台灣には、2005年時点で145校もの大学が、島内のあちこちに建てられています。
台湾人の大学進学率は7割近くに達するようで、学問熱心のお国柄もあいまって日本以上の学歴社会となっています。
その中の一つに、台北市内にある
「国立台湾師範大学」
という大学があります。台湾は「繁体字」という漢字の旧字体を使うので、正式には「國立臺灣師範大學」と書かないといけないのですが、画数が多すぎて読みにくい。そんな硬いことを言わないのが我がブログ。以下「師範大」とします。
「師範」という名前がついているように、この台湾師範大学は学校の教師養成の学校となっています。もっとも、最近は教員希望者が減ったのか、はたまた少子化の影響か、日本の教育大学もそうですがそのストライクゾーンの広さから総合大学への脱皮を図っています。
ここもその例に漏れず、「師範」という名前はついているものの、文学部から理学部、芸術学部までを網羅した事実上の総合大学となっています。
この大学の英語名の略称は”NTNU"です。
National Taiwan Normal University
略してNTNU。
中国にも師範大学があるのですが、こちらも英名がNormal University。
”Normal”ってなんじゃい!?"Normal"があるなら”Abnormal University”でもあるんかいな!?(笑
と若い頃は変な方向へ邪推したものです。
何故Normalなのか、調べてみると理由は簡単でした。英語のnormalには「模範的な」という意味もあり、模範的になる人は教師になる。教師=模範たる人。「他人の模範となる人」を養成するのが「師範大学」というわけです。
もっとも、「Normal University」という言い方は英語として古めかしく、今の欧州ではあまり使われていません。しかし、その言い方がまた日本人には古めかしい「師範」に合っている。これは妙訳だと思います。
師範大は、外国人の中国語教育のメッカでもあります。
中国留学がメジャーではなかった25年以上前は、この大学の外国人教育センターに留学し中国語を勉強していた人も多いと思います。かく言う私も20年前、ここに少しだけですがお世話になったことがあります。外国人の中国語クラスの門戸は広く、先生も教授歴の長いプロばかり。学生だけではなく駐在員の奥様方や日本語教師など、階層はかなり広かったと記憶しています。
一時は猫も杓子も中国だと、日本人はみんな中国へ流れていった感がありますが、ここ数年は「台湾回帰」の動きも活発になっていると聞いています。なんだか一巡回って元に戻った感があります。
師範大は、台北市の中心部から少し南にある「古亭」(クーティン)という地区にあります。
ここは日本統治時代にも「古亭町」という地区で、日本人も多く住んでいた地区だと聞いています。台灣生まれ台灣育ちの「湾生」だった私の遠縁も、ここ「古亭町」に住んでいたそうです。
「私、小さい頃は『こていちょう』で育ったの」
ちょうど20年前に台灣に住んでいた時、遠縁はそう私に言いました。
私は「古亭」を北京語読みの「クーティン」でインプットしていたので、「こていちょう」と言われてもピンと来ませんでした。「湖底町」ってどこやねん、統治時代の地名で言うてくれてもと思ったのですが、漢字を見て一目瞭然。ああ、師大(「師範大学」を中国語ではこう略す)のあるところねと。
まさか「古亭」が日本統治時代からある地名だったとはつゆ知らず。そう知った途端、「こていちょう」の響きに血が通い出した気がしました。
私が台北に住んでいた1997年、師範大周辺には絵に描いたような和風建築が掃いて捨てるほど残っていました。ああ、日本人が住んでいたのだなと、昔に帰った田舎の祖母の家を訪ねる気分でした。
遠縁が住んでいた時の雰囲気がおそらく残ってた時と思われ、カメラを構えているとお年寄りがヒョイと顔を出し、
「こんにちは、あんた日本人かい?」
と日本語で声をかけられたことも。今思えば、台灣の「元日本人」たち、女性は「あなた」だったのに男性の日本語の二人称って、何故か「あんた」が多かったなー。
しかし、今は「こていちょう」という古い地名と共に今は見る影もありません。私が見た風景は、既に過去のものとなっていました。
台灣師範大へは、今では市内を縦横無尽に走るMRT(地下鉄)に乗れば市街地からものの十数分の距離です。最寄り駅は「古亭」です。
