2017年09月01日
『童貞。をプロデュース』について
ここでは情報を整理するために、『童貞。をプロデュース』という映画に関してぼくが知っている事実を時系列を追って説明させていただきたいと思います。
可能な限り客観的事実に即して語っていきたいとは思うのですが、「なぜそうなったか」を説明するためにその時その時のぼくの私見や心情も入ってくるとは思います。加えて、なるべく事実関係の誤解が生じないよう、主語や目的語などを極力省略せずに書いていこうと思いますので、多少読みにくい文章になるかとは思いますが予めご理解ください。
まず松江さんと初めて会ったのは、ぼくが通っていた映画の学校で松江さんがドキュメンタリーのクラスの講師を担当していたことに由来します。
卒業後、しばらくしてぼくが出品していた映画祭で松江さんと再会します。当時、ぼくはAVにモザイクを入れるアルバイト等をしながら自分の『童貞』をモチーフにセルフドキュメンタリーを制作していて、その内容を整理する目的もあって、女性に恋をしたこと等、その当時の様子を自分のブログに書いていました。
そんなある日、ブログを見た松江さんから「最近、恋してるんだって? ドキュメンタリー作ってるんだって?」という電話が掛かってきて、「イメージリングス主催の上映イベント(ガンダーラ映画祭)があって、俺も今度『童貞』をテーマにしたドキュメンタリーをつくろうと思っているんだけど、一緒にやろうよ」といった話になったのです。その時も悩んだのですが、松江さんから「加賀の悪いようにはしないから。どういう作品にするかも必ず相談するし、二人の判断で決めていこう」と言われ、松江さんとドキュメンタリーを制作することになったのです。そうして、それまでにぼくが撮り溜めていた映像素材を松江さんに渡して、その後もぼくは自分のカメラで自撮りをして自分や自分の周りのことを撮影していました。
そんな中、松江さんから「俺がセッティングするから、AVの現場へ取材に行こうよ」と言われ、自分のカメラを持ってAVの撮影現場へ取材に行くことになりました。初めて訪れる事務所へ案内され、初めてお会いする松江さんの知り合いのAV関係者の方たちに挨拶をして取材はスタート。するとなぜか内トラ(※人員不足などを補うためにスタッフがエキストラ出演すること)のような形で屋外でのスチール撮影をする流れになり、その後、ホテルの一室に移動すると突然「それじゃパンツ脱いで」と言われたのです。その時点でぼくは断ったのですが、密室で初めて会う人々に囲まれる中、松江さんから「早くしろよ」「みんなお前待ちなんだよ」「お前のせいで現場が進まねえんだよ」「俺に恥かかせんなよ」「松尾さんを待たせるなんて、お前いい度胸してるな」等々を言われ、それでも断っていたのですが、「じゃあフェラチオのフリだけでいいよ」と提案され、そういった恫喝によって判断力が疲弊していたのもあって、さすがに断りきれず渋々ながら形だけのポーズを取らされたのです。そうして始めはフリだったはずが、不意打ちでいきなり本当にフェラチオをされたので、ぼくは「やめましょう」と言って女優さんを引き離しました。すると周りにいた男性に羽交い締めにされ、無理やりフェラチオされる様子を撮影されたのです。
その撮影後、今度は松江さんから「告白シーンが撮りたい」と言われたのですが、それもぼくは断りました。すると後日、「俺から連絡しておいたから」とぼくが当時好きだった女性に、松江さんが独断で出演オファーをしたのです。それでもぼくは撮影を拒んでいたのですが、松江さんが「もういいよ。だったら俺の方から、あの娘にお前が好きだってことを伝えてやるよ」と言い始めたのです。ぼくはこんな撮影に彼女を巻き込みたくはなかったし、告白は自分のタイミングでしたいと思っていました。最終的に断れなかった理由は、これは本当に幼稚で青臭い理由だと思われるかもしれませんが、「好きな女性に告白する機会」というものを松江さんに人質に取られて、松江さんとの押し問答の中で半ば脅迫されていたからです。そうして「告白シーン」は撮影されたわけですが、実際には告白までに至っていません。松江さんに呼び出されて渋谷の交差点で待っている彼女の元へ、カメラを持って行き「話があるんですけど」と言って撮影は終わりました。その場にも松江さんは立ち会っていて、彼女に「これはフィクションなんだ」「ヤラセなんだ」と説明していました。ぼくは自分の現実が、松江さんの手によってフィクションに歪められていくことが非常に不本意でした。
そうして『童貞。をプロデュース』は完成したのですが、松江さんが編集した完成版を見たぼくは納得していない旨を伝えました。するとまた松江さんのゴリ押しが始まり、「俺はこれをノーギャラでやっている」「これで金儲けはしない」「ガンダーラ映画祭で上映するだけだから」「もし他で上映することになったとしたら、その時にまた話し合おう。その時は必ずお前の意見を尊重する」「ガンダーラ映画祭にはお前も呼ぶし、お前も言いたいことがあるならそこでお客さんに説明すればいい」と説明したのです。ガンダーラ映画祭はぼくの知り合いも参加している、言ってしまえば内輪ノリの小規模な上映会で、観る人も松江さんの人間性を含めてある程度わかっているような人たちばかりだから、ぼくの声が届く範囲で説明をすれば、むしろ問題点は観た人に伝わるのだろうと思っていました。
