関東大震災の朝鮮人虐殺云々が今更盛り上がっていますが、個人的に不思議なのは、たかだか100年前の出来事が本当にあったかどうかでもめている点です。
その頃にはもちろん新聞もあったし、写真や映像の記録も可能だったりしたわけで、それでもなお真偽のほどがわからないから揉めているわけです。
それってなんだか不思議じゃないですか?
ここで言いたいのは、真偽のほどがどうとかそういう話ではなくて、まだ生きている人間がいる100年前の出来事の真偽がわからないって、なんだか不思議だなっていう話です。
これがもし10年前の話だったらほぼ確実に白黒つくと思うんですよね。
何かしらの記録も残っているでしょうし、記憶も残ってる方が大勢でしょうから。
とはいえ、今から100年後に、最近起こった出来事の真偽を尋ねたとしたら、多分揉めると思うんですよ。
100年後の人から見たら、私たちが書いているチラシの裏以下のブログに書かれたクソみたいな文章と、著名な誰かが書いた素晴らしい文章との実質的な差異がわからないケースが出てくると思うんですよね。釣り記事なのに1000スターくらい付いてしまったエントリとかって、今は明らかにネタだとわかっていたとしても、100年後の人にはそれが判断できないと思うんですよ。その当時の時代背景を理解しているわけでもないですし、それこそ、その当時の日本におけるネット文化とその背景なんてものは想像でしか語れないわけですから。とすると、揉めちゃうはずなんですよ。記録はあるはずなのに、その記録の真偽のほどが判断できないから。
別の観点から考えても、揉める可能性の方が高い気がしています。
「インターネット上に何かを公開する=未来永劫残る」となんとなく思っている人も多いでしょうけど、実際は多分そんなことがないわけです。
現に、潰れてしまったブログサービスに乗っていた記事なんかはもう読めないわけです。
もちろん、個人的に記録を残している人もいるでしょうけど、彼らの記憶媒体が物理的に壊れてしまえばそれはもう見れないも同義なわけです。
CD-ROMやHDDやSSDなんて、もって10年程度ですし、定期的なバックアップを繰り返さない限り、記録はなくなってしまうわけです。
とすると、下手したらそもそも記録がないというパターンもそれなりに生まれるのかなと思ったりします。
これだけ社会が進歩して、記録するための仕組み化が進んだにもかかわらずです。
情報量が多すぎてまともな分析はできないでしょうし、色々な思想が混じり合いすぎて、何が正しいのか今以上にわからないでしょうから。
真実ってなんなんでしょうね。
少なくとも私は、コナンくんが真実と決めたことならば、もうそれは真実って受け入れる覚悟はできています。
一週間前の夕飯だって曖昧なんだから当然っちゃ当然