樺太南部に住んでいるアイヌが宗谷に移住することになったのだが、その経緯についてはさまざまな資料がある。
政府の役人の側から移住を勧めたという記録もあるし、アイヌ側が移住を望んだという記録もある。
その経緯については、樺太アイヌ史研究会がまとめた『対雁の碑』(北海道出版企画センター、1993)という本があり、これに詳しいので是非読んでほしい。
残念ながら絶版になっており、手に入りにくくなっている。この本は樺太アイヌの歴史を勉強するならば必読の本である。
例えば、北海道に移住した樺太アイヌの一人である山辺(やまべ)安之助、アイヌ名ヤヨマネクフ(Yayomanekuh)の本で語られている箇所から引用してみる。
山辺は、樺太のヤマンベツ(弥満別。ヤマベチとも)という村で生まれたアイヌの男性である。
彼は、約100年前にタライカ出身の花守信吉とともに、白瀬矗を隊長とする南極探検隊に犬ぞり係として参加したことで有名である。
探検隊は1910年に日本を出発し、南極を探検し、1912年に日本に帰還した。今から101年前である。
その彼が、南極からの帰還後、アイヌ語で語った半生記を金田一京助が聞き取り、それに日本語訳を付して出版した『あいぬ物語』という本が有名である。
原本では日本語訳が本文でそれに小さい字でルビのようにアイヌ語が添えられている。
ここではアイヌ語の原文は省き、金田一による日本語訳のみを紹介する。「土人」などの用語もそのまま原文通りである。
[ ]は読みにくいと思われる漢字へのルビを示し、〔 〕は私による補足説明である。
――――――
明治八年の年に、私達の生れた故郷、樺太島は、露西亜[ロシア]の領土になって了った。
私の長い流転の生涯が、ここから始まるのであった。
其の時、黒田開拓長官は土人だけは、今まで樺太に在っても、日本人の雇いになって、日本人と一緒にいたものであるから、此の場合、一同引連れて内地へ連れて往きたいと云われたそうである。
其の時土人の中には何と云っても樺太は、吾々の生国であり、祖先の翁たちも此の国土の底へ葬ってある。
であるから、此の国からよその郷へ行く事は、イヤであると云う人達もあった。
又、其通りではあるけれど、此郷へ住居をして、露西亜人の家来となり、露西亜人の仕事をする、そんな事はイヤだ。
日本の人には、先祖以来衣食住の厄介になったんだから、どうあっても、日本の島に渡り、そして日本の国に一所に住居するがよかろうと云う人々もあった。
私共の村人始め、樺太中で日本に向った(亜庭湾内)知床より野登呂・白主に至る一帯の土人は、これ迄、日本人と一緒に暮らして居て、今日本人が内地に帰ってしまうんだから土人達も一同日本人と一所に北海道へ往きたいと云った。
そこで、黒田〔清隆〕長官の言葉は、こうであった。
「然らば、来ようと思うものは連れてこよう。イヤだという者は其儘[そのまま]に置こう。」
(中略)
此の出来事は私の半生涯の大事件であったけれど、私はまだやっと九歳の小児であったから、自分で、べつに何とも思わなかった。
漁に用うる船で家財道具だの色々なものを運び、私なども皆の人と村を引払って発ったのは、なんだか小供心は面白くって、何も思わなかった。
そして、いよいよ久春古丹[クシュンコタン]へ着いた時には、諸所方々の村の土人達と一つ処にいるのが、また、実に愉快でかつ嬉しくて仕方がなかった。
それから、久春古丹から、函舘丸という巨船に載せられて、無我無心のうちに生れ故郷の地を離れてしまい、北海道の宗谷という村へ送られた。
八百五十人の土人は三回四回程に船でもって運ばれて一行残らずここに初めて他郷の人となった。
(中略)
さて、それからは吾々はもはや今迄の様な土人ではなくなって、本当の皇民となったのであるから、黒田長官の計らいで、米から肴から各月、官から供給され、にわかに優遇された。
そして、まず一箇年ばかりそうして宗谷に暮らした。
――――――
次に、この樺太アイヌの担当であった役人の松本十郎から、河野常吉が聞き取った談話をまとめた記録も引用する。
「明治八年樺太久里留交換の約成り互に領土の授受あり。此時政府に於ては樺太土人を伴ふべからずと内訓せしも、長谷部・堀両判官は成るべく之を伴わんと欲し、土人中にも是非移住を望むものあり、因て八百四十一名伴来れり」
河野常吉「松本十郎翁談話」、『犀川会資料』(北海道出版企画センター、1982)p332
(『対雁の碑』のp61に引用されている。)
なお、引用文のカタカナはひらがなに直し、漢文の返り点は省略した。以下も同じ。
これだけ見ると、政府は最初樺太アイヌの移住を望まなかったが、現場の役人がそれを推進したということになる。
であるから、この段階では、政府もしくは役人側の意向もあり、アイヌ側にも移住を望む声があったということになる。
彼らにとって生まれ故郷を離れて異国である北海道に移り住むのは大決断だったのだろうが、北海道移住を望んだのには何らかの理由があったと思われる。
先に引用した山辺安之助の『あいぬ物語』にあるように、樺太南部に住むアイヌは、江戸時代以来、和人との関係が深く、ロシア人の支配下に入ることに対する恐怖があったのではないかという指摘がある。
江戸時代、北海道・樺太・千島では場所請負制のもと、各地で強制労働などの収奪が行われた。
ただし、もちろん全域がそうではなく、比較的自由にアイヌ自身による経済活動(自分稼)が認められていた地域もあるようで、両者の関係が必ずしも悪くなかった地域もあったようである。
何事もひとくくりに論じてしまうのは危険である。きちんと中身を個別に検証することが必要だと思う。
北海道への移住を希望した樺太アイヌたちの住んでいた地域については、和人との関係は比較的良好だったのかもしれない。
樺太アイヌの多くは、和人との、長年の漁業を通じてのつながりも多く、和人がいなくなり、ロシア人の支配下に入り、それまでの生活形態ががらっと変わることになる。それまでとまったく違う生活に突入することに不安を覚え、日本側からの働きかけもあり、全員ではないにせよ、相当数のアイヌが宗谷に移住することを選択したということではないかと資料を見る限り思われる。
2013-5-29 場所請負制についての記述を改訂