【1】作成時期から公開までの時間が短すぎるうえ、中国語原文が存在しない

 まずは文書中にある以下の記述をご覧いただきたい。特に注目してほしい部分を太字にした。

田中内閣成立以降の日本解放(第二期)工作組の任務は、右の第二項、すなわち『民主連合政府の形勢』の準備工作を完成することにある”(A基本戦略・任務・手段、(2)解放工作組の任務)

一九七二年七月の現況でいえば自民党の両院議員中、衆院では約六十名、参院では十余名を獲得して、在野党と同一行動を取らせるならば、野党連合政府は容易に実現する”(B工作主点の行動要領、(第三 政党工作)(一)連合政府は手段)

 田中角栄が自民党総裁に当選したのは1972年7月6日(内閣成立は翌日)なので、文中で「田中内閣」という言葉を用いた『要綱』の執筆時期が同月6日以降なのは間違いない。いっぽう、文書を入手した西内雅が『國民新聞』紙上で述べるには、彼の北東アジア旅行は「七月四日の南北朝鮮の統一に関する声明」が出る直前に出発し、海外滞在期間は「三週間ほど」、行き先は沖縄・香港・台湾・韓国だったされる。文書の入手元は「毛沢東の指令なり発想なり」を「専門的に分析している組織」だそうである。

 上記から判断すれば、西内が文書を入手した時期は同年7月7日~25日ごろだ。ちなみに西内が『國民新聞』紙上に寄せた談話は同年7月30日付けなので、この日までに文書は中国語から日本語に翻訳され、同紙での掲載が決定したことになる。

 すなわち、当時の中国共産党は田中内閣の成立が確定した1972年7月6日以降に大急ぎで「日本解放」の具体的な作戦方針を決定して、最重要クラスの極秘文書を書き上げたところ、瞬く間に文書が流出して日本の民間人の手に渡る大失態を犯したことになる。そんなグダグダな体たらくで「日本解放」ができるのか、思わず心配になってしまうところだ。

 また、西内は他の著作などを確認する限り、あまり中国語ができないと見られる。ゆえに『要綱』の入手から翻訳・掲載にいたるスケジュールも、客観的に見て相当慌ただしい。文書提供者があらかじめ日本語に翻訳してくれていたのでなければ、西内は帰国から5日以内のうちに文書を1万字以上の日本語に翻訳させ、それを『國民新聞』に売り込んで見開き2ページ以上の特集を組ませたことになる。

 なお、『國民新聞』の特集では西内のほかに2人の識者が長文の感想コメントを寄せているので、彼らの下読みの時間も考慮すれば、文書の翻訳から掲載決定にいたる所要時間は実質的に3日もあればよいほうだろう。現在と違って中国語(しかも中国本土の簡体字)が理解できる人が少なく、またメールやFAXでの納稿もできなかった当時としては驚異的なスピードだ。

 さらに言えば、執筆からたった3週間足らずで海外に流出するほどガバガバな管理下にあった文書の原文が、45年後の現在まで発見・公開されていないことも不思議である。中国政府の言論統制が及ばない台湾や香港ですら、ネット検索しても『要綱』の原文どころか話題それ自体が(日本語サイト以外は)ほとんどヒットしないのもヘンだ。

1971年3月、林彪らが毛沢東の暗殺計画を練った地下室。40年以上も昔の「陰謀」は、たとえ国家の最高機密であっても大っぴらになっている例が少なくない(江蘇省蘇州市内で筆者撮影)