ガンダーラ映画祭が終わってからしばらくして、先述した女性とお付き合いすることになりました。彼女も『童貞。をプロデュース』には不快感を抱いているようでした。
(※一応書いておくと、この女性とお付き合いが始まってから一ヶ月くらいまでぼくは童貞でした)
性暴力云々といった問題も、もっと早い段階でもっとちゃんと議論するべきだったのかもしれませんが、自分のせいで巻き込んでしまった彼女をこれ以上傷つけたくなかったというのも、この議論に歯止めをかけていたひとつの大きな要因としてあると思います。その時は、自分が「性被害者」であることを声高に訴えてあれを「笑えないでいる」と強く主張することが、彼女や周りの人を傷つけてしまうのではないかと思っていました。
ぼくには「被害者」になる勇気と覚悟も足りていなかったのかもしれません。しかしそれは間違いでした。
被害者であることは決して恥ずかしいことではないし、そういうものを笑えないことは「空気を読めない」ということではないと思います。むしろ恥ずべきはそういったことに無自覚な人々の方で、なにも臆することはないし、「笑えない」なら「笑えない」ともっと強く主張するべきでした。
(※その時にぼくが全くなにも言っていなかったわけではありません。主張の強度の問題であることをご理解ください)
なにより不本意なのは、自分が被害者であるということよりも「加害者」でもあるということです。ぼくは「映画をつくる側」の人間だし、自分がそういった同調圧力の形成に加担しているのだとすると、ぼくにはそれがどうしても耐えられないのです。
ちなみに誤解があるようなので念のために書いておくと、ぼくは映画を含む映像制作を生業として生計を立てていますが、俳優ではありませんし、AV男優をしていたこともありません(※文脈上、齟齬が生じそうなので一応付け加えておきますが、もちろん「俳優」も「映画をつくる側」だと思っています)。ぼくはあの映画の被写体であると同時に、あの映画の撮影者でもあるのです。事前に台本が用意されていたわけではなく、問題となっている一部箇所を除いて、大半はぼくがぼくの演出と自己判断で撮影した映像が使われています(そこにヤラセ要素はありません)。それを松江さんが編集して「作品」にしました。松江さんとぼくは「撮る側」と「撮られる側」でもありますが、「編集者」と「撮影者」という関係でもあるのです。
ですから、10年以上前に「劇場公開をしないでください」とお願いしたにも関わらず約束を反故にされ、一方的に劇場公開を強行された時も、機会があるのならば、ぼくには舞台挨拶の場に立って観た人たちに説明していく責任があると思いました。松江さんとの縁を切って知らぬ存ぜぬを決め込むのでは、あれを撮影した人間としては無責任だと思ったのです。
(※「当初からフェイクドキュメンタリー/モキュメンタリーと説明されていた」といったご指摘もあるようですが、「わかってる人はわかっていた」といったことは一先ず置いておいて、これはどうしても印象論になってしまいますが、あれは当時ぼくが舞台挨拶の場でツッコんでいたからで、松江さんの方から積極的に喧伝していたということではないと記憶しています。それは言わば松江さんなりの小さな免責表示のようなもので、それも舞台挨拶という限定的な場で、一部の松江さんによるヤラセ要素を認めることがたまにあったということです。つまり商品パッケージにそういった記載は一切なく、販売者が購入者を選び、口頭で説明することが時々あったということで、それをもって「説明があった」とするのは少々弱い気がします。それと都合の悪いツッコミに対して松江さんは、その場でぼくを嘘つき呼ばわりすることでスルーしていました)
観客の目に晒されることで、観客のリテラシーに委ねることで、ぼくの主張も一定の理解はされるものと信じていました。なにより作品自体が証拠なのだから、それこそ「わかる人にはわかるのだろう」と考えていたのです。
しかしそれは甘い考えでした。ぼくがなにを言っても、概ねそれはただの「笑い」として消費されていったのです。
そうしておよそ10年前、周りの人たちだけにでも、ぼくのその主張が本当に真剣であるということを理解してもらうために、ぼくは『世界で一番やさしいゲロ』と題したブログ記事に、例の「告発」と言われている文章を書いたのです。もちろんそれまでにも関係者とは幾度となく話し合いを重ねてきました。
しかし状況はなにも変わりませんでした。
観客の方から個人的にいくつかの同情や応援の声は頂けたものの、ぼくの中の「真実」やぼくが考える「道理」も、松江さんたちが主張する「おもしろければいい」という論理の前に黙殺されたのです。関係者は誰もぼくの言い分を受け入れてはくれませんでしたし、多少の同情を寄せてくれたとしても、結局は「気持ちはよくわかるけど、もう少し大人になろうよ」といった結論に終始していました。
その後も色々あったのですがキリがないのでここでは一旦省略するとして、その後は松江さんから「もうお前とは話したくない」と言われて連絡が取れなくなり、宣伝配給の直井さんとのやり取りも途中で返信が来なくなって途切れてしまいました。そうして関係者からぼくは完全に無視されるという形で、これまでの10年間以上、『童貞。をプロデュース』の上映は続けられてきたのです。
これまでになぜ法的措置をとってこなかったのかといったご指摘もあるかとは思います。