情報収集のためにググってたところ、あるブログで「師範大学への最寄り駅」について激論(?)が交わされていました。別にどっちでもええやないか、最寄り駅くらいで揉めるなっちゅーねんと。
地図で示すとこの通りなのですが、私なりに説明すると、
台灣師範大自体に行く=古亭駅
大学の横で行われる師大夜市(大学周辺に開かれる夜市)へ行く=台電大楼
ということでいいと思います。また、古亭駅は緑の路線と黄色の路線の乗り換え駅でもあるので、市街地からならここを目標にした方がわかりやすいと思います。まあ、地理に疎い初心者や方向音痴と自覚している人は、古亭で降りた方が絶対無難。
ここあたりに行かれる方はご参考までに。
MRT古亭駅から徒歩5分ほどで、台湾師範大のメインキャンバス正門へと到着します。
台湾師範大の設立は1946年となっていますが、それより古そうな、ものすごい威厳をまとった建物が真正面に君臨しています。
門をくぐるとこの通り。
来る人を圧迫させるような、しかし少し懐かしさを感じるこの建物は一体・・・。
台灣師範大学の設立は、たしかに日本統治時代が終わった1946年です。しかし、校舎は日本統治時代のものをそのまま現在も使っているのです。
師範大が作られる前、ここには何があったのか。
台北高等学校とは…とその前に旧制高校の説明を
いきなり台北高等学校の説明に入っても良いのですが、おそらく「旧制高校って何じゃい?」という人の方が多いと思います。
予備知識がないと、その後の台北高等学校の説明がすべて暖簾に腕押しになってしまうので、「旧制高校とはそもそもなんぞや」から説明していきます。
「旧制高校」とは、戦前の学制にあった学校の一つで、昭和25年の新学生公布につき廃止となりました。
「高校」と言っても、まず今の高校とは全く違います。新学制における高校、つまり今の高校、は中等教育の一つですが、旧制高校は高等教育の一つ。つまり今の大学と同等の学校ということです。
上の図の左側が旧制、右が現在の学制ですが、戦前の学制は実は非常にややこしい。戦前の学制はヨーロッパ式の「複線制」を導入し、当人の志望・家の経済力・故郷の情勢などによっていくつものパターンが用意されていました。、少なくてもドイツはこのシステムで、ドイツでは「ギムナジウム」という旧制高校と同じ地位の学校が存在します。いや、旧制高校がギムナジウムのパクリです。
今の学制はアメリカ式で、「単線制」と言います。
旧学制は急がば回れや脇道が多い上に、「中学四年修了」などの飛び級もあるので非常にややこしく、上の図をひと目見ただけでは正直わからないと思います。
旧学制の重要な部分だけを切り抜き単純化させつつ、今の学制と比較してみました。小学校までは同じなのですが、そこからの進路の枝分かれが多いのが戦前の学制の特徴です。
今の高校は旧制の「中学校」あるいは「女学校」で、「旧制高校」は今の大学とほぼかぶっていることがわかります。今の「6-3-3-4制」風の言い方をすると、戦前は「6-5-3-3制」と言っていいでしょう。
(昭和20年当時、旧制高校一覧表)
旧制高校は大学に入るための予備機関という解釈をしても良いかと思いますが、高等学校に入れば人も羨むエリートの仲間入りでした。地方では旧制中学や高等女学校卒でも知識階級かつ名士扱い。今の高卒でこれだから、旧制高校生となると雲の上を超えた神候補的存在。合格者が出ると地方によっては号外が出たと言います。
旧制高校生にはある特権が与えられていました。それは、帝国大学へ基本的に無試験で進学できること。
「俺は東京帝国大学医学部しか興味はない!」
「俺の進路は京都帝国大学法学部のみ!」
など、相当のこだわりがある人は別ですが(そういう人は山ほどいました)、それ以外はエスカレーター式に帝国大学へご案内。
みんなの憧れかつ志望者が多かった東京帝国大学や京都帝国大学や医学部などは、簡単な入学試験があったようですが、旧制広島高校から東大文学部に入った作家の阿川弘之によると、同じ東大でも文学部などはノー試験。ご希望ならどうぞお好きにお入り下さいという状態だったそうです。ただし、文学部でまともな就職先があると思うなよという前提で。
高校に入ってしまえば大学へはフリーパス。その間に17~20歳だった学生たちは受験のプレッシャーから開放され、同級生と心ゆくまで議論し、気が済むまで勉強し、校庭で寝転んで人生を考えたりと、青春を満喫した人生でいちばん自由な時間を過ごしたと言います。
こう書くと、ある勘違いをする人がいます。
「なんだ、戦前は大学に入るって簡単だったんだ~~」
とんでもありません!
