近世の賎民
戦国大名にとって鎧などの武具に使用する革は必需品でした。そのために皮を集め加工する穢多の確保は重要だったようです。江戸時代においても幕府や各藩は穢多や非人などの賎民を身分制度の中に位置づけ固定化していきました。ここでは、そうした近世の賎民の実態について整理してみたいと思います。
なお、本稿では江戸以外、おもに西日本の賎民の状態について書いてあります。江戸の賎民、戦国時代以前の中世の賎民については下記を参照してください。
「江戸の賎民」
「中世の賎民」
皮田(かわた)
皮田は江戸で言う穢多のことです。皮多、革田、革多などとも書きます。西日本で多い呼び方です。
皮田のおもな役目は斃牛馬の処理や革製品の製作ですが、その他に下級警吏などの仕事も行わされていました。また、地域によって違うかも知れませんが、雪駄の修繕、販売などを独占的に行うこともあったようです。
広島藩では街道筋に点々と被差別部落を配置しており、下級警吏、行刑使役、斃牛馬の処理を含む清掃など業務に当たらせました。また、警吏役の皮田には捕手術の訓練も行ったそうです。岡山藩でも皮田が目明しの業務に従事していました。庄内藩、高田藩、広島藩、徳島藩、小松藩、紀州藩などでは穢多身分の者に牢番役させていたようです。
皮田は草履など履物の修繕、販売なども行っていましたが、雪駄の生産・販売で河内国更池村の河内屋藤兵衛や和泉国南王子村の小間物屋五兵衛のような大きな経済力を持つ商人も現れました。
渡辺村(役人村)
大坂の渡辺村は、皮田(穢多)の村で、皮の集散地として栄えたようです。そのため、渡辺村には太鼓屋又兵衛という分限者(金持ち)もいたようです。
大坂では、生皮を韋皮(なめしがわ)に加工する白皮屋という商売が安土町、塩町にあったそうですが、姫路藩の高木村でも、渡辺村で集められた原皮を受け入れて、その皮をなめす産業で栄えていたそうです。
皮田は、雪駄作りも生業としていましたが、渡辺村では雪駄の原料となる竹皮も大量に仕入れていたようです。なお、雪駄直しという履物の修理を行う商売は、京坂とも皮田が独占的に行なっていたそうです。
また、皮田は捕吏や牢屋での雑務にも当たっていたので、渡辺村は役人村とも呼ばれていました。
穢多の製薬業
牛の内臓からは牛黄(ごおう)のような薬が取れますが、そのせいか穢多(皮田)が製薬業で成功することもあったようです。
武蔵国和名村の穢多小頭の甚右衛門
相模国大磯宿の八郎右衛門(截雲丹、通閉散)
武蔵国女影村の六右衛門(妙法散)
奈良東之坂町の甚右衛門
長吏(ちょうり)
関東では穢多のこと長吏と呼ぶことがあります。一方、関西では非人の頭のことを長吏と呼びます。また、地方によっては馬鹿にして長吏のことを「ちょうりんぼう」と呼ぶこともあるようです。
長吏とは、本来は末端の役人のことですが、穢多や非人が牢番や処刑の手伝い、あるいは捕物などを行ったことから、こう呼ばれるようになったようです。
四ヶ所長吏と垣外番(かいとばん)
大坂の天王寺・鳶田・道頓堀・天満の四ヶ所に非人が集まって住んでいました。これを垣外(かいと)と呼びますが、この四ヶ所の非人の頭が四ヶ所長吏です。
この四ヶ所長吏の部下が町の木戸番や夜番を勤めましたので、これを垣外番(かいとばん)と呼びました。毎時半に割竹あるいは鉄棒を曳いて町を巡回したようです。
また、また非人たちは十手を持ち奉行所の市中巡回にも付き添っていたそうです。
なお、大坂では四ヶ所の垣外(かいと)の他に、川岸の土蔵の床下に住む非人も多くいたようです。
非人の芸能
非人は門付けをして銭を得て生活している者も大勢いました。特に正月には大黒舞や万歳の商売を行っていました。
大黒舞