実際には、当時からぼくは弁護士さんへの相談を度々していました。証拠を提示してお話を伺った結果、ぼくの主張には法的な正当性があるという、要するに裁判を起こせば勝てるというのが弁護士さんたちの一様の見解でした。
ではなぜ訴えを起こさなかったのかといえば、様々な理由がありますが、ひとつは周りを巻き込んだ本当の泥試合になってしまうことも予想されたからです。これ以上のことは相手の人間性にまで踏み込んだ話になってしまいそうなので省略しますが、場合によっては(※あくまで、ごく稀な「場合によっては」ですが)裁かれないことの方が社会的な意義をもつこともあるのではないかという個人的な考えもあります。もしかしたら、お金で解決しても残るのはお金だけなのかもしれません。
それからおよそ10年の時が経ち、どういう経緯があったのか詳しくは存じ上げませんが、再びぼくに舞台挨拶の機会が巡ってきたのが先週(2017年8月25日)のことです。
全然関係のないことなのかもしれませんが、その日の昼下がりの時分でしたでしょうか、NHK教育では『いじめノックアウト』という番組が放送されていました。夏休みが終わりを迎えようとしている頃、学校へ行きたくなくてしょうがない人たちは今どんな気持ちでいるんだろう、死刑への秒読みを待っているような心持ちなんじゃないだろうか、とぼんやり考えていました。
その日は亡くなった親友が生前にくれた『バーバレラ』のTシャツを着て劇場へ向かいました。
少し触れておくと、その親友はAVの仕事をしていて、仕事を楽しんでいるようだったし職場の先輩たちに対する尊敬の言葉も度々口にしていましたが、それと同時に彼は仕事のことで心を痛めているようでもありました。高円寺の居酒屋で「もう誰にも傷ついてほしくない。もう誰にも死んでほしくない」と泣いていた本当に心のやさしい友人は、ある日突然ぼくたちの前からいなくなってしまいました。そういえば彼は生前、何度も「松江さんと仲直りするんだ」とぼくに言っていました。
先週、劇場の控え室でスタッフの方から『童貞。のプロデュース』のTシャツを渡されましたが、ぼくは着替えることができませんでした。なので、Tシャツの丈云々といったご指摘はあまり関係がありません。
ぼくは自分のやったことが正しいとは思っていません。松江さんたちと同じ土俵に上がった以上、松江さんたちと同じ責任を負わなければならないと思っています。
ただ、ブルース・スターリングの『スキズマトリックス』のセリフにもあるように、「俺たちは正しいことと可能なことのあいだで生きている」わけで、少なくともあの時に結局なにもしないで終わるなんていうことは、ぼくには不可能でした。「本当か、嘘か」ではどうせ水掛け論で終わるだけですし、「正しいか、正しくないか」といった倫理性を巡る議論も当事者間ではいつまでも平行線のままで、松江さんたちの言う「おもしろいか、おもしろくないか」の土俵で勝負することしか、その時のぼくには残されていなかったのです。
そこで観客を巻き込む以上、いかにして野坂昭如vs大島渚戦といいますか、『ゼイリブ』のロディ・パイパーvsキース・デヴィッド戦、もしくは『青春の殺人者』の水谷豊vs市原悦子戦のようなベストバウトを、泥試合を見せられるかが問題なのだと思いました。ズボンを履いたまま一方的に正論を並べ立てたとしてもお客さんは退屈するだけだろうと予想し、あそこではフルチンになって語るのがお客さんへの最低限のマナーなのだろうと考えた次第で、もしそれを不愉快に感じる人がいるのだとしたら、それは単純に観る映画を間違えたということなのだろうと解釈したわけです(※皮肉を説明するというのは非常に野暮なことかもしれませんが、ここでいう「不愉快に感じる人」というのは、つまりぼくと同じ感覚の持ち主ということです)。
映画をつくる人間であれば「作品」で勝負をするべきだというご指摘はあるかと思います。それは当然の意見だと思いますし、それこそ正当なやり方なのでしょう。しかし「伝える」という観点から、最も実効性の高い方法としてぼくは「事件」を選んでしまったのです。あるいは客席からカメラが向けられている以上、松江さんの文法でいうところの「映画」にさえなりうると思ってしまいました。
しかし、それをして状況がどう変わったのかはわかりません。
ただ、ぼくが松江さんの髪の毛を掴むあの瞬間まで、ほとんどのお客さんが、自分がどんな映画を観にきたのかにさえ気づいていなかったということもひとつの事実だと思います。
あの一件の後、『童貞。をプロデュース』に関して笑ったことを後悔しているとか罪悪感を感じているといった声を耳にしました。ぼくは笑ってしまうこと自体は別に悪い事ではなくて(「笑い」というものが根源的な暴力性を備えたものなのだと思います)、むしろその笑いを通してなんらかのリテラシーが得られれば、それこそもっとおもしろいことなんじゃないかと思うのです。そもそもリテラシーというのは高いとか低いとかではなくて、それぞれ違うリテラシーが存在するということなのではないでしょうか。
「笑えないでいる人間」を、一方的に「空気が読めない」とか「リテラシーが低い」とかいった同調圧力で否定してしまうことこそが問題なのであって、「自分はこんなにおもしろいと思っているのに、どうしてこの人は笑えないでいるんだろう?」もしくは「この人は本当に笑っているんだろうか?」といった想像を巡らせて考え始めた時に、人間はもっとやさしくなれるのだろうと思います。