大学には確かに基本「無試験」です。しかし、その条件である旧制高校がとてつもなく狭き門だったのです。
旧制高校の競争率はだいたい10~20倍だったそうで、それも今の大学と同じように一次試験と二次試験がありました。高校に入るのに二浪くらいは当たり前、作家の司馬遼太郎も、浪人してまで全国の高校を受けまくったものの、「かすりもしなかった(by本人)」そうで、結局無試験だった大阪外国語学校(のちの大阪外大→現阪大外国語学部)になんとか滑り込んだほどでした。
旧制高校に入れるような人は、各都道府県の進学校の成績上位者しか入れないと言ってよく、さらに学費も案外高いので経済的にも裕福な家庭の青年しか入れない。今の大学に入るよりはるかに高い関門だったことは確実です。
現在の「旧制高校」
旧制高校は、戦後に学制が変わり昭和25年までには大学と統合という形で廃校となったので、制度上では跡形も残っていません。しかし、その残骸は今の大学制度にも背景放射のように残っています。
大学を卒業した人なら、一般教養こと「パンキョー」は知っているでしょう。これが実体がなくなっても残っている旧制高校の残像です。今40代後半以上の大卒なら、大学に「教養部」ってものがあったはず。それも大学に吸収された旧制高校の残骸でした。
旧制高校のシステムが、現代でもそのまま残っている日本唯一の大学があります。それがかの東京大学の教養学部。
東大の学生は、最初の2年間は駒場キャンバスで一般教養を学び、残り2年(医学部と薬学部は4年)の専門科目を赤門があるキャンパスなどで学びます。
この最初の2年間の流れが旧制高校の名残で、駒場の教養過程を2年から3年にしたらそのまんま旧制高校の復活なり。駒場キャンバス自体も旧制第一高等学校という、日本トップクラスだった旧制高校の敷地をそのまま流用しています。
東大の入試の募集要項も一風変わっています。
ふつうの大学は、「文学部」「医学部」などで募集するのですが、東大だけは「文科一類」「理科ニ類」などで募集しています。
全国でもこのような募集は東大だけになってしまったのですが、これも旧制高校の名残です。旧制高校の募集とクラス分けもこのような仕組みで、「一類」などの言い方が「甲乙丙」になっただけ。
今の東大教養学部と比較すると下の通り。左が東大、右が旧制高校です。
- 文科(理科)一類 → 文科(理科)甲類
- 文科(理科)二類 → 文科(理科)乙類
- 文科(理科)三類 → 文科(理科)丙類
ただし、東大の一ニ三類は3年生以降の進学先に対し、旧制高校の甲乙丙はメインで学ぶ外国語の分類というところが、東大とは違う点です。
「甲類」は英語、「乙類」はドイツ語、「丙類」はフランス語が主要外国語となり、高校の3年間その語学の授業がみっちり組み込まれているシステムとなっていました。
文科はそれほどの区別はなかったものの、理科は甲類が理学部・工学部、乙類が医学部・農学部進学コースと分かれていました。そこらへんも東大が受け継いでいます。
「甲類」「乙類」はどこの高校にもあったのですが、仏語メインの「丙類」を置いていた高校は文科でも数少なく、「理科丙類」となると東京高等学校(東大に吸収)と大阪高等学校(阪大に吸収)と全国に2校しかありませんでした。
ストームとバンカラ
高校生などの10代前半は、有り余るエネルギーがつい暴走してハメを外してしまうことがありますが、同じ時期の青春を過ごしていた旧制高校生も同じこと。
旧制高校にはいろいろな名物行事がありましたが、その中でも有名なのが「ストーム」。
ストームとは英語の嵐(Storm)のことで、簡単に言うと若さに任せて嵐のように暴れまくること。「新入生歓迎ストーム」「運動会打ち上げストーム」「試合に勝った記念ストーム」などなど、何かと理由をつけては「ストーム」する。旧制高校生をストームなしで語ることはできません。
(『白線帽の青春』より)
寮で裸になりストームしている学生たちです。
暴れる場所も、暴れる規模も若さゆえに暴走することが多く、「街頭ストーム」となると街に繰り出し町中で大暴れ。
(『白線帽の青春』より)