大坂の四ヶ所の垣外(かいと)から、元日には大黒舞に出ていたようです。
千秋万歳
正月に大和の窪田村、箸尾村から京坂に出かけて行ったようです。大和万歳とも呼んでいたようです。
三河万歳
江戸には三河から三河万歳が来ていたようです。彼らは院内村(豊川市小坂井町)と呼ばれた村に住んでいたそうです。守貞謾稿によれば「この一村には他村婚を結ばず」とあります。おそらく非人の村だと思います。
その他の芸能
江戸や大坂のような大都市では、非人による芸能活動・門付けが盛んだったようですが、それらについては
「江戸の賎民」
を参照してください。
水戸の非人「ジイ」
山川菊栄の「覚書 幕末の水戸藩」によれば、幕末の水戸にはジイと呼ばれた非人たちがいたそうです。
ジイたちは正月になると群れになって「はっこめ、はっこめ、はっこめなあ」と歌い踊りながら町にやって来たそうです。(「はっこめ」は掃き込めの意味)
日常的には、ジイは決まった日に入れ物を持って「ジイにたんもれ、ジイにたんもれ」と呼ばわりながら家々を回り米を貰っていました。さらに遊芸の方でも稼ぐので生活には困らなかったようです。そのため、麦やヒエを混ぜたカテメシを常食していた農民には羨まれたそうです。
また、男たちは同心の下で十手持ちとなり縄張り内の家々で施しをもらって生活していたようです。
水戸駅近くの常盤神社の崖下の洞穴に畳障子を入れ小綺麗に住んでいるジイたちもいたそうです。なお、この人たちは明治になると姿を消してしまったそうです。
下村庄助
下村庄助は、有名な京都の皮田(穢多)たちの頭です。109石高(あるいは150石高)の侍だったようですが、宝永年間に下村庄助の三代目が亡くなってからは、支配下の役人村(穢多村)は、それぞれの年寄の自治に任されたようです。
青屋(あおや)
藍染の職人のことを青屋と呼びます。青屋は、中世から河原者として賎民視されていたようですが、近世には二条城の掃除や牢屋の番人などの仕事をさせられていました。
宝永五年(1708)に皮田(穢多)や青屋の頭をしていた下村家が断絶すると、青屋は二条城の掃除は免除されましたが、代わりに牢屋の番人や処刑者の監視などの仕事を押し付けられたようです。
宝永七年(1710)に「牢番はやめさせてほしい」と訴え出ましたが、「青屋の商売をやっているなら、青屋の役もしなければならない」と却下されたそうです。
つるめそ(弦召、弦差)
京都祇園社に所属する非人である犬神人(いぬじにん)は、弓の弦(つる)を売ったことから「つるめそ」とも呼ばれていました。近世には、「つるめそ」は弓矢町に住んでいたようです。
犬神人は祇園祭で清目役として行列に参加していましたが、この風習は近代まで続いていたようです。
小法師(こぼし)
京都で禁裏御所の清掃、樹木の植替えや手入れの雑役に従事していたようです。この小法師とは、非人である散所法師のことだと思います。頭である長吏法師の下の平非人を小法師(こぼし)と呼んだようです。
悲田院(ひでんいん)
江戸時代の書物である守貞謾稿(もりさだまんこう)によれば、京都では非人は悲田院に住んでいたそうです。その長は五人あり五人衆と呼ばれていたそうです。そして、この五人は両刀を帯びていたそうです。侍の身分だったようです。
夙(しゅく)
夙あるいは宿と書きます。奈良地方など畿内などにいた非人のことです。中世の宿の非人の末裔で、農業や竹細工あるいは芸能に従事していたようです。
陰陽師(おんみょうじ)
陰陽五行説にもとづいて吉凶を占った呪術師です。占い、祈祷、御祓い(僧侶や神官の代わりもした)を行い、簡便な暦を作って販売していました。近世では土御門家の支配を受けていたようです。宿、散所、算所、院内、寺中などと呼ばれた集落に住んでいました。
