移住してまもなく、アイヌたちに石狩までさらに移り住むよう働きかけが始まった。
もうすでに10月7日は、樺太アイヌを石狩に移すことを決定したという通達が出ている。
そこで松本十郎ら役人が小樽から宗谷に向いアイヌたちを説得することになった。
そして10月下旬には、アイヌの長たちが石狩方面に出向き、現地を視察することになった。
しかも、その前にすでに移住に同意するという調書が作られ、長たちは拇印を押したとの記録がある。役人からの度重なる「説諭」に根気負けしたと思われる。
アイヌの代表たちは対雁などを視察したが「不服」だったという記録がある。そして、11月下旬に宗谷に戻った。
アイヌたちは宗谷で冬を越し、翌年4月アイヌの長たちは松本十郎宛てに、みんなが反対しているので移住を強行しないでほしい旨の嘆願書を提出した。
ここに引用する。
「同処の義は海岸より既に十里程も川上有之、元来私共海岸住馴候土人に御座候へば、都[すべ]て海業之無候ては兎角身成行不相立」
対雁は、海から離れている。
政府は樺太アイヌたちを対雁に移住させ、そこで農業に従事させようとしたのだが、漁業をなりわいとしてきたアイヌたちとしてはそれを受け入れることはできなかったのである。
「御場所共繁華の土地に御座候得ば、私共様成土人共多人数移住候ては混雑行末の懸念不少、第一瘡瘂流行に係り候ては一人も存命無覚束、是には殆ど困窮士」
アイヌは長年の経験から、多人数が一カ所に集住すると疫病がはやった時、恐ろしいことになるであろうことを分かっていたのである。この予感は見事にあたってしまった。
「百方へ手を廻しいろいろ相諭候得共一人もの承服無之、老母老父に於ては只[ただ]悲嘆ぶ沈み罷在候而已」
「此上御咎にても御座候へば縄に付て候共聊厭い無御座候間、移転の義御免奉願上候」
「其罪を土人の償を以て(是は土人高者にして一命に係る時の器なり)御申訳奉願、此上御咎と御座候へば従前拝命役土人の名義奉還の上、更に平土人に下り奉歎願候」
「尚御聞届無之には一切御世話不被成候共致方無之、一旦手離されたる義に御座候へば柯太〔=樺太〕へ帰るより他無御座、仮令[たとえ]旧郷へ帰るにも御世話を不受、私共手造船へ乗組、浪浪の為海死致候共決して厭い不申、此上如何様御諭相成候共別に奉申上様無御座候」
(「石狩十勝両河記行」、『日本庶民生活史料集成 第4巻』p375-6)
「役土人」というのは和人との折衝の際に窓口になる代表者のことである。
アイヌの長たちは、いったん承諾書を書いたものの、現地視察を経て、同族たちの強い反対もあり、移住に反対したのである。
役所からの一切の世話を拒否し、自分たちで船を造ってそれに乗って自分たちで樺太に帰る覚悟だったのである。万が一波に飲まれて死んでも構わないとまで書いている。
しかし、政府側では着々とアイヌを対雁へ移住させる準備を秘密裏に進めたのである。
アイヌに同情的な松本十郎は、彼らの嫌がる石狩でなく、樺太に近く海のそばの枝幸方面への移住の案を提出したがこれは却下されたらしい。
なお、政府の中に石狩川の上流の空知地方(夕張など)に樺太アイヌを移し、炭鉱での石炭の採掘作業に従事させる案も一時期あったらしい。榎本武揚がそう提案した文書が残っている。
ロシア政府は、樺太北部の炭鉱で流刑者を労働者として石炭採掘に従事させているが、日本では北海道に移り住んできた樺太アイヌにそれをやらせればいいのではと榎本は書いている。
松本十郎はそれにも反対する旨の手紙を書き残している。
炭鉱労働は肉体的に苛酷であり、危険性が高いものである。戦後でさえいくつもの悲惨な事故が各地で起こっている。
その大変な労働をアイヌにやらせようという、恐ろしい発想である。
江戸時代にも、道東の白糠の炭鉱で流刑者やアイヌに炭鉱採掘に従事させた記録がある。
北海道に渡ってきた841名の樺太アイヌたちはロシア人による統治より、日本人と暮らす道を選択してわざわざふるさとを離れて北海道に渡ってきた人たちなのである。そういう人たちに何と非常なことを考えたのだろうと思う。
さて、対雁移住に合意しないアイヌたちを納得させるため、厚田や石狩の漁場で漁業をするという案も提示されたというが、住む場所はあくまで若干内陸の対雁にすべしという計画であった。
当時の役人が以下の文書を書き残している。
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石狩洲江別太に移転に付土人共の事情密に探索士候処、役土人始め平土人は勿論、婦女子等に至る迄挙げて不服の様子に付、厚き御趣意柄をも篤と懇説し、種々表裏に仁諭を施すと雖[いえど]も、更らに承服感佩致す不能、畢竟私共其任に不堪義にて恐悚至極に奉存候得共、元来黒白を弁ぜざるの頑武に付、素より土人の情態は斯くの如きものと予而覚悟も致し居り、何んぞ今さら可申上迄も無之候得共、何分八百余名の大勢の事故、人少の為自然廻船宗着の時期に臨み不手配を醸し候様にては、申訳無之候間左記の通り見込個條取調此段至急相伺候也