補足として、今回の件に関して梅澤くんは関与していませんし当然責任もございません。舞台挨拶の一部始終をご覧になられた方はご存知のように、むしろ梅澤くんという人はああいう空気を読まない、何を考えているのかよくわからないトリックスター的な存在でして、友人のぼくが言っても信用されないことかもしれませんが、彼の言葉というのはぼくにとっても自らを省みる判断材料として、客観的な証言として信用できたといいますか、「梅澤くんはこんな風に思っていたんだ」というぼくなりの発見と理解がありました。
客席から声を上げてくださっていた話題の動画撮影者の方についても、決して一部で指摘されているような「仕込み」などではございません。あの時まで直接お会いしたこともなかったのですが、この件とは全く関係のない別の機会にこの方が監督されたセルフドキュメンタリーを拝見させていただくことがあった関係で、顔と声とお名前だけは存じ上げておりまして、それで壇上から「誰かわかった」と発言した次第です。なので、この方についても舞台挨拶上の件に関しては直接的な関与も一切の責任もございません。
長々と書き連ねてしまいましたが細かいことを並べていくと本当にキリがないので、今はこれくらいに留めておきます。
以上のことは誤解や錯綜している情報を整理する目的で、ぼくからの事実を書いたもので、松江さんや関係者を誹謗中傷するために書いたものではありません。ましてや松江さんの出自を理由として無分別な批判をしたり揶揄したりだとか、そういった対立軸に与する気は一切ございませんし、むしろそういった不合理な言説を強く否定するためにも書いたものであるとご理解ください。
もちろん事実に基づいた正当な批判であれば、ぼくも松江さんも関係者もそれを受けて然るべきだと思います。ぼく自身も恨んでいないと言ったら嘘になるでしょうし、お酒を飲んでいたりして話の折に触れれば松江さんや関係者の悪口のひとつやふたつくらいは口にするのだろうと思います。しかし、どうでもいい単なる愚痴なんかは飲み屋での酒の肴くらいに留めておきたいですし、インターネット上で個人攻撃や人格攻撃をすることも本意ではありません。
皆様のご理解を賜れれば幸いです。
以上の文章は、誰になにを言われたわけでもなくぼくが一人で勝手に書いたものです。専門家に相談したわけでもないし、事前に誰かに読んでもらったわけでもありません。なので、もしかしたら自分で書いたこの文章が自分にとって不利に働くこともあるかもしれません。
正直、松江さんと直井さんが連名で出した文章に失望してしまったというのもあります。大人だから保身の意味もわかってはいるつもりですが、ぼくが裸になったのは下半身だけじゃなかったはずで。
だからこそ、ぼくは自分の言葉で書きたかったし伝えたかったのです。
一番伝えたい人たちに伝わらないのが本当に悲しいけれど。
加賀賢三
可能な限り客観的事実に即して語っていきたいとは思うのですが、「なぜそうなったか」を説明するためにその時その時のぼくの私見や心情も入ってくるとは思います。加えて、なるべく事実関係の誤解が生じないよう、主語や目的語などを極力省略せずに書いていこうと思いますので、多少読みにくい文章になるかとは思いますが予めご理解ください。
まず松江さんと初めて会ったのは、ぼくが通っていた映画の学校で松江さんがドキュメンタリーのクラスの講師を担当していたことに由来します。
卒業後、しばらくしてぼくが出品していた映画祭で松江さんと再会します。当時、ぼくはAVにモザイクを入れるアルバイト等をしながら自分の『童貞』をモチーフにセルフドキュメンタリーを制作していて、その内容を整理する目的もあって、女性に恋をしたこと等、その当時の様子を自分のブログに書いていました。
そんなある日、ブログを見た松江さんから「最近、恋してるんだって? ドキュメンタリー作ってるんだって?」という電話が掛かってきて、「イメージリングス主催の上映イベント(ガンダーラ映画祭)があって、俺も今度『童貞』をテーマにしたドキュメンタリーをつくろうと思っているんだけど、一緒にやろうよ」といった話になったのです。その時も悩んだのですが、松江さんから「加賀の悪いようにはしないから。どういう作品にするかも必ず相談するし、二人の判断で決めていこう」と言われ、松江さんとドキュメンタリーを制作することになったのです。そうして、それまでにぼくが撮り溜めていた映像素材を松江さんに渡して、その後もぼくは自分のカメラで自撮りをして自分や自分の周りのことを撮影していました。
そんな中、松江さんから「俺がセッティングするから、AVの現場へ取材に行こうよ」と言われ、自分のカメラを持ってAVの撮影現場へ取材に行くことになりました。初めて訪れる事務所へ案内され、初めてお会いする松江さんの知り合いのAV関係者の方たちに挨拶をして取材はスタート。するとなぜか内トラ(※人員不足などを補うためにスタッフがエキストラ出演すること)のような形で屋外でのスチール撮影をする流れになり、その後、ホテルの一室に移動すると突然「それじゃパンツ脱いで」と言われたのです。その時点でぼくは断ったのですが、密室で初めて会う人々に囲まれる中、松江さんから「早くしろよ」「みんなお前待ちなんだよ」「お前のせいで現場が進まねえんだよ」「俺に恥かかせんなよ」「松尾さんを待たせるなんて、お前いい度胸してるな」等々を言われ、それでも断っていたのですが、「じゃあフェラチオのフリだけでいいよ」と提案され、そういった恫喝によって判断力が疲弊していたのもあって、さすがに断りきれず渋々ながら形だけのポーズを取らされたのです。そうして始めはフリだったはずが、不意打ちでいきなり本当にフェラチオをされたので、ぼくは「やめましょう」と言って女優さんを引き離しました。すると周りにいた男性に羽交い締めにされ、無理やりフェラチオされる様子を撮影されたのです。
