中世の賎民
中世では、非人、河原者、穢多などのそれぞれの定義はあいまいです。散所非人が皮製馬具や裏無し草履を上納するという穢多のような事も行っていました。河原者には禁裏や公方の庭師もいる一方で、芸能者や細工者とも呼ばれた穢多もいました。著名な庭師も穢多と呼ばれることもあったようです。また、散所や宿に所属する非人の芸能者や乞食僧なども多くいました。
こうした多様な中世の賎民について、ここでは、おもに京都や奈良の賎民について説明します。
中世の穢れ
中世では現代と違い「穢れ」をかなり気にしたようです。葬送、お産、月経、動物の死骸などは穢れの対象でした。
たとえば、葬式に参加した者は30日、お産に関与した者は7日の間、謹慎する必要があり、神社や禁中(宮中)に立ち入り禁止でした。また、天台宗の本山のある比叡山では「汚穢不浄の輩入るべからず」と決められており、昔は、女人禁制、三病者禁制、細工の者禁制とあったそうです。ここでの細工の者とは穢多のことです。
この時代に死穢を処理したのは、河原法師、清目、非人、カタイ(乞食)、犬神人、散所といった賎民でした。こうした人たちは清めの専門家として畏怖される存在だったようです。なお、清目というのは掃除を行う非人、河原者、穢多のことです。特に死体や屍骸などの汚穢物、不浄物の片付けを行う人たちのことです。
放免(ほうめん)
放免は京都の治安維持を担当した検非違使(けびいし)の下級役人です。釈放された囚人を使ったことから放免と呼ばれたようです。
放免は、大げさな髭を生やし、奇妙な形の棒を持ち、「藍摺文の衣袴、綾羅錦繍服」という派手な服装をしていました。彼らは「非人なるがゆえに禁忌を憚らず派手な服を着る」と言われていました。
放免は非人とは言え堂々としています。清め役として賀茂祭(葵祭)に参加していました。派手な格好の上に、更に牡丹や杜若の造花を付けて飾りたてていたようです。
放免は下級役人として河原での処刑の実行役も行っていました。ここでも非人としての清め役を期待されていました。一般の役人が処刑という穢れ仕事を嫌ったので、雇われていたのかもしれません。

後方の二人が放免「法然上人絵伝」
犬神人(いぬじにん)
犬神人は京都の清水坂に住む非人です。白頭巾に赤衣という独特の格好していました。
犬神人は祇園社に所属し祇園四至内の汚穢物除棄などを役目としていました。中世においては、寺社は自治的な権力を保持していましたが、その手下として住宅破却などの実力行使にも携わっていました。
犬神人は、祇園社(八坂神社)の祭礼でも、清め役として堂々と行列に加わっていたようです。

覆面姿の犬神人「一遍聖絵」

犬神人と乞食「融通念仏縁起絵巻」
つるめそ(弦召、弦差)
犬神人は、弓の弦を売っていたようです。「弦召し候らへ」と言ったのが「つるめそ」と聞こえたので、「つるめそ」と呼ばれたようです。
弓の弦は武士ばかりでなく、普通の民家で綿を打ち和らげるために使用したので市中で売り歩いても需要があったそうです。

つるめそ(弦売)「七十一番職人歌合」
乞丐(こつがい)
乞食のことです。読み方は「こつがい」、「きっかい」、「かったい」、「かたい」など各種あります。寺社の近辺などに集まり、小屋掛けして生活していたようです。