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『北海道旧土人保護沿革史』(北海道庁、1934/第一書房より1981年より復刻)p103
アイヌがなかなか納得しないので現場の役人たちが「説得」に苦労している様子が分かる。
また、アイヌが勝手に船で海を越えて樺太に帰ったりしないよう監視するため、警邏を5人派遣するようにとの要請が出ている。
またさらに警邏を20名増員して警邏の権威でもって彼らを移住させるべきとの案も出された。
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先着の警邏五名の外、尚今二十名丈け迎船着船前宗着出張相成候様士度、警邏の権威を以て引移り候様にては少し苛酷圧制の姿に陥り候得共、方今の情勢不得止次第且大勢之事に付、是非右様無之候ては手配方難行届奉存候間幾重にも此段御採用相成度候事。」
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アイヌを無理矢理移住させることは「苛酷圧制」のように見えるが、昨今の情勢では「不得止[やむをえず]」ということにされてしまった。
松本十郎はあくまでアイヌたちが納得しないままでの移住の強行には抵抗したが、黒田清隆は結局強権を発動してアイヌを無理矢理対雁まで移送することにしたのである。
強制移住は松本が出張で留守の時に行われた。
以下、松本十郎の回想録『根室も志保草』より。
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〔黒田〕閣下の特権を以って石狩河上に移す。而して其移すや閣下六等出仕鈴木大亮に命じ、玄武丸に乗らしめ小樽に航して、札幌の巡査三十人を率い、皆銃を携へしめ、小樽港より宗谷沖に迂回して艀船若干隻を海岸に繋ぐ、樺太移民皆愕然として狼狽し山林に遁れんと欲すれば、三十人の巡査銃砲を向けて土人を恐迫す。然して玄武丸大砲の空砲を沖に放つ、囂々然として炮声山河に響く。樺太の移民、蒲伏〔=ほふく。=匍匐。はいつくばること〕合掌して震慄せざる者無し。
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(『対雁の碑』p110-p111より引用。現代語訳が『根室も志保草』(みやま書房、)という書名で出版されている)
国家権力は、銃を持った巡査30名と、船からの砲撃でアイヌをおどして船に乗せたのである。
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樺太の移民始めの約に背くを以って憤怒せざるは無く、酋長伝兵衛(旧名アツヤエターク)に迫る。伝兵衛憂態幽思し血を吐いて死す。之を聞く者知ると知らざるとに拘らず威々然として流涕せざる者なし。事の此に至惨憺亦極れり
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(『根室も志保草』より。『対雁の碑』p112に引用)
これはどう考えても強権による「強制移住」であろう。
なお「伝兵衛」と書かれている長の和名は、「此兵衛」が正しいようである。
彼は同族たちに「長よ、話が違うではないか!和人の役人たちとちゃんと話をつけてくれたのではないか?!」といような形で責められたのだろうか。
此兵衛ことアツヤエターク(史料によってはトマリカランケアイヌとも)の遺骸は小樽の丘の上に葬られ、石の墓碑が立てられたとのこと。
役人たちは、アイヌたちには、内陸の対雁ではなく、海に近い厚田や石狩での漁業による生活を約束したが、船の上で彼らに対雁に行くことになったのでそれは変更できない旨を伝えたとのこと。これでは完全にだまし討ちであろう。
松本十郎はこうも書いている。
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東京より鈴木大亮来り、巡査二十人に銃を持たせ、玄武丸には大砲を据え、宗谷に至り沖にて之を放ち、巡査は上陸して樺太移住土人を脅迫し船に乗らしめ、小樽に上陸せしめたるに、此時酋長此兵衛は小樽にて血を吐きて死す。是に於て判官辞職の決意す
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(『犀川会資料』より。『対雁の碑』p112に引用)
松本十郎は人間としての良心から役人を辞職することになった。
彼はアイヌの樹皮の繊維による民族衣装、アットゥシを着たりしたので、「アツシ判官」とまで言われた人で、アイヌとの信頼関係を大事にした人である。
樺太アイヌの対雁移住は「強制移住」ではない、「合意の上での移住」である、と言い張っている人は、こういう資料を見てないのだろうか。これらはすべて、樺太アイヌの強制移住の歴史についてまとまった、唯一の本と言っていい『対雁の碑』に引用されている文章である。
