国民健康・栄養調査による計測値では、男の平均身長は、1950年の160.3㎝から2010年の171.5㎝へと10㎝以上、7.0%の伸びである。平均身長がこの間一貫して伸びている姿が印象的である。一方、女性の平均身長も、同時期に、148.9㎝から158.3㎝へとやはりほぼ10㎝、6.3%の伸びであり、男と同様、一貫して伸びている。 平均体重の方はというと、やはり増加傾向にあるが、男女に違いがある。 男は身長以上に体重の増が著しい。1950年から2010年への増加率は25.9%の伸びと身長の3倍以上の増加率となっているのである。一方、女性の方は、体重の増加率は身長の増加率よりやや高い程度である。特に、1970年代以降は、身長は伸び続けているのに、体重の増加率はかなり小さくなり、近年はほぼ横ばいといってもよい。 すなわち男性は肥満の方向に向かっている一方で女性はスリム化しているのである。もっとも体重の動きは年齢による差が大きく、ここでは示していないが40歳以上では、背とともに増加傾向が続いている。 肥満かスリム(あるいは痩せ)かを示す体格指数BMIの推移を男女別年齢別に図録2200に示し、20歳代に続いて30歳代の女性も痩せに向かっている点をみたが、身長と体重の動きでみるとこの図の通り、身長伸び、体重横ばいの結果なのである。 もっとも、戦後一貫して変化してきた以上のような傾向は2005年前後に止まったようである。身長、体重ともに、男の場合はやや低下気味、女の方は、ほぼ横ばいに転じたようである。国民健康・栄養調査がやはり毎年調べている摂取カロリーは1970年台前半にピークに達し、それ以後、低下傾向に転じている(図録0202予定)。どこまで大きな体格になるかは年少期の栄養状態が大きく影響すると考えられる。2005年の30歳代が生れたのは1964~1975年である。この頃の栄養摂取レベルが現在の体格の基礎になっているとすると、この頃はちょうど栄養増加のピークに達した頃であり帳尻が合う。 下に年齢別の男性平均身長の伸びのグラフを掲げた。栄養摂取のピークが影響を及ぼす時期が世代によってずれていることが分かる。20代では30代よりかなり以前から身長が横ばいとなっており、40代以降ではなお身長が伸び続けているのである。 さらに、戦前からの男女24歳の身長、体重、BMIの推移グラフを、その次に、掲げた。このデータはサンプル数が少ないだけに上のデータより毎年の変動が大きいが、これによれば、日本人の男女は、戦前には身長、体重ともに徐々に大きくなりつつあった。 また、男女ともに、戦時中に、体重はそれほど変わらなかったが、身長が短くなったといえる。例えば、男24歳の身長は戦前段階で165㎝に達していたが、戦後直後には再度160㎝水準に低下し、戦前水準を上回るようになったのは1970年頃であった。なお、BMIは戦前には戦後直後と同様に女性が男性を上回っていたようである。 参考までに骨考古学や形質人類学による縄文時代以降の日本人の身長の超長期推移を上に掲げた。 これらを見ると縄文時代から弥生時代にかけて日本人の身長は大きく伸長し、その後、古墳時代以降、江戸時代末期~明治時代にかけて、どんどん身長が低くなっていったようである。歯の大きさについても似たような変化がある点については「歯の豆辞典」サイト参照。 時代を遡るほど日本人の身長は低かったというわけでもないようだ。「その1」の図を引用している小山修三(1982)は、弥生時代には狩猟採集経済にコメが加わって安定度を増し身長が伸びたが、その後、コメへの片寄り、肉食の忌避、不労階級の増大による栄養不足によって再度身長が低くなった可能性が高いとしている。 なお、片山一道(2015)によれば、弥生時代の出土人骨は90%以上が北部九州と西中国日本海側であり、関東の出土は10人かそこらだった。関東出土の人骨による「その2」のデータに弥生時代が欠落しているのはそのせいだろう。これは関東に遺跡が少なかったからではなく、日本列島の特殊な土壌事情と弥生時代遺跡の立地条件により縄文時代と異なり骨類が土に帰してしまいがちだったからという。また、渡来人系と考えられる北九州や西中国の出土人骨では、「成人男性の平均身長は縄文人よりも4~5センチばかり大きい」のに対し、長崎あたりの弥生人は「まるで縄文人もどき」、また鹿児島とその島しょ部の弥生人は「顔立ちは縄文人的であるが、背が極端に低く、成人男性の平均身長は154センチほどと報告されている」(p.103)。