その撮影後、今度は松江さんから「告白シーンが撮りたい」と言われたのですが、それもぼくは断りました。すると後日、「俺から連絡しておいたから」とぼくが当時好きだった女性に、松江さんが独断で出演オファーをしたのです。それでもぼくは撮影を拒んでいたのですが、松江さんが「もういいよ。だったら俺の方から、あの娘にお前が好きだってことを伝えてやるよ」と言い始めたのです。ぼくはこんな撮影に彼女を巻き込みたくはなかったし、告白は自分のタイミングでしたいと思っていました。最終的に断れなかった理由は、これは本当に幼稚で青臭い理由だと思われるかもしれませんが、「好きな女性に告白する機会」というものを松江さんに人質に取られて、松江さんとの押し問答の中で半ば脅迫されていたからです。そうして「告白シーン」は撮影されたわけですが、実際には告白までに至っていません。松江さんに呼び出されて渋谷の交差点で待っている彼女の元へ、カメラを持って行き「話があるんですけど」と言って撮影は終わりました。その場にも松江さんは立ち会っていて、彼女に「これはフィクションなんだ」「ヤラセなんだ」と説明していました。ぼくは自分の現実が、松江さんの手によってフィクションに歪められていくことが非常に不本意でした。
そうして『童貞。をプロデュース』は完成したのですが、松江さんが編集した完成版を見たぼくは納得していない旨を伝えました。するとまた松江さんのゴリ押しが始まり、「俺はこれをノーギャラでやっている」「これで金儲けはしない」「ガンダーラ映画祭で上映するだけだから」「もし他で上映することになったとしたら、その時にまた話し合おう。その時は必ずお前の意見を尊重する」「ガンダーラ映画祭にはお前も呼ぶし、お前も言いたいことがあるならそこでお客さんに説明すればいい」と説明したのです。ガンダーラ映画祭はぼくの知り合いも参加している、言ってしまえば内輪ノリの小規模な上映会で、観る人も松江さんの人間性を含めてある程度わかっているような人たちばかりだから、ぼくの声が届く範囲で説明をすれば、むしろ問題点は観た人に伝わるのだろうと思っていました。
ガンダーラ映画祭が終わってからしばらくして、先述した女性とお付き合いすることになりました。彼女も『童貞。をプロデュース』には不快感を抱いているようでした。
(※一応書いておくと、この女性とお付き合いが始まってから一ヶ月くらいまでぼくは童貞でした)
性暴力云々といった問題も、もっと早い段階でもっとちゃんと議論するべきだったのかもしれませんが、自分のせいで巻き込んでしまった彼女をこれ以上傷つけたくなかったというのも、この議論に歯止めをかけていたひとつの大きな要因としてあると思います。その時は、自分が「性被害者」であることを声高に訴えてあれを「笑えないでいる」と強く主張することが、彼女や周りの人を傷つけてしまうのではないかと思っていました。
ぼくには「被害者」になる勇気と覚悟も足りていなかったのかもしれません。しかしそれは間違いでした。
被害者であることは決して恥ずかしいことではないし、そういうものを笑えないことは「空気を読めない」ということではないと思います。むしろ恥ずべきはそういったことに無自覚な人々の方で、なにも臆することはないし、「笑えない」なら「笑えない」ともっと強く主張するべきでした。
(※その時にぼくが全くなにも言っていなかったわけではありません。主張の強度の問題であることをご理解ください)
なにより不本意なのは、自分が被害者であるということよりも「加害者」でもあるということです。ぼくは「映画をつくる側」の人間だし、自分がそういった同調圧力の形成に加担しているのだとすると、ぼくにはそれがどうしても耐えられないのです。
ちなみに誤解があるようなので念のために書いておくと、ぼくは映画を含む映像制作を生業として生計を立てていますが、俳優ではありませんし、AV男優をしていたこともありません(※文脈上、齟齬が生じそうなので一応付け加えておきますが、もちろん「俳優」も「映画をつくる側」だと思っています)。ぼくはあの映画の被写体であると同時に、あの映画の撮影者でもあるのです。事前に台本が用意されていたわけではなく、問題となっている一部箇所を除いて、大半はぼくがぼくの演出と自己判断で撮影した映像が使われています(そこにヤラセ要素はありません)。それを松江さんが編集して「作品」にしました。松江さんとぼくは「撮る側」と「撮られる側」でもありますが、「編集者」と「撮影者」という関係でもあるのです。
ですから、10年以上前に「劇場公開をしないでください」とお願いしたにも関わらず約束を反故にされ、一方的に劇場公開を強行された時も、機会があるのならば、ぼくには舞台挨拶の場に立って観た人たちに説明していく責任があると思いました。松江さんとの縁を切って知らぬ存ぜぬを決め込むのでは、あれを撮影した人間としては無責任だと思ったのです。