こういう基本的な文献も読まずに、まったく事実に反した事を書いて平気な顔をしている。
これははっきり言って歴史的事実の捏造ではないか。こういったことを平気で書き連ね、出版している人物は大いに反省すべきだと思う。
史料を見る限り、宗谷までの移住については一応の「合意」があったとも言えるが、かなり早い時期から政府としては、石狩への移住を既定の事実のように押し進めようとしたように見える。
現場の役人は困り果ててアイヌの「説得」に動いたのだが、それもうまくいかず、結局強権を持ってアイヌを無理矢理対雁に移住させたのである。
なお、宗谷アイヌが樺太アイヌとの接触によって「混血」することを恐れて役所に陳情し、追い出すことに成功したという証言があるが、行政側にはそれについての記録はない。
(宗谷アイヌ、柏木ベンからの聞き取り。早川昇『アイヌの民俗』、岩崎美術社、1970)
石狩への移住案は宗谷に移住する以前からあったものなので、宗谷アイヌからの働きかけがあったにしても、それが強制移住の直接の原因になったということはないと思われる。
なお、すでに書いたように、樺太アイヌと宗谷アイヌは交易などで行き来も多く、文化・言語に近い面がある。北海道に来た樺太アイヌが現地で妻を持ち、子供を作ることもあったという伝承もある。
であるから、樺太アイヌとの接触・混血を恐れるということが本当にあったのだろうかという疑念も出る。この証言がどのような事実を反映しているのかは今のところ謎である。
ただ、800人以上の人たちが急遽自分たちの生活圏に入り込むことによって自分たちの生活がおびやかされるかもしれないと宗谷アイヌが危惧を抱いたとしても不思議ではないだろう。
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詳しいデータに基づくご意見、ありがとうございます。
今まで何件かコメントがありましたが、こういう内容に深く切り込む意見は初めてだったと思います。
コメントにはきちんと返答させていただきます。今書いているところですが、きちんと私も調べなおしてお答えしようと思います。少々お時間をください。2~3日以内には書きたいと思います。
改めてコメントに感謝します。
当時、今までの数件のコメントは、きちんと調べたり考えた上でのコメントというよりは、通りがかりで、思い付きで書いただけのようなコメントでしたし、私の返答に対して再反論をくれた人はいませんでした。
さて、あなたのコメントについて私なりの考えを書かせていただきます。
まず、樺太アイヌたちがどういう病気を想定していたかですが、確かに北海道・樺太でアイヌに大打撃を与えた伝染病の代表的なものはまず天然痘であることは間違いないと思います。
天然痘にもアイヌ語名がついています。近代的な医学の知識はなかったでしょうし、病気そのものを神様とする信仰がありました。
なお、樺太アイヌが感染したのは天然痘とコレラの両方ですが、人数的には、江別市役所の戸籍に基づく資料によると、コレラ32人、天然痘287人ですから、天然痘の方が圧倒的に多かったのです。
樺太アイヌが感染した病気は天然痘とコレラの両方であり、かつ天然痘の方が9倍近く天然痘が多かったことになります。
やはり樺太アイヌたちの危惧は当たってしまったことになります。
コレラが日本で最初に発生したのが1822年だそうですが、樺太・北海道で最初に感染した人がいたのがいつなのかは分かりません。
樺太アイヌたちがコレラの存在を知っていたかどうかは分かりません。
いずれにせよ、仮に天然痘なりコレラの流行がなかったとしても、強制移住が行われた事実は変わらないと思います。
私の文章の趣旨は、樺太アイヌの対雁への移住は、合意に基づく平和的なものではなく、強権・暴力をもってした強制的なものだったということで、その趣旨は変わりません。
時間不足で、今回はここまでにさせていただきます。後日改めてお返事を書きます。お許しください。
国籍選択についてですが、「日本国籍を取得」と「対雁への移住」と「漁業ではなく農業を営なむこと」をセットにする必要はなかったはずです。
「樺太アイヌ達に漁場を新しく提供することは不可能だった」かどうかはきちんと検証する必要があると思います。
当時、樺太アイヌの移住者を吸収できる状況が宗谷にあったのかどうかは、きちんとしたデータをもとに検証する必要があるでしょう。
ただ、さまざまな資料を見る範囲で私が思うに、宗谷もしくはその近隣の地域で樺太アイヌ約800人が希望していた漁業を営んで暮らすことは可能だったのではないでしょうか。
北海道各地の各市町村史を見ていると、明治20~30年代に入植者が集団で移住したところがいくつもあります。
仮に宗谷1か所で無理だったとしても近隣の地域に分散して彼らに漁業権を与えて希望通り漁業に従事させることは可能だったのではないでしょうか。
