三浦義村

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三浦義村
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代前期
生誕 不詳
死没 延応元年12月5日1239年12月31日
別名 平六
墓所 神奈川県三浦市南下浦町金田
官位 右兵衛尉駿河 三浦介
幕府 鎌倉幕府 侍所所司、評定衆
主君 源頼朝頼家実朝藤原頼経
氏族 桓武平氏良文流三浦氏
父母 父:三浦義澄、母:伊東祐親の娘
兄弟 友澄、義村、重澄、胤義、他
一条忠頼の娘(要一次史料出典?)、土肥遠平の娘
朝村、泰村、長村、光村、重村、家村、
資村、胤村、重時、良賢(僧侶)、
矢部禅尼土岐光定室、毛利季光室、
千葉秀胤

三浦 義村(みうら よしむら)は、鎌倉時代初期の相模国武将鎌倉幕府の有力御家人桓武平氏良文三浦氏の当主・三浦義澄の次男(嫡男)。

生涯[編集]

幕府創設期[編集]

治承4年(1180年)、源頼朝の挙兵に当たり、父・義澄は東胤頼とともに決断を促したともされ[1]史料にはみえないものの義村も当然参加していたものとされている。

寿永元年(1182年)には、頼朝の妻政子の安産祈願の祈祷のため、安房『東條庤明神』へ奉幣使として遣わされた[2]建久元年(1190年)に右兵衛尉に任官される。正治元年(1199年)の梶原景時の変では中心的役割を果たし、元久2年 (1205年)の畠山重忠の乱でも討伐に参加。その後、無実の重忠を陥れたとして、稲毛重成榛谷重朝を殺害した。

和田合戦・実朝暗殺[編集]

建暦3年(1213年)には従兄弟で侍所所司であった和田義盛北条氏打倒で結ぶが、これを直前で裏切って北条義時に義盛の挙兵を告げ、義盛は敗れて和田氏は滅ぶ(和田合戦)。大きな策謀には関わっており、幕政での地位を向上させることに腐心している。建保6年(1218年)、侍所所司に就任した。

建保7年(1219年1月27日、3代将軍・源実朝公暁源頼家の子)に暗殺される。公暁は義村に対し「我こそは東国の大将軍である。その準備をせよ」という書状を持った使いを出し、義村は「お迎えの使者を差し上げます」と偽って討手を差し向けた。待ちきれなくなった公暁が義村宅に行こうと裏山に登ったところで討手に遭遇し、激しく戦って振り払い、義村宅の塀を乗り越えようとした所を殺害された。この事件の真相は明らかではないが、公暁の乳母は義村の妻であり、子の駒若丸は公暁の門弟であるなど、義村との縁が深い事から、事件は公暁をそそのかして実朝と義時を同時に葬ろうとした義村が黒幕であるとする見方もある[注釈 2]。公暁討伐の功により、同年駿河守任官した。

承久の乱・伊賀氏の変[編集]

承久3年(1221年)の承久の乱では、後鳥羽上皇の近臣だった弟の三浦胤義から決起をうながす使者を送られるが、義村は直ちにこれを義時に知らせた。義村は幕府軍の大将の一人として東海道をのぼり、京方を破って上洛。胤義は敗死した。

元仁元年(1224年)、北条義時が病死すると、後家の伊賀の方が自分の実子である北条政村執権に、娘婿の一条実雅を将軍に立てようとした伊賀氏の変が起こる。政村の烏帽子親であった義村はこの陰謀に関わるが、尼将軍・北条政子が単身で義村宅に説得に赴いた事により翻意し、事件は伊賀の方一族の追放のみで収拾した。だが伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しており、『吾妻鏡』でも伊賀氏が謀反を企てたとは一度も明言しておらず、政子に伊賀氏が処分された事のみが記されている。そのため伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻の実家である伊賀氏を強引に潰すために創り上げた事件とする説もある[3]

幕府宿老[編集]

嘉禄元年(1225年)夏には大江広元・北条政子が相次いで死去する。同年12月に執権・北条泰時の元、合議制の政治を行うための評定衆が設置され、義村は宿老としてこれに就任した。幕府内の地位を示す椀飯の沙汰では北条氏に次ぐ地位となっている。貞永元年(1232年)の御成敗式目の制定にも署名した。4代将軍・藤原頼経は、将軍宣下ののち、三浦一族と接近するようになり、義村は子三浦泰村と共に頼経に近しく仕えた。

延応元年12月5日(1239年12月31日)、死去。

人物[編集]

  • 義村は京都の貴族の間にさえ「六権八略」の権謀家として知られていた。『古今著聞集』には、将軍御所の侍の間の上座を占めていた義村のさらに上座に、若い下総国の豪族・千葉胤綱が着座し、不快に思った義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬな」とつぶやくと、胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」と切り返し、和田合戦での義村の裏切りを批判した逸話が記されている。
  • 三浦介として鎌倉のある相模国を実効支配している三浦一族の威勢は次代・泰村の代になり、宝治合戦北条氏との武力衝突にいたる事になる。

脚注[編集]

注釈[編集]

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  1. ^ これが義村の史料における初見である。
  2. ^ 三浦義村(三浦氏)黒幕説は、永井路子が小説『炎環』(光風社、1964年)で義村黒幕説を描いて以来注目され、石井進がその可能性を認めた(『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社、1965年)ことで急浮上した。他に同説を支持する研究者には、大山喬平(『日本の歴史9 鎌倉幕府』小学館、1974年)、上横手雅敬(「承久の乱」安田元久 編『古文書の語る日本史3 鎌倉』筑摩書房、1990年)などがいる。

出典[編集]

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  1. ^ 吾妻鏡』治承4年6月27日条
  2. ^ 『吾妻鏡』寿永元年8月11日条[注釈 1]
  3. ^ 永井晋『鎌倉幕府の転換点 「吾妻鏡」を読みなおす日本放送出版協会、2000年

参考文献[編集]

  • 石丸煕『海のもののふ三浦一族』新人物往来社、1999年。
  • 鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史―その発祥から江戸期まで―』新人物往来社 2007年。
先代:
三浦義澄
三浦氏歴代当主
次代:
三浦泰村