(※「当初からフェイクドキュメンタリー/モキュメンタリーと説明されていた」といったご指摘もあるようですが、「わかってる人はわかっていた」といったことは一先ず置いておいて、これはどうしても印象論になってしまいますが、あれは当時ぼくが舞台挨拶の場でツッコんでいたからで、松江さんの方から積極的に喧伝していたということではないと記憶しています。それは言わば松江さんなりの小さな免責表示のようなもので、それも舞台挨拶という限定的な場で、一部の松江さんによるヤラセ要素を認めることがたまにあったということです。つまり商品パッケージにそういった記載は一切なく、販売者が購入者を選び、口頭で説明することが時々あったということで、それをもって「説明があった」とするのは少々弱い気がします。それと都合の悪いツッコミに対して松江さんは、その場でぼくを嘘つき呼ばわりすることでスルーしていました)
観客の目に晒されることで、観客のリテラシーに委ねることで、ぼくの主張も一定の理解はされるものと信じていました。なにより作品自体が証拠なのだから、それこそ「わかる人にはわかるのだろう」と考えていたのです。
しかしそれは甘い考えでした。ぼくがなにを言っても、概ねそれはただの「笑い」として消費されていったのです。
そうしておよそ10年前、周りの人たちだけにでも、ぼくのその主張が本当に真剣であるということを理解してもらうために、ぼくは『世界で一番やさしいゲロ』と題したブログ記事に、例の「告発」と言われている文章を書いたのです。もちろんそれまでにも関係者とは幾度となく話し合いを重ねてきました。
しかし状況はなにも変わりませんでした。
観客の方から個人的にいくつかの同情や応援の声は頂けたものの、ぼくの中の「真実」やぼくが考える「道理」も、松江さんたちが主張する「おもしろければいい」という論理の前に黙殺されたのです。関係者は誰もぼくの言い分を受け入れてはくれませんでしたし、多少の同情を寄せてくれたとしても、結局は「気持ちはよくわかるけど、もう少し大人になろうよ」といった結論に終始していました。
その後も色々あったのですがキリがないのでここでは一旦省略するとして、その後は松江さんから「もうお前とは話したくない」と言われて連絡が取れなくなり、宣伝配給の直井さんとのやり取りも途中で返信が来なくなって途切れてしまいました。そうして関係者からぼくは完全に無視されるという形で、これまでの10年間以上、『童貞。をプロデュース』の上映は続けられてきたのです。
これまでになぜ法的措置をとってこなかったのかといったご指摘もあるかとは思います。
実際には、当時からぼくは弁護士さんへの相談を度々していました。証拠を提示してお話を伺った結果、ぼくの主張には法的な正当性があるという、要するに裁判を起こせば勝てるというのが弁護士さんたちの一様の見解でした。
ではなぜ訴えを起こさなかったのかといえば、様々な理由がありますが、ひとつは周りを巻き込んだ本当の泥試合になってしまうことも予想されたからです。これ以上のことは相手の人間性にまで踏み込んだ話になってしまいそうなので省略しますが、場合によっては(※あくまで、ごく稀な「場合によっては」ですが)裁かれないことの方が社会的な意義をもつこともあるのではないかという個人的な考えもあります。もしかしたら、お金で解決しても残るのはお金だけなのかもしれません。
それからおよそ10年の時が経ち、どういう経緯があったのか詳しくは存じ上げませんが、再びぼくに舞台挨拶の機会が巡ってきたのが先週(2017年8月25日)のことです。
全然関係のないことなのかもしれませんが、その日の昼下がりの時分でしたでしょうか、NHK教育では『いじめノックアウト』という番組が放送されていました。夏休みが終わりを迎えようとしている頃、学校へ行きたくなくてしょうがない人たちは今どんな気持ちでいるんだろう、死刑への秒読みを待っているような心持ちなんじゃないだろうか、とぼんやり考えていました。
その日は亡くなった親友が生前にくれた『バーバレラ』のTシャツを着て劇場へ向かいました。
少し触れておくと、その親友はAVの仕事をしていて、仕事を楽しんでいるようだったし職場の先輩たちに対する尊敬の言葉も度々口にしていましたが、それと同時に彼は仕事のことで心を痛めているようでもありました。高円寺の居酒屋で「もう誰にも傷ついてほしくない。もう誰にも死んでほしくない」と泣いていた本当に心のやさしい友人は、ある日突然ぼくたちの前からいなくなってしまいました。そういえば彼は生前、何度も「松江さんと仲直りするんだ」とぼくに言っていました。
先週、劇場の控え室でスタッフの方から『童貞。のプロデュース』のTシャツを渡されましたが、ぼくは着替えることができませんでした。なので、Tシャツの丈云々といったご指摘はあまり関係がありません。
ぼくは自分のやったことが正しいとは思っていません。松江さんたちと同じ土俵に上がった以上、松江さんたちと同じ責任を負わなければならないと思っています。
ただ、ブルース・スターリングの『スキズマトリックス』のセリフにもあるように、「俺たちは正しいことと可能なことのあいだで生きている」わけで、少なくともあの時に結局なにもしないで終わるなんていうことは、ぼくには不可能でした。「本当か、嘘か」ではどうせ水掛け論で終わるだけですし、「正しいか、正しくないか」といった倫理性を巡る議論も当事者間ではいつまでも平行線のままで、松江さんたちの言う「おもしろいか、おもしろくないか」の土俵で勝負することしか、その時のぼくには残されていなかったのです。
