ブログをやっているとネガティブなリアクションに傷つけられてしまうこともあるでしょう。炎上とかもあるしね。特にはてなブログははてなブックマークの影響でそういったことが起こりやすい環境でもありますね。
幸いにも僕は1年8ヶ月ブログを運営してきていまだに炎上したことがないのですけどね。その代わり大きなバズ的なものもないです。はてなブログの片隅でひっそりと息を潜ませて生存している弱小ブロガーなもので。
そんで、そういった炎上とかがあるたびに「嫌なら見るな」的な意見が出るわけです。ブログなんて読まなくてもいいんだからと。でも僕は「嫌なら見るな」ってのは基本的に反対なんですよね。
これ書くとちょっと燃えそうって気もしますが書いておきたいと思うので心して書きます。
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そもそも論外なものもある
最初に書いときますとそもそも論外ってモノもあるんですよね。
論外な記事
例えば理不尽な個人攻撃とか誰かの名誉を傷つけるような記事ですね。
そもそもそんなレベルの不当な記事は存在自体が相手に不快感を与えたり不利益になったりしますからね。読む読まない以前の問題です。
さすがにそこまで酷い内容であれば誰も擁護はしないと思いますので、そういった記事は今回は扱わないってことにします。
本質とズレた中傷
誰かの書いた記事に対して記事に対する批判の枠を超えて意味の分からない中傷、人格攻撃をするのも論外ですよね。
中にはとにかく人を中傷して楽しんでるようなのまでいますから。そういうのはとにかくスルーするしかないですね。腹立たしいでしょうけど。
ブログには何を書いても許されるのか?
言論の自由とか表現の自由は基本的人権と考えられているわけで、まぁ何を書いても自由ですよね。それはそうです。なので基本的に何を書いても許されるというのがルールです。ここからはその上での配慮の話。
ブログは公共の場かそれとも私的な場か
よくこういった問題について考えるときにブログって公共の場所なのかそれとも私的な場所なのかという議論になります。でも僕はこれはそもそも問いが間違っていると考えます。
公共の場所には多くの人がいて、だからこそ他の人のことを考えたルールやマナーが定められているわけです。でも、相手がいればその相手に対して守るべきマナーというのは公共の場所でも私的な場所でも基本的には変わりありません。公共の場で多くのルールやマナーがあるのはそこにいる人が不特定多数であるため、ルールやマナーを統一しないと収拾がつかないからというだけです。
基本的にルールやマナーはそこにいる人同士がなるべく快適に過ごせるようにするというのが目的ということに変わりはありません。自宅の中でも友人に失礼なことをして良いことにはなりません。
二元論的な考え方はわかりやすいですが、結局枠にはめることでわかりやすくしているだけであってどこか一部が私的な要素を含むからブログは私的な場所、何をやってもいいというのは無理がありますし、逆もまたしかりです。
「嫌なら見るな」という意見について考えるとき、ブログに対して言えることは、「本人の意思で記事を公開し不特定多数の人が見ることができるもの」ということだけではないでしょうか。であれば、ブログは本人が所有している(少なくともコンテンツの権利については)という意味で私的な場であると同時に、不特定多数が訪れることができる公共の場としての側面もあるわけです。
「ブログという場所がどういう性質か?」とかではなくて、読者という相手がいる以上その相手に対して意識を向ける必要があるのは当たり前ではないか、というだけの話です。
何を書いても傷つく人はいる
どんな記事でもその記事を読んで誰かが傷つく可能性はあります。例えば試験に合格した記事を書いたら不合格だった誰かが傷つくかもしれませんし、好きな有名人について書いたらその有名人の関係者で不快に思う人がいるかもしれません。もっといえば何かの事故で「鉛筆」にトラウマを抱えた人は「鉛筆」という単語が出る記事はすべて不快なのかもしれません。
でもそれって別にブログに限った話ではないですよね。相手に悪気がなくても何気ない一言にイラっとしてしまうことってあったりするわけで、表現というのがコミュニケーションである以上、そこで対立が生まれたり、傷つく人が出るのはある意味では当たり前の話です。
だからと言って、友人に思ったことを何でも言って傷つけていいわけじゃない。相手が傷つくとわかっていても言わなければいけないことを言うときは言葉も選ぶし、ちゃんと相手のことを考えながら伝えませんか?