富山高等学校創立10周年記念ストーム(昭和前期)の写真です。高校生全員が校歌や寮歌を歌いながら町の真ん中で大暴れ。電車を壊されたらたまらんと、ストームが過ぎ去るまで市電が臨時運休したほどでした。
町の人々は大目に見てくれるのが慣習でしたが、度を越すと刑事事件に発展することもありました。
島根県の松江を修学旅行で訪れていた第六高等学校(今の岡山大)の学生が松江高等学校(今の島根大学)の学生と合流、松江の町に2つの高校合同の「大ストーム」が。
勢いづいた学生たちは交番を襲撃し警察官の静止も完全無視。今なら公務執行妨害で現行犯逮捕ものですが、警察が激怒し逮捕しようと高校に乱入。しかし学校と町が学生を徹底的に庇って警察が折れ、おとがめなしとなりました。
学生たちのストームで大暴れされた町も、ガラスを割られたり食い逃げされたりと迷惑千万。が、次の日にきちんとガラス代や食事代を弁償に来たりするかわいい面もあり、学生さんやから仕方ないな~という「のどかさ」と「おおらかさ」と、将来のエリートが約束された人への敬意が当時はあったと言います。
旧制高校生を語るもう一つのキーワードが、「バンカラ」です。「蛮カラ」とも書きます。
「ハイカラ」という言葉があります。明治時代~大正時代にかけて大流行した言葉で、既に日常会話では使われないものの、存在感はまだまだ高い言葉です。
一説によると、最初は「西洋かぶれ」と良い意味では使われなかった話もありますが、次第に西洋式の上品な振る舞いをする人として意味が変化していきました。今風で言うなら「スマート」ですかね。
「ハイカラ」は元々男性を指していたのですが、次第に女性も指すようになり、NHKの連続テレビ小説の『ハイカラさん』やマンガの『はいからさんが通る』の影響で完全に女性を指す言葉となったようです。
「バンカラ」は、この「ハイカラ」の対義語、「ハイカラ」とは逆の人という意味として生まれました。
旧制高校生の服装を指す言葉として、「弊衣破帽」(へいいはぼう)というものがありました。
ボロボロの制帽にボロボロの学生服(旧制高校は、ごく一部を除いて詰襟)、マントをまとい、腰には手ぬぐい。下を見ると靴は高下駄。これが旧制高校生の「バンカラ」な格好で、高校生の典型的な格好として現代に伝わっています。
旧制高校生の格好を文字たけで脳のCPUの想像力を働かせてみると、あるアニメの登場人物が脳裏をよぎりました。
『ど根性ガエル』のゴリライモです。
ボロボロの学生帽にマント代わりの学生服。そして下駄履き。どこからどう見てもバンカラの旧制高校生です。
『ど根性ガエル』が少年ジャンプに連載されていたのは昭和40年代だった記憶があります。旧制高校は既に消えていても、作者自身おそらく高校生の記憶は残っていたのでしょう。もしかして、旧制高校生のバンカラに憧れていて、それをゴリライモという人物に投影させたのかもしれません。
大阪府立浪速高校(今の阪大+大阪府立大学)の学生ですが、夏服なので季節は夏、マントは暑いのでしょう、着ていません。しかし高下駄と手ぬぐいという当時の高校生の必須アイテムは装備しています。
これが冬服の方です。今回の本題の台北高校の学生です。
高校生たちの「インターハイ」は、元々旧制高校生たちの運動会のことでした。
それが名前だけ伝承されて現在に至っているのですが、旧制私立武蔵高校OBのある作家によると、インターハイのテニスの試合で佐賀高校の生徒が、まさしくゴリライモのような格好で出場していたそうです。ラケットの構えも剣道の竹刀かよと笑ってしまったそうですが、いざ試合をするとメチャクチャ強く、下駄履きとは思えない身のこなしと気合と根性でどんなボールでも拾って返し、ストレート負けしてしまったんだとか。
女学生が「ハイカラさん」なら、旧制高校生は言うなれば「バンカラさん」。今でも思春期の学生はどこか時代の常識と外れたことをしたがる傾向ですが、旧制高校生の年頃もそれを「バンカラ」という形で誇示したかったのでしょう。
旧制高校についてもっと細かいことを知りたい人は、こちらの本がかなり詳しいです。だいたいのことはこの一冊を読めば十分です。
台北高等学校の歴史
旧制高校とはどんなものか、ぼんやりとイメージがついた(?)ところで、本題の台北高等学校を。「台北高等学校」だと長いので、以下「台高」とします。