そこで観客を巻き込む以上、いかにして野坂昭如vs大島渚戦といいますか、『ゼイリブ』のロディ・パイパーvsキース・デヴィッド戦、もしくは『青春の殺人者』の水谷豊vs市原悦子戦のようなベストバウトを、泥試合を見せられるかが問題なのだと思いました。ズボンを履いたまま一方的に正論を並べ立てたとしてもお客さんは退屈するだけだろうと予想し、あそこではフルチンになって語るのがお客さんへの最低限のマナーなのだろうと考えた次第で、もしそれを不愉快に感じる人がいるのだとしたら、それは単純に観る映画を間違えたということなのだろうと解釈したわけです(※皮肉を説明するというのは非常に野暮なことかもしれませんが、ここでいう「不愉快に感じる人」というのは、つまりぼくと同じ感覚の持ち主ということです)。
映画をつくる人間であれば「作品」で勝負をするべきだというご指摘はあるかと思います。それは当然の意見だと思いますし、それこそ正当なやり方なのでしょう。しかし「伝える」という観点から、最も実効性の高い方法としてぼくは「事件」を選んでしまったのです。あるいは客席からカメラが向けられている以上、松江さんの文法でいうところの「映画」にさえなりうると思ってしまいました。
しかし、それをして状況がどう変わったのかはわかりません。
ただ、ぼくが松江さんの髪の毛を掴むあの瞬間まで、ほとんどのお客さんが、自分がどんな映画を観にきたのかにさえ気づいていなかったということもひとつの事実だと思います。
あの一件の後、『童貞。をプロデュース』に関して笑ったことを後悔しているとか罪悪感を感じているといった声を耳にしました。ぼくは笑ってしまうこと自体は別に悪い事ではなくて(「笑い」というものが根源的な暴力性を備えたものなのだと思います)、むしろその笑いを通してなんらかのリテラシーが得られれば、それこそもっとおもしろいことなんじゃないかと思うのです。そもそもリテラシーというのは高いとか低いとかではなくて、それぞれ違うリテラシーが存在するということなのではないでしょうか。
「笑えないでいる人間」を、一方的に「空気が読めない」とか「リテラシーが低い」とかいった同調圧力で否定してしまうことこそが問題なのであって、「自分はこんなにおもしろいと思っているのに、どうしてこの人は笑えないでいるんだろう?」もしくは「この人は本当に笑っているんだろうか?」といった想像を巡らせて考え始めた時に、人間はもっとやさしくなれるのだろうと思います。
補足として、今回の件に関して梅澤くんは関与していませんし当然責任もございません。舞台挨拶の一部始終をご覧になられた方はご存知のように、むしろ梅澤くんという人はああいう空気を読まない、何を考えているのかよくわからないトリックスター的な存在でして、友人のぼくが言っても信用されないことかもしれませんが、彼の言葉というのはぼくにとっても自らを省みる判断材料として、客観的な証言として信用できたといいますか、「梅澤くんはこんな風に思っていたんだ」というぼくなりの発見と理解がありました。
客席から声を上げてくださっていた話題の動画撮影者の方についても、決して一部で指摘されているような「仕込み」などではございません。あの時まで直接お会いしたこともなかったのですが、この件とは全く関係のない別の機会にこの方が監督されたセルフドキュメンタリーを拝見させていただくことがあった関係で、顔と声とお名前だけは存じ上げておりまして、それで壇上から「誰かわかった」と発言した次第です。なので、この方についても舞台挨拶上の件に関しては直接的な関与も一切の責任もございません。
長々と書き連ねてしまいましたが細かいことを並べていくと本当にキリがないので、今はこれくらいに留めておきます。
以上のことは誤解や錯綜している情報を整理する目的で、ぼくからの事実を書いたもので、松江さんや関係者を誹謗中傷するために書いたものではありません。ましてや松江さんの出自を理由として無分別な批判をしたり揶揄したりだとか、そういった対立軸に与する気は一切ございませんし、むしろそういった不合理な言説を強く否定するためにも書いたものであるとご理解ください。
もちろん事実に基づいた正当な批判であれば、ぼくも松江さんも関係者もそれを受けて然るべきだと思います。ぼく自身も恨んでいないと言ったら嘘になるでしょうし、お酒を飲んでいたりして話の折に触れれば松江さんや関係者の悪口のひとつやふたつくらいは口にするのだろうと思います。しかし、どうでもいい単なる愚痴なんかは飲み屋での酒の肴くらいに留めておきたいですし、インターネット上で個人攻撃や人格攻撃をすることも本意ではありません。
皆様のご理解を賜れれば幸いです。
以上の文章は、誰になにを言われたわけでもなくぼくが一人で勝手に書いたものです。専門家に相談したわけでもないし、事前に誰かに読んでもらったわけでもありません。なので、もしかしたら自分で書いたこの文章が自分にとって不利に働くこともあるかもしれません。
正直、松江さんと直井さんが連名で出した文章に失望してしまったというのもあります。大人だから保身の意味もわかってはいるつもりですが、ぼくが裸になったのは下半身だけじゃなかったはずで。
だからこそ、ぼくは自分の言葉で書きたかったし伝えたかったのです。
一番伝えたい人たちに伝わらないのが本当に悲しいけれど。
加賀賢三
onosendai at 22:11│Comments(10)│clip!