すなわち、渡来系、縄文系(関東も)、南九州系と弥生人の地域差は大きかったことが指摘される。そして、「その1」における弥生時代の値は渡来系の値を採用していると見られるのである。 さらに、縄文人と中世人・近世人は同じように背が低かったといっても、足の長さは大きく異なっていたことも見逃せない。「縄文人は、身長が低いわりに、脚や腕が長めの体形であった。脚の長さの身長に対する比率は52%ほどと、最近の日本人と変わらないが、ほかの時代の値(おおむね50%を超える程度)に比べると大きい。つまり、さほど「胴長短脚」ではなかった。(中略)縄文人は、肩幅は細めながら、腰まわりは大きめだった。それに下肢の筋肉(ことに走行筋)が発達していたから、かなり、均整が取れ、まるでクロスカントリーの選手のような体形だったようだ」(片山(2015)p.61)。 (注)これに関しては、最近の研究では、縄文人は長脚でなく、後代と同様胴長だとされているらしい。「温暖な地域からやって来て脚が長いと想像されていた縄文人は、弥生人と同様に短足だったことが骨の分析で分かったと、国立科学博物館のチームが発表した。江戸時代の人は縄文人より胴長短足だったことも判明した。縄文人は、顔の形の研究などから南方の出身とする説が古くからある一方、謎も多い。同博物館の海部陽介・人類史研究グループ長は「体形から考えると、起源は南方よりも(寒冷な)北方とする説を支持する結果だ」と話している。 チームは北海道や本州、四国、九州にある20の遺跡で出土した主に6000~3000年前の縄文人63人分の骨を計測。島根・山口両県と九州北部にある4遺跡から発掘された弥生人27人分を調べ、体形データを比べた。一般に、温暖な地域では胴に比べて手や脚が長く、寒冷な地域では短くなるとされる。縄文人は脚が長い熱帯型とは言えず、北東アジアを起源とする寒冷地型の弥生人と差がなかった。身長は弥生人の方が高いという特徴があった。東京都内で出土した94人分ある江戸時代の人骨のデータを調べると、縄文人や弥生人より明らかに胴長短足だった。原因は不明だが、江戸時代の平均身長が低いことと関係がありそうだという」(毎日新聞2015年11月17日夕刊)。
戦後の身長の伸びがカロリー摂取量というより動物性タンパク質の摂取量の増加によるものだったことから逆に考えて江戸時代末期にかけての身長の短縮を動物性タンパク質の摂取量の減少によるものと考える見方が成立する。鎌倉時代より江戸時代の身長の短縮の「原因はおそらく、16~17世紀における人口増加にともない人間の生活圏が拡大して森林原野が減少したことにより、動物性蛋白質の摂取が減り、穀物依存の食生活が成立したことと関係があるのではないだろうか」(鬼頭1996)。16~17世紀の人口増加については図録1150参照。 明治以降の身長の伸びはそれ以前と比較して驚異的であるが、その要因としては、一般には、乳幼児以降の成長期における動物性たんぱく質の摂取増(戦後は特に乳製品の摂取増)という栄養状態の改善が想定されるが、片山の師である池田次郎の説では、通婚圏の拡大による雑種強勢が影響しているという。中世で背が低くなったのもこの反対の動きとされる。池田は「中世人や近世人で背丈が低めに推移し、頭が前後に長くなったのは、通婚圏が縮小したため、近代人になり、いくぶんか、その逆の身体変化が起こったのは、通婚圏のしばりが緩んだため、と考察した」(片山(2015)p.158)。 なお、図録2195で、身長の長期推移を世界の主要国と比較しているので参照されたい。近代以上の日本人の身長の伸びは世界の中でも類を見ない著しさだということが分る。 【参考文献】 ・片山一道(2015)「骨が語る日本人の歴史」ちくま新書 ・鬼頭宏(1996)「生活水準」(西川俊作・尾高煌之助・斎藤修編著「日本経済の200年」日本評論社) ・小山修三(1982)「米と日本人」(週刊朝日百科「世界の食べもの」101号) (2009年5月11日収録、10月15日歴史的推移を追加、2010年8月2日更新、2012年9月4日コメント追加、2013年1月5日更新、5月27日戦前からの図を追加、2015年2月24日日本人の身長の超長期変化(その2)追加、7月9日超長期変化について片山引用追加、8月18日更新、年齢別の男性平均身長の伸びのグラフ追加、11月17日縄文人短足報道)
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