乞丐「一遍聖絵」
坂の者(さかのもの)
京都の清水坂と奈良の奈良坂には多くの非人(乞食や浮浪者など)が住んでおり、彼らは「坂の者」と呼ばれておりました。清水坂は清水寺、奈良坂は興福寺が支配しており非人の中心地でした。犬神人(つるめそ)は清水坂の非人の一部です。
なお、京都の清水坂に居た「坂の者」が、京都の葬送の独占権を持っていたと言われています。
散所(さんじょ)
京都では清水坂以外の寺院周辺にも非人が住んでいましたが、これらの場所は散所と呼ばれました。東寺(真言宗総本山)の散所、醍醐寺の山階(山科)散所、近江坂本の穴太(あのう)散所などが有名です。
これらの非人たちは散所非人、散所法師あるいは単に散所と呼ばれました。散所の非人たちは、おもに清目として掃除などを行っていました。
その他に、醍醐寺の山階散所では皮製の馬具や裏無し草履の上納など穢多のような仕事もしていました。なお、京都の散所は清水坂の支配を受けていたようです。
蓮台野(れんだいの)
京都の船岡山から紙屋川に至る地域に蓮台野と呼ばれる場所がありました。葬送の場所で墓地もありました。後冷泉天皇、近衛天皇の火葬塚がある場所です。
ここにも多くの非人がおり、嘉元二年(1304)の後深草上皇五七法事で170人分の非人施行が行われています。
宿(しゅく)
京都では非人が住んでいる寺院などの場所を散所と呼んでいましたが、奈良では宿と呼んでいたようです。奈良坂にあった北山宿が中心です。
北山宿には国指定史跡の北山十八間戸があります。救癩施設であったようです。
また、北山宿(奈良坂)には五ヶ所十座と呼ばれた声聞師の座(組合)があり、声聞師や陰陽師が多く住んでいたようです。五ヶ所、十座と言うのですから周辺の各地に声聞師や陰陽師が多く住む場所があったものと思われます。
また、北山宿の声聞師は七道者と呼ばれる漂泊の芸能者などを支配していたと言われています。七道者とは、大乗院寺社雑事記(15世紀)によれば、猿楽、アルキ白拍子、アルキ御子(巫女)、金タタキ、鉢タタキ、アルキ横行(声聞師)、猿飼のことです。
声聞師(しょうもんじ)
唱門師と書くこともあります。下級の俗法師で門付けを行い、祈祷、経を唱えて米銭を乞うていました。声聞師は陰陽師と同一視されていたようです。同じような呪術的な行為を行うためだと思われます。現代で言えば悪霊の除去などを行う霊能者のような存在でしょうか。
声聞師は横行とも呼ばれ、奈良県川上村の河上横行が有名でした。なお、奈良の横行は非人と同様に扱われており、掃除などを命じられることもあったようです。
京都では五条橋東方に声聞師・陰陽師が住んでいたようです。
陰陽師(おんみょうじ)
民間の陰陽師です。吉凶占い、祈祷、簡便な暦の発行を行っていました。声聞師と同じようなことするので同一視されていたようです。

陰陽師「七十一番職人歌合」
河原者(かわらもの)
河原は一種の公共の場所で貧しい人が多く集まり住んでいたようです。河原法師、穢多、非人などと呼ばれる人たちが居たようです。
河原では公開の処刑なども行われましたが、多くの人が集まることから見世物や芸能の興行の行われた場所でもあります。千秋万歳、田楽、猿楽などが演じられたようです。
また、庭師も河原者だったようです。天下一の庭師と呼ばれた善阿弥は山水河原者とも呼ばれたようです。善阿弥は有名寺院の庭のほか将軍家の庭も手がけたことから公方御庭者と呼ばれたそうです。禁裏御庭者と呼ばれた小法師小五郎の他に二条殿河原者、山名殿河原者などと呼ばれた有名な庭師が多くいたようです。なお、善阿弥は穢多と呼ばれることもあったようです。
穢多(えた)
穢多は餌取(えとり)と呼ばれることもあったようです。皮のなめしを行い、革製品を作るほかに箒や草履などの履物を作っていました。そのためか、細工、細工者、河原細工丸と呼ばれることもあったそうです。
奈良では北山宿などにも穢多が居たようです。天正十四年に般若寺坂(奈良坂)で処刑が行われた際に、細工(細工者)が刑の執行を行っています。
春日若宮の記録「応永二十四年記」によると、奈良で野犬が鹿を襲って殺すのでエムタ(穢多)に捕獲を命じたそうです。ただし、殺された鹿の処置は北山宿(北山宿非人)に命じたとあります。