この記事へのコメント
1. Posted by yo 2017年09月01日 22:40
10年間お疲れ様でした。どうか、すっきりとしてこれから貴方が幸せな人生を送れることを祈ります。
2. Posted by kaze 2017年09月01日 23:04
加賀賢三さんへ
映画上映での、どなたかのことの顛末についての動画を拝見しました。
正直、私は現場で声をあげておられた男性のようにあなたが1人で戦うことに尊敬の念を抱きました。同時にもう傷ついて欲しくないとも思いましたし、あなたの水掛け論になること、何が誰にとっての正義か、また、それを実証することの難しさもわかりながらの発言にこの動画を見てよかったという、もしかしたら見当違いの感動や安堵感を覚えました。(すみません。もしかしたらとても不謹慎かもしれません)
とにかく、加賀さんが今後少しでも不快な思いをすることがないことを祈っております。
映画上映での、どなたかのことの顛末についての動画を拝見しました。
正直、私は現場で声をあげておられた男性のようにあなたが1人で戦うことに尊敬の念を抱きました。同時にもう傷ついて欲しくないとも思いましたし、あなたの水掛け論になること、何が誰にとっての正義か、また、それを実証することの難しさもわかりながらの発言にこの動画を見てよかったという、もしかしたら見当違いの感動や安堵感を覚えました。(すみません。もしかしたらとても不謹慎かもしれません)
とにかく、加賀さんが今後少しでも不快な思いをすることがないことを祈っております。
3. Posted by りょうちん 2017年09月01日 23:20
映画は見ていませんが、
10年間本当によく頑張ったと思います。
涙が出てきました。
あの行動にはそれなりの理由があると思い、気になってネットサーフィンしていたところ、このブログにたどり着けました。
うまく言えないですが、僕はあなたを全力で支持します。
10年間本当によく頑張ったと思います。
涙が出てきました。
あの行動にはそれなりの理由があると思い、気になってネットサーフィンしていたところ、このブログにたどり着けました。
うまく言えないですが、僕はあなたを全力で支持します。
4. Posted by 14番 2017年09月01日 23:34
映画そのものは見れていません。記事、動画、関係者のSNS、このブログのみでのコメントです。言いたいことはわかります。でも暴力はいけません。髪を掴み、頭を引き寄せ、フェラを強要する。それはあなたが、もっとも嫌がったことじゃないですか?それを笑いに昇華する(面白ければいい)ことで、すべての合理性を担保したかったのかもしれませんが、暴力はいけません。松江さんには気がついてほしいと私も思います。加賀さんは被害者です。でもこの行為であなた自身ももっとも忌み嫌っていた加害者側に立ってしまった。そう思います。
5. Posted by いちか 2017年09月02日 00:13
動画拝見しました。
気持ちを上手く文字にできませんが、とにかく本当にかっこ良かったです。
そしてどうかこの10年間が報われるような、とっても幸せな未来が訪れますように、祈っております(^○^)応援しています!
気持ちを上手く文字にできませんが、とにかく本当にかっこ良かったです。
そしてどうかこの10年間が報われるような、とっても幸せな未来が訪れますように、祈っております(^○^)応援しています!
6. Posted by 賢ミファン 2017年09月02日 00:24
ブログの他の記事、もう見れないのですか?
残念です。
僕は加賀さんのファンです。
奇しくも10年くらい前に鑑賞した「童貞。をプロデュース」がきっかけで。
ブログは、いつか更新されるかな?と少しの期待を持ってのぞいていました。
今回の事件も、加賀さんのファンとして、非常に興味深く面白く記事を見させてもらっています。
何より、数年ぶりにブログに新たな記事が投稿されたのが、大変嬉しいです。
また加賀さんの声を、このブログや映画などを通して聞けること、楽しみにしています。
ともかく、僕は加賀さんを強く支持します。
残念です。
僕は加賀さんのファンです。
奇しくも10年くらい前に鑑賞した「童貞。をプロデュース」がきっかけで。
ブログは、いつか更新されるかな?と少しの期待を持ってのぞいていました。
今回の事件も、加賀さんのファンとして、非常に興味深く面白く記事を見させてもらっています。
何より、数年ぶりにブログに新たな記事が投稿されたのが、大変嬉しいです。
また加賀さんの声を、このブログや映画などを通して聞けること、楽しみにしています。
ともかく、僕は加賀さんを強く支持します。
7. Posted by ken 2017年09月02日 00:30
裁判をしても加賀さんの傷は癒えないでしょうが
裁判を起こすべきです
このままではまた繰り返されます
何かにつけて上映しますよ
応援しております
裁判を起こすべきです
このままではまた繰り返されます
何かにつけて上映しますよ
応援しております
8. Posted by ああああ 2017年09月02日 00:36
つらかったでしょう。
お疲れ様でした。
個人的には、もう松江監督や直江さんとは関わらずに
ご自身の人生を幸せに進んでいってほしいと願います。
見ている人達はわかってます。
お疲れ様でした。
個人的には、もう松江監督や直江さんとは関わらずに
ご自身の人生を幸せに進んでいってほしいと願います。
見ている人達はわかってます。
9. Posted by あか 2017年09月02日 00:39
あなたの裸の言葉、実直であろうとする心のありように心を打たれました。大人じみた空虚な文書よりもずっとずっと。
10. Posted by tk 2017年09月02日 00:57
ネットニュースの十数文字のタイトルだけで善悪が判断されてしまうことの怖さを感じました。
これだけ物事を詳細に伝えることが出来る人だから、きっとこれから素敵な仕事をなさるんだろうと思いました。自分の信じるところを大切にして、細かいことは気にせずに歩んで欲しいです。
これだけ物事を詳細に伝えることが出来る人だから、きっとこれから素敵な仕事をなさるんだろうと思いました。自分の信じるところを大切にして、細かいことは気にせずに歩んで欲しいです。