土佐には散所太夫(さんしょうたゆう)と呼ばれた芦田主馬太夫がいました。芦田主馬太夫は、土佐一円の陰陽師、声聞師(唱門師)を支配していたようです。
遠江では陰陽師の集団が住む場所を院内と呼び、11ヶ所あったので十一院内と呼んでいたそうです。
鉢屋(はちや)
伯耆国、出雲国、石見国など山陰地方に居た賎民です。京都極楽院空也堂を本山とする空也念仏聖の一派で、鉢を叩きながら念仏を唱えて門付けをして歩く鉢叩(はちたたき)が鉢屋の由来のようです。
鉢屋は下級警吏として番役や処刑に係わる役をやらされていたようです。松江藩では「巡邏・探偵及ビ追捕・押送・牢獄等ノ事」に従事していたと記録されています。
鉢屋の普段の生業は零細な農業のかたわらに竹細工などを行っていたようですが、その他には、地域によって違うかもしれませんが草履作り、川魚漁、石切、渡守なども行っていたようです。
また、遊芸も行われており、操人形の興行(鳥取藩)も行っていたようです。「勧進と称して生活の資を得ること古くより行われたり」と記録されていますので門付けを行うこともあったようです。
その他に、鉢屋は助産の仕事にも従事していたようです。穢れの仕事だったからでしょうか。
茶筅(ちゃせん)
中国地方、おもに山陽地方に居た賎民です。おそらく山陰地方の鉢屋(はちや)と同じ出自のように思われます。空也念仏の鉢叩(はちたたき)は、竹細工で作った茶筅(ちゃせん)を藁(わら)の苟(つと)にさして売り歩くこともしていたので、茶筅と呼ばれるようになったようです。
茶筅たちは、鉢屋と同様に零細な農業のかたわら竹細工など行っていました。また、鉢屋と同じように下級警吏の仕事もやらされていたようです。
藤内(とうない)
加賀藩や富山藩に居た賎民です。灯心や草履を作る他、番役や処刑にたずさわっていました。穢多とは違い皮関係の仕事はしていなかったようです。
加賀藩では、藤内頭が目明しに任じられています。また、その他に助産や売薬も行っていたようです。さらに藤内医者と呼ばれる医者もいたようです。
俗に「藤内はあばら骨が一本足りない」と言われ、差別されていたそうです。
ラク
秋田、山形に居た穢多のことをラクと呼んでいたようです。嘉永三年(1850)に秋田藩に477人いたと記録されています。江戸時代の米沢には柴屋又三郎というラクの頭がいたということです。
革坊(かぼ)
仙台あたりで使われた穢多系の人々に対する蔑称です。「革坊町」、「革坊通り」があったそうです。
ささら(簓)
ささらとは、田楽などにも使われた楽器のことですが、おそらくこれを使った遊芸者が語源となっているのだろうと思います。
駿河国阿倍郡川辺の説教師は「ささらの者」とも呼ばれ、つけ木、灯心の販売を行っていたそうです。
弘化二年(1845)の甲州代官小林藤之助の上申書に、「ささら」は「百姓とは縁組あいならず、村方人足等もあい勤めず、猿曳とあい混じり縁組いたし」とあります。
ワタリ・タイシ
越後北部に居た賎民で、ほとんど農地をもたず農業以外の仕事をしていた人々です。
ワタリは、三面川水系で舟による交易や物資の運送に従事していました。
タイシは、太子信仰を奉じたらしい人々で、荒川水系で箕作り、筏流しなどを業としていたようです。
猿飼(さるかい)
猿曳、猿引、猿廻し、猿飼い、猿遣いなどと呼ばれることもあります。
京都の宮中で千秋万歳の後に猿舞が伺候し、厩(うまや)の祈祷を行いました。また、江戸城でも正月に厩(うまや)の祈祷のために猿廻しが行われていました。
江戸では、猿飼は、穢多頭の弾左衛門の配下とされ、三谷橋付にまとまって住んでいたようです。
鵜飼(うかい)
