明治初期(1872年)に樺太南部の各地にアイヌが2400名ほど暮らしていたという記録がある。
そのうちの841名(文献によっては854名ともある)が北海道に移住したわけである。
樺太の先住民については、国籍選択について3年の猶予が与えられたが、条約締結後、なぜか日本政府は樺太アイヌの移住を早急に進めたのである。
条約の締結が5月7日であるが、樺太の引き渡しは9月19日となったので、政府も慌てて移住者を募って取りまとめ、移送の準備を進めたものと思われる。
樺太アイヌ841名は、1875年9月から10月にかけて、何度かに分けて船で対岸の宗谷に移り住むことになった。
あまりに急に移り住むことになったので食料や家財道具をまとめる準備ができず、一切持たずに樺太を去り、あとで生活に困った人がいたという記録もある。
また、ロシア人はアイヌの去った家や家財道具をすべて焼き払ったという。
宗谷に着いたアイヌたちは、各地に分散して、それぞれ急ごしらえの小屋を建てて暮らした。
そして、海で魚をとったり、野山で焚き木を集めて、樺太での生活に比較的近い生活をしていたようである。
日本政府からの働きかけのもとに、宗谷に移った樺太アイヌたちであるが、すでに書いたように樺太から宗谷に移る前に、彼らを石狩に移住させる案があった。
樺太アイヌが宗谷に船で移されたのは1875年の9月9日からであるが、6月の時点で役人の長谷部辰連が、アイヌを宗谷ではなく石狩に移住させることを提案をしたという記録がある。
『樺太記念年表』(北海道総務部行政資料室、1971)p108、『対雁の碑』p72にて引用)
そして8月にもう一人の担当役人、堀基が、上司である松本十郎および金井信之にあてて書いた伺い書では、石狩に移住するよう説得したが、彼らが宗谷を希望していて説得が難しいと書いてある。彼らは、宗谷はふるさとである樺太に近いのでまだいいが、石狩は遠いところなので「地理不案内」なので抵抗があるのであろうというような推測も書かれている。
また、それは、樺太に出稼ぎに来ていた漁民たち(つまり和人)の姦計(=裏工作)があるのではないかという疑念も書かれている。
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然ば当州〔樺太のこと〕土人共石狩川上へ引移しの義に付、御打合越の趣承知致候。未戸口の数判然不相分候得共、当今の処にては宗谷郡江移転致度願出の者のみ、即別紙調書の通有之候得共、惣体引揚の時に臨候はヾ、亦如何様方向を変ずるも難計[はかりがたく]、右様宗谷郡の外え移転を欲せざるは、地理不案内の為かとも被存候得共、若当州出稼漁民の姦計にて、宗谷地方に勧候訳無之哉と、少しく疑念も有之候に付、出稼漁民の義は先発為引払、其後尚亦丁寧反覆説諭を加る心得に候得共、多分は六ケ敷[むずかし]かる様勘考致候
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こういう可能性が懸念されたのは、樺太アイヌと和人の漁民たちの関係が近しいものであったからではないかと想像することができる。