育者ではない。自らの能力と権力を過剰評価している一般人である。

正当化された暴力に名前が付く

これは私の勝手な認識だが、暴力が正当化されるときには、暴力に「暴力」以外の名前が付く。

正義の国家から悪の国家への暴力なら「武力制裁」という名前が付き、善良な市民から犯罪(未遂)者への暴力なら「正当防衛」という名前が付く。警官がデモや犯罪者を指導するときは「鎮圧」や「制圧」という名前の下で暴力がふるわれる。

ただの一般人である自称教育者が、公的権力を持ったかのように錯覚したとき、被教育者への暴力に「体罰」という名前が付くのではないだろうか。

「体罰」という呼称は、自称教育者のはなはだしい思い上がりによって作られた幻想であると思う。

法律上の表記などは知らないが、私は「体罰」という言葉を使うべきではなく、一般的な暴力と同じように「暴力」または「傷害事件」と扱うべきだと思っている。

暴力による指導に効果があるか

さて、少し視点を変えて「体罰に効果がある」という主張について考えてみたい。

「教育に暴力が必要か」という議論において「暴力に効果がある」と主張するのは、だいぶん論点がずれている。「この医薬品は安全ですか」と聞かれて「病状に効果があります」と答えているようなものである。

医薬品の例を挙げた通り、私は、暴力による教育に効果がないとは考えていない。

多国籍軍による武力制裁も、発砲による強盗の鎮圧も、大いに効果がある暴力である。むしろ、効果があまりに大きいからこそ常には使えない暴力であろう。

有効な暴力は依存性のある医薬品と同じようなもので、最初はとても有効だが、使い続けると効果が薄まるくせに抜け出せなくなる。もしくは、効果の大きな医薬品には、大きな副作用があるものだととらえるのも的確かもしれない。

ステロイド軟こうはよく効くが、常には使うべきではない。抗がん薬はがんに有効かもしれないが、正常な細胞まで破壊してしまう。

このように、暴力に効果がないかというと効果はあるのである。しかし、効果があるから使うべきだというわけでもないし、効果があれば許容されるべきかというとまたそれも違うのである。

警察にでもなったつもりの自称教育者が、自分の権限の範囲を超えてふるう暴力は、難しく考えなくてもただの暴力に過ぎないのではないだろうか。