社会
『サピエンス全史』著者、ユヴァル・ノア・ハラリが考える「AI革命後の世界」|人工知能が創るアートに人間はかなわない?
From Bloomberg (USA) ブルームバーグ(米国)
Text by Yuval Noah Harari
人類の歴史を俯瞰した『サピエンス全史』が世界的なベストセラーになるなど、いま最も注目を集めている「知の巨人」、ユヴァル・ノア・ハラリ。新著(日本語訳は2018年9月刊行予定)の到来が待ちきれない人たちのために、海外メディアに掲載された「ハラリ教授が考える『人工知能が発達した社会』」に関する論考を3本連続で公開する。
これから数十年以内には、人間の生体データを外部のシステムが収集・分析し、その体内や脳内で起きていることを本人以上に理解できるようになる日が訪れることだろう。
そんなシステムがあれば、政府や企業は人間の欲望を予測し、操ることができるようになる。つまり、政治や経済は一変するはずだ。
では、このシステムは「芸術」の分野にどのような影響を及ぼすのだろうか。アートは、台頭する人工知能(AI)という全知のアルゴリズムが取って代わることのできない、人類の最後の砦(とりで)であり続けられるのだろうか。
そもそも、アートとは何か
現代社会では、アートは通常、人間の感情に関わるものとされている。アーティストは、自分の内なる心の動きから生まれるエネルギーを、特定の媒体を通じて発信しているのだ。そして、アートのそもそもの目的とは、鑑賞者が自分の感情に触れられるようにすること、あるいは鑑賞者のなかに新しい感情をかき立てることだと考えられることが多い。
だから、アートを評価するとなると、私たちはしばしば、その作品が鑑賞者の感情に与える影響を基準に判断し、「美とは見る者によって変わるものだ」と考えている。
アートに対するこうした考え方は、19世紀のロマン派時代に育まれ、いまからちょうど100年前の1917年に発表されたマルセル・デュシャンの作品をもって完成された。デュシャンは大量生産されているごく普通の男性用小便器を購入し、これをアート作品であると宣言。「泉」と名付けて署名を入れ、展示会に出品した。
この「泉」の写真は、世界中のアートスクールの講義で取り上げられており、講師の議論開始の合図とともに、各教室で大論争を巻き起こしている。「これはアートだ!」「いや、違う!」「いや、そうだ!」「アートのわけがない!」といった具合に。
学生たちにある程度、各自の熱い思いを発散させた後、講師はこんな問いを投げかけて議論を1点に集約させる。
「アートとは何だろう? 何かがアート作品であるかどうかは、どうやって決まるのだろうか?」
それから数分間の意見のやり取りを経た後、講師はクラスを正しい方向へと導く。「人がアートだと思うものは、すべてアートであり、美とは見る者によって変わるものなのだ」と。
人々がある小便器を芸術作品と考えるのであれば、それは芸術作品なのだ。そう考えるのは間違いだと断じられるほど高等な権威など、存在しないだろう。そして、人々がそのような芸術作品に何百万ドルも支払う気があるのなら、それがその作品の価値なのだ。
結局のところ、“お客様はいつでも正しい”のだから。
AIは優れた音楽家になれる?
一方で、作曲家のジョン・ケージは1952年、デュシャンのさらに上を行く『4分33秒』を作曲した。もともとはピアノ用に作曲されたものの、今日(こんにち)ではフルオーケストラによっても演奏されているこの作品は、長さが4分33秒で、その間、楽器はいっさい何も演奏しない。
観客に自分たちの内なる体験を観察するように促すことで、音楽とは何か、音楽に何を期待しているのか、音楽は日常生活で無作為に聞こえてくる雑音と何が違うのか、といったことを考えさせるためだ。
この作品のメッセージは、私たち自身の期待や感情が音楽を定義しているのであり、それによって音楽と雑音は区別されている、というものだ。