穢多「七十一番職人歌合」

草履作り「七十一番職人歌合」

硫黄箒売り「七十一番職人歌合」
青屋(あおや)
青屋は藍染屋のことです。河原者であり穢多と同一視されていたようです。汚れ仕事なので賎民視されていたのでしょうか。
近世になってからだと思いますが、二条城の掃除、牢番、首斬り、磔などをやらされていたようです。
猿楽(さるがく)
猿楽は格式ある寺院の国家的行事である修正会でも演じられることもありますが、河原などでも興行された芸能です。能や狂言の元となった芸能だと言われています。

猿楽「七十一番職人歌合」
田楽(でんがく)
猿楽とともに中世に人気のあった芸能です。猿楽が興隆するにつれ廃れていったようです。

田楽「七十一番職人歌合」
白拍子(しらびょうし)
今様などを謡いながら踊る舞のこと、または白拍子を舞う芸能者のことです。遊女でもあったと言われています。

白拍子「七十一番職人歌合」
曲舞々(くせまいまい)
曲舞(久世舞)を踊る芸能者。曲舞は後の幸若舞の元となったと言われています。なお、曲舞は声聞師も舞ったようです。

曲舞々「七十一番職人歌合」
いたか
供養のために経文を読んで銭を乞い、流れ灌頂を勧めた乞食僧です。なお、流れ灌頂とは幡や塔婆を川に流して亡者に功徳を回向する行事です。

いたか「七十一番職人歌合」
放下(ほうか)
放下師、放下僧とも呼ばれます。小切子(こきりこ)などを打ち鳴らしながら歌舞、手品、曲芸などを行う芸人です。多くは僧形で報謝用の柄杓(ひしゃく)を持ち放下僧と呼ばれることが多かったようです。

放下「七十一番職人歌合」
勧進聖(かんじんひじり)
寺社の堂塔や仏像の造立・修理のために人々に米・銭の寄付を募る僧侶です。報謝用の柄杓(ひしゃく)を持っています。後には勧進は乞食を意味するようになりました。

勧進聖「三十二番職人歌合」
暮露(ぼろ)
梵論と書くこともあります。各地を巡り歩き処々の宿河原に集まって九品念仏を唱える遁世者です。大きな傘を持っているのが特徴です。「ぼろぼろ」、「ぼろんじ」などとも呼んだそうです。京都では四条橋東方にも住んでいたようです。

暮露「七十一番職人歌合」
鉢叩(はちたたき)
鉢や瓢箪を叩きながら、念仏などを唱え、あるいは歌いながら念仏踊を行って金銭を乞うて歩いた乞食僧です。
鹿杖(かせづえ)あるいは鹿角(わきづの)と呼ばれる変わった杖を持っていますが、これは空也上人をまねたもののようです。

鉢叩「七十一番職人歌合」
鉦叩(かねたたき)
鐘打ち、金叩きとも言います。鉢叩と同じような乞食僧です。

鉦叩「融通念仏縁起絵巻」
古来の仏教では、死後に極楽に行けることを願って熱心に信仰していましたが、中世の新興仏教(鎌倉仏教)では現世での報いも説くようになりました。現世での行いが現世においても報いが来る。そして、前世での報いが現世で現れているという考えです。
現世での病気や不幸は、前世の宿業であるという考え方は、出自や生まれを問題にすることにもなります。ここから差別の問題が発生します。現世で不幸な特殊な存在である人たちは、前世の宿業で穢れた存在であるとして忌避されることにもなります。
一方で、新興仏教の教祖たちは全国を巡り歩き、貧しい人たち、不幸な人たちの救済のために、熱心に布教活動を行い、一生を捧げました。差別された不幸な人たちは、こうした新興仏教の熱心な信者となり、平等な浄土の世界に生まれ変わることを願うようになっていったようです。中世の一向一揆の大きな勢力は、こうした賎民を含む貧しい人たちの力によって支えられていたのだと思います。
また、中世には遊行する僧侶のまねをした乞食僧が多く出現しました。乞食たちの職業の幅が広がったともいえます。これは新興の鎌倉仏教のおかげかもしれません。