鵜飼も卑賤視された人たちだったようです。おもに川魚漁を行っていますが、伝八笠を作ったり、門付け芸をおこなったりして生活していたようです。また、十手組を命じられることもあったようです。
隠亡(おんぼう)
隠坊、御坊などと書くこともあります。火葬や埋葬など葬儀一般に関わる者のことです。穢多、非人とは別の身分だったようですが賎民視されていたようです。
宮番(みやばん)
長州にかつて存在した賎民です。神社の境内に住み、神社の清掃を行い、村の番人の役割も果たしたそうです。
吉田松陰が「討賊始末」で「宮番といえば乞食非人に比べて、またエタよりも一段見下されているほどの者」だと書いています。
番役(ばんやく)
田畑の番や水の番、火の番を、穢多や非人が頼まれてやることが多かったようです。
番太(ばんた)
番太あるいは番太郎と呼ばれた人たちが、町や村に雇われて夜警など警備の仕事を行っていました。この多くは非人身分の者だったようです。
ただし、江戸の町で木戸番などに雇われていた番太は平民だったようです。
渡守(わたしもり)
渡守も賎民視された職業でした。村はずれに住み、貧しい生活をしていたからでしょうか。番役を兼ねていたのかもしれません。
賎民への差別
近世では、被差別賎民は普通の民家の軒先の雨だれの内には入れないというのが一般的だったようです。
また、非人は、別火・別器であったと言います。同じ火で煮炊きしたものの飲食は禁止、同じ食器は使わないということです。
さらに、穢多身分の者は、傘や日傘をさすことや下駄を履くことさえも禁止されていたそうです。
その他に、穢多身分の者は戒名も差別されていました。特別な差別的な戒名が付けられていました。つまり、民衆を救うべき仏教においても差別があったのです。
身分の固定化
近世の為政者は、賎民と百姓や町人との区別を厳しくしていたようです。幕府や藩にとって革製品を作り下級警吏の役目をする穢多や非人が必要だったので、そうした身分の人たちを維持したかったのだと思います。
穢多身分の者が外出する際に識別用に札や毛皮をぶら下げることを強制した例があります。越後高田藩では、寛保二年(1742)に穢多は腰に「西村町」と書いた札を下げて徘徊するよう命令しています。伊予大洲藩では、寛政十年(1798)に穢多は五寸四方の毛皮を目立つように下げて出歩くよう命令しました。
また、特定の髪型などを強制した例もあります。長州藩は、元文二年(1737)に穢多は、男は「ちゃせん髪」、女は「折わげ」にするよう命令しました。幕府では、享保八年(1723)に平の非人は髪は「ざんぎり」にし頭巾などかぶりものをしないとする命令を出しています。
着用する衣服を規制した例もあります。丹波篠山藩では、「かわた(穢多)は木綿・麻布で浅黄無紋たるべし」となっていたそうです。岡山藩では、安政二年(1855)に穢多の無紋渋染・藍染以外の着用を禁止しましたが、穢多の一揆が起こったため、これを撤回しています。この事件は渋染一揆と呼ばれています。
賎民間の争い
中国地方の各地で茶筅身分の人々が、「自分たちは穢多支配下に非ず」と主張して、穢多支配下と主張する穢多身分の人たちとたびたび争っています。
また、岡山藩では正徳二年(1712)に隠亡(おんぼう)身分の人々が、穢多身分の人々から「隠亡は穢多の手下」とされたことに反発しています。
幕末の戦い
幕末の第二次長州征伐の時に、長州では穢多による屠勇隊や一新組、茶筅による茶筅隊が結成されています。穢多や茶筅が自らの身分の引き上げを図った行為でした。
また、この時に江戸の穢多の頭の弾左衛門は配下の500人を幕府側に従軍させています。やはり、自分たちの身分を解放させるための動きでした。