大正11年(1922)、日本統治下の台湾で『第二次台湾教育令』が公布されました。
日本による統治が始まった当初の『台湾教育令』では、「本島人」と呼ばれた台湾人はどんなに優秀でも旧制中学以上の中等教育を受ける権利がありませんでした。これは差別というより、中等教育以上の日本語能力の問題でした。
台湾在住の日本人は現地の小学校、台湾人は「公学校」という台湾人専用の学校と分かれており、公学校はまず日本語のお勉強からというスタートでした。
1922年の『第二次』でも初等教育は「日本人=小学校、台湾人=公学校」という区分けは変わらないものの、学校の授業について行ける日本語能力があれば小学校への編入も可能と改められました。といっても、台北の場合小学校の定員100人につき、日本人:台湾人=95:5くらいの比率ではありましたが。
『第二次』でいちばん変わった部分は、中等教育以上の教育差別待遇を全廃したこと。台湾人でも能力があれば中学校以上に入学が可能となり、日本人と一緒に学ぶことも可能となりました。これも小学校と同じように95:5くらいの割合でしたが、ゼロだった以前と比べると着実な進化でした。
また、それまでなかった台湾人用の中等学校も建設され、台湾人にも大学生までの道が切り開かれました。
何故そのような変化が起こったかというと、内地の政局の変化が大きく影響しています。
大正7年(1918)、日本では原敬による日本初の政党内閣が成立しました。歴史の授業で習う流れですね。
この原敬、台湾の経営に対しある政策を持っていました。当時の台湾総督は行政権・立法権・司法権の三権はおろか、軍人なので軍も動かす権限をも一手に握り、俺様すなわち法律。「土皇帝」と言われていたちょっとした絶対君主でした。
原はその権限を縮小し、軍人限定だった総督の地位を文官にも開放するという考えを、首相になる前より温めていました。
原の政策には「高等教育の充実」というものがありました。今まで超狭き門だった大学の門戸を広げ、その予備学校的な旧制高校も全国にどんどん作ることによりハードルを低くするというもの。この戦略は、内地ではほぼ原の計画どおりに実行されました。早稲田大学や慶應義塾大学、関西大学や同志社大学などの私立大学が正式に誕生したのも、原内閣の高等教育改革の時でした。
原は対台湾政策について、「内地延長主義」という内地と同等に扱い、将来的な同化の支持者でした。今でも台湾の教科書にも出てくる、統治時代初期の総督に次ぐナンバー2、後藤新平(民政局長)は「生物学的植民地統治」を採りました。これは現地の習慣を重んじ無理やり日本を押し付けない方法ではありましたが、あくまで日本人は日本人、台湾人は台湾人と一定の壁を作るやり方でした。原はその時代は終わったと判断、総理大臣就任後に台湾に関する法律を国会で通し、台湾総督は文官時代に入ります。
そこで台湾に派遣されたのが、田健治郎という文官総督でした。彼は台湾史における最初の文官総督だったのですが、彼は原の政策支持者でもあり、原があたためていた台湾政策の実行者として派遣されました。
その流れ原敬の方針の一つとして改正されたのが『第二次台湾教育令』でした。
台高は、そんな雰囲気の中で誕生しました。
しかし、台高は最初から今の台湾師範大学の位置にあったわけではありません。設立はされたものの、肝腎の校舎がなかったのです。
最初は台北にあった「台北第一中学」という旧制中学に居候する形で作られました。
台北第一中学、略称「台北一中」は、台湾一の中学として日本統治時代を通して君臨しました。そして今も、『建國高級中學』という台湾一の進学校(男子校)として君臨しています。
実はここにも、日本統治時代の校舎がそのまま残っておりました。
1926年、待ちに待っていた新校舎が完成し、4年間の居候から正真正銘の高校へとバージョンアップ。
その時、『第二次台湾教育令』の目玉第二弾として、台高いの事実上の姉妹校として計画中だったのが、のちの台北帝国大学です。
第一話はこれにておしまい。
第二話へ続きます。
■■最後までご覧いただきありがとうございます。そしてお疲れ様でしたm(_ _)m
よろしければ、立ち去る前に下のボタンを押していただけると喜びます♪■■
↓↓