ブログも同じだと思うんです。誰かが傷つく可能性はある、それでも書きたいならそれなりの配慮はするのがマナーというものです。ただ自分の言いたいことを言えばいいというものではないのではないでしょうか。
反論することも自由
最初に書いた通り、僕はブログには何を書いても自由だと考えています。それが個人の権利として認められているわけですから。縛られるのは運営との契約、つまり利用規約くらいですね。
でも同じくブログに記事にコメントしたりメッセージを送るのも自由です。どちらか一方に権利が認められるということはありえませんからね。
嫌なら見ないことは可能なのか
そもそも嫌なら見るなってことは可能なのでしょうか。
嫌なら見るなは因果関係が逆転している
そもそもなんですけどね。嫌って思った時点ですでに不快な感情はあるわけですよね。もうその記事の内容とか印象はある程度わかっている段階じゃないと嫌かどうかわからないじゃないですか。
読んだから嫌になったのに嫌なら見るなって不可能じゃないですか?嫌なら見るなっていうのは因果関係が逆転してしまっているんですよね。
強制的に見せられたわけではないとはいっても読者から見ればある程度不可抗力なんじゃないですかね。それに対して公開する側はその記事を公開するかどうかをちゃんと決めることができるんですよね。
駅前で演説をしているようなものだ
ひっそりとやっていて普段誰も来ないようなブログなら人を傷つけることもないでしょう。でも個人のブログの記事だって大勢の前にさらされることもあるわけですよ。
例えばホッテントリ入りしてはてなブックマークのトップに表示される。Twitterのタイムラインで回ってくる。特にそのブログを訪れるつもりがない人でもタイトルと書きだしが目につきます。多くの場合タイトルには記事の主張が入ってくるわけで、見るなと言われても目についてしまったりするじゃないですか。
これって例えば駅前で拡声器使って演説しているようなものです。駅から出てくる人は足早に通り過ぎればその演説のごく一部しか聞こえることはありません。それでも演説を聞いて何か思うところがあったりしませんか?
もちろん一度公開した記事がどこまで拡散されるのかは記事を公開した本人でもわかりません。でもそうやって不快に思う誰かのところに積極的に届く可能性もあるんですよね。
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それでもブログは書いていいのだ
ブログは個人の意思を表現する場所としてもとても魅力的な場所です。だからその人が伝えたいことは素直に書けばいいと思います。意見が対立することを恐れて意見を言わないというのはもったいないことです。
あと、多くの場合に問題になるのはその人が伝えたいことの本質というより表現の手法だと思います。自分の意見を強調するために一部の極端な例を持ち出したり、極論で誰かを責めたり、何かと比較するために不必要に何かを貶めたりといったことですね。
上でも書きましたがどんな記事でも誰かを傷つける可能性はありますし、それは現実の人間関係などと同じことです。誰かを傷つけることを怖れて主張をしないなんて必要はありません。
ただ、読み手の気持ちに最低限配慮する。そういう気持ちは必要なんじゃないかなって思うのです。少なくとも「嫌なら見るな」というのはちょっと違うんじゃないかなってそう思うのです。
ちなみにこの記事を読んで不快に思う方もいるかもしれません。どれくらいの方が読んでくれるかにもよりますけど。
でも僕の想像力の働く範囲で、僕の意見を殺さない範囲で配慮したつもりです。
結局のところ人間は傷つけあってしか生きていけないのだから、相手を傷つける上での何かを考えていかないといけない気がするのです。