あとから来た和人の移住者が漁業権を与えられて漁業に従事しているケースが各地であったのですから、その前に来た樺太アイヌには漁業権を与えないというのは矛盾していると思います。
実際、松本十郎は枝幸方面に移住してはどうかと提案して、長老たちが現地視察に行ってます。
その結果、松本十郎は、枝幸移住案を黒田長官に提起してますが、却下されています。
また、永井秀夫・大庭幸生『北海道の百年』(山川出版社)のp123に引用されている『開拓使事業報告』の記述を見ますと、北海道の漁業人口は、1878/明治11年には、約3万6007人です。
そして、15年後の1893年/明治26年には15万9879人です。
確かに紛争はあったよのでしょうが、魚場の開発・技術の進歩もあったとはいえ、これだけの漁業人口が15年の間に増えているわけです。
もちろんこれだけの人間が漁業に従事した以上、環境への負荷・ダメージはもちろんあったはずですが、それでも資源が枯渇しないだけの水産資源がまだまだあったということではないでしょうか。
1875/明治7年の時点で、800人強の樺太アイヌを漁民として受け入れることが不可能だったと言えるでしょうか。
仮に宗谷も枝幸もダメだったとしても、その他の地域を候補地として、樺太アイヌと交渉することもできたはずです。
市町村史を見ますと、明治10~20年代にも、稚内や枝幸など、道北でも入植して漁業に従事した和人の移民がいたことが記録にあります。
明治10年代以降にこれらの人たちに漁業権を与えたのならば、なぜその前に来た樺太アイヌには漁場を与えなかったかという疑問がわきます。
詳しいデータがないので、人数は分かりませんが、1875年当時、何カ所かに分散すれば800人強の人口を道北で吸収することは不可能ではなかったはずです。
また、さらに言うならば、1945年に日本が無条件降伏し、ソ連が不可侵条約を破棄し、南樺太に侵攻し、南樺太の日本国民(和人・アイヌを含む先住民族)のほとんどは、樺太を脱出し、「引き揚げる」ことになりました。
終戦時に南樺太に40万前後の人口がいたことが分かっています。
樺太に来る前にいた本州の出身地に戻ったり人もいましたが、北海道に引き上げた人が相当の割合でいて、数万人単位でいました。
その中には、引き揚げた先で漁業に従事した人がたくさんいました。
樺太からの引き揚げ者が入植して新たに作られた漁村もあったほどです。
樺太引き揚げ者の受け入れについては、さまざまな労苦・混乱があったことは私も承知してますが、それだけの人口を受け入れることができる容量が北海道にあったということではないでしょうか。
引き揚げ者を受け入れた結果、北海道で餓死者が出たという記録はないと思います。
仮に100歩譲って、樺太アイヌのために対雁以外に提供できる居住地がまったくなかったならば、最初の段階で「日本国籍を取得して北海道に来るのならば、対雁で農業する以外は認められないので、それでもいいなら日本国籍を選んでください」と言うしかなかったでしょう。
最初は宗谷への移住を望んでそれを一応は認めたのですから、それを反故にして対雁への移住を強制したのはやはり暴挙だったと思うのです。
ただ、そもそも、もともと住んでいた人たち(先住民族)の意向を聞かずに大国の勝手な都合で樺太と千島列島を分割してしまったことが理不尽であったことを見逃してはいけないはずです。
当時の政治家や役人たちが、本当に真剣に、樺太アイヌたちの北海道移住後の生活を心配したならば、樺太アイヌたちの希望をかなえるべく、最大限の努力をしたはずです。しかし、残されている資料を見る限り、そのような形跡はまったくなく、一方的かつ高圧的に樺太アイヌたちに望まない形の生活を強制したように思えます。
ただ一人、彼らのことを親身になって心配した役人は松本十郎だけだったということかもしれません。
「北海道の良好な漁場はすでにその地のアイヌが漁業を行っていたはずです」とお書きになってますが、良好な漁場がアイヌに対して優先的に提供されたという事実があるのでしょうか?
実際はアイヌだけでなく、多くの地域では北海道に移住した和人にはむしろ優先的にいい場所を得ていたケースが多かったらしいです。
私が住んでいる日高の漁師町でも、和人が大きな漁場を独占して、アイヌにはその残り物があてがわれたという話も聞いています。
(きちんとしたデータに基づく論証はまだ行われておらず、あくまで地元で聞いた話です。ちなみにこれは和人の老漁師による証言です。)
人口的にも和人が圧倒的に多いわけですから、アイヌの方が良好な漁場を与えられたケースは少ないようです。
ただし一部地域では、漁師の親方として漁業を営んで成功したアイヌもいたようですから、すべてそうだったと言うつもりはありません。
今後データに基づく議論が必要ではないかと思います。
以上で私のお答えとします。さらにご意見・反論がありましたら遠慮なくお聞かせください。