論理非論理綴り帳 怒髪天突き運動ただ今冬眠中

物言わぬは腹ふくるるわざなり。かたじけなく存じ候。上総介上総。只今、積年の「無題」を新ファイルへ整理中、追い付かずござ候。

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NHKのクローズアップ現代が、2007年11月26日(月)の放送で、2500回を迎える。
おめでとうございます。
国谷裕子さんが、長い間、キャスターを務め上げて来られた。15年以上にもなりますか。
本当にご苦労様です。

一体、そのうちの何本を見たかと言われると、困ってしまうが、当初はよく見ていた。
若く美しく、聡明な国谷さんに惹かれていたこともあったかもしれない。
その中で、一番印象的なのは「天安門広場空白の三時間」という番組だ。

1989年6月4日未明の天安門事件から「丸四年」と冒頭にあるから、1993年の制作である。
あの天安門広場で、4日未明の2時半から5時半の3時間に、何が起こったのかというテーマだった

亡命した柴玲(さいれい)は、泣きながら、「戒厳軍が学生たちを戦車で押し潰したのです」と言う。
ウアルカイシーは、「広場の中で少なくとも、千人以上、北京自然体では数万人が殺されたでしょう」と言う。
長安街での軍の射殺やひき殺しのイメージがあり、天安門広場でも軍の容赦ない掃討作戦が展開されたのではないかというのが、中国当局を除く、一般認識だった。

ところが、これを覆すテレビ局の映像と学生たちの命を救った台湾の著名人の証言とが合致して、真相が明らかになった。大スクープである。
そのテレビ局はスペインの国営テレビ、現地にいた記者はレストレポさんという。もう一人は、台湾の人気シンガーソングライター侯徳健さんだ。

6月4日午前2時半、軍は予想に反して西方の長安街から進入、学生市民と衝突して多くの犠牲者を出した。NHKは天安門広場の東側の北京飯店などに三台のカメラを据えていた。
2時半頃、軍は広場に到達、並み居るテレビ局のビデオカメラやフィルムを没収した上、広場から閉め出した。
あいにく、天安門広場の東側に立つ歴史博物館の大きな建物が遮る形で、広場の様子はわからなくなった。

ところが、西側報道陣の中で唯一、その広場で最後まで撮影したのが、スペイン国営テレビである。
幸運というか、偶然にもそうなったらしい。
レストレポ氏は、軍が動き出したという情報を耳にしたが、国内向けの定時のレポートがホテルであり、広場に行く時間が遅れてしまった。

カメラマンと助手との三人で、タクシーに乗り、天安門広場に向かったが、すでに大通りは衝突後で混乱して、進めない。
タクシーの運転手が機転を利かして、住宅街の細い路地を縫うように進んだところ、天安門広場の東南の場所にたどり着いた。
そこから、堂々と撮影を始めたが、戒厳軍は、すでにテレビ局を追い払った後で、スペインのテレビクルーは、許可を得て撮影をしているものと思いこんだらしい。
全く、ワンテンポの遅れが、貴重な映像を残すことになった。

この戒厳軍の広場到達の午前2時半から、広場平定宣言の5時半までの空白の3時間に何があったのか。
侯徳健氏は、台湾の人気歌手だが、当時は中国に亡命していた。                 友人の北京大学講師の劉さんらに誘われて、広場に来て、6月2日からハンストに入っていた。

「その時、広場はとても静かで、子供たちの泣き声が聞こえるだけでした。
私たちも怖かった。子供たちと女子学生たちが泣き出し、それを聞いて男子学生たちも泣き出しました」
「学生リーダーの柴玲さんたちを探し出しました。
誰であろうと、学生や市民の命を賭けに使ってはいけないし、また、その権利は無いと言うことを説得しました。」

「ウーアルカイシーさんは零時ごろ心臓発作を起こして、運ばれていきました。
私たちはどんなことがあっても、学生たちを安全に広場から脱出させようと決意したのです」

午前2時過ぎ、広場の人民英雄記念碑の下には、3000人の学生市民がいた。
侯徳健氏は彼らに平和的撤退を呼びかける。
そこへ、驚く知らせが来る。記念碑の上や学生たちのテントには、武器・銃が隠されているというのだ。
劉氏は、自ら銃を壊し、砕く。その映像が残っている。

誰が戒厳軍と交渉するのか。若い学生たちは恐怖で拒んでいる。
侯氏は言う「本当はハンストをするのも嫌でした。劉氏に誘われなければ、広場に行かなかったでしょう。
皆が私の顔を見るのです。私は兵士にも顔を知られていたし、乗りかかった船です。
私が行きましょうと言いました」

侯氏らは救急車で、戒厳軍指揮官のところに行き、撤退を申し入れた。
指揮官は本部にその旨を伝えに、去っていった。
軍の兵士の中に取り残された。

その時、午前4時3分(NHKの記録)に、天安門広場の照明が突然、一斉に消された。
「一生で一番怖い思いをしたのはこの時でした。何が起こったのかわかりませんでしたが、直感的に何らかの軍の行動、広場での鎮圧が始まってしまったのかと思いました。
脚の震えが止まらず、ここから早く離れようと、仲間に言いました」
                                              「幸いにも、指揮官が戒厳令本部から戻ってきました。
指揮官は、本部は撤退を了承する。発砲はしないと約束しました」

侯氏は、撤退させるために、学生たちのところに戻ったが、「彼らは撤退か、残るかと議論をしていました。
撤退の声は小さいが、人数は多い。残るという声は大きいが、人数が少ない。
マイクを取って、撤退の声が大きかったから、すぐに撤退しようと呼びかけました。」
それでも、広場で死をと叫び、動こうとしなかった学生たちが数百人はいた。

午前4時40分、一斉に再び広場の照明がついた。
後の資料によると、照明を消すのは軍の突入の準備、再照明は軍の
突入の合図だったという。

午前4時45分、人民大会堂に潜んでいた大勢の兵士たちが、姿を現す。
軍は人民大会堂に戒厳司令部を置き、学生たちの動きをつぶさに観察していたのだった。

最後まで止まる学生たちに、侯氏は必死に説得を続けた。
軍はじりじりと包囲網を狭め、人民英雄記念碑に迫りつつある。
スペインテレビのレストレポ記者は「学生たちの戦いは天安門広場で最後の瞬間を迎えました」とレポートする。 
映像はないが、説得する侯氏のマイクの声が捉えられていた。

「交渉をしたのは私だ。恨むなら私を恨むがいい。
 だが、全員無事でこの広場を離れてほしい。
 全員の撤退が終わるまで、私はここを動かない」

学生たちは撤退した。
午前5時半、夜が明け、軍は人民英雄記念碑を占領する。
柴玲もウアルカイシーも、現場にはいなかった。

レストレポ記者は語る「言われるような射殺や轢き殺されたという事実はありませんでした。
広場は、スピーカーの演説や装甲車の音で、とても寝ていられるような状態ではありませんでした」

侯氏「私も見ていません。
   もし、数百人が殺されたなら、私たちが気づかないはずがありません。
   もちろん、一人も殺されていないと断言する事は出来ません。
   見ていなかったからかもしれませんから。
   でも、言われているような、多数の人が殺されたという事実はありません」

学生たちは、肩を組み合い、♪インターナショナルを歌いながら引き上げていく。
「我々は、勝利する。必ず、この広場に戻ってくるぞ」
すれ違う軍の兵士たちを罵倒する。
「帰れ、権力の犬め!権力の犬め!」

夜通し、成り行きを見守っていた市民たちが、街頭に出て、拍手で学生たちを迎える。
靴の無い学生たちに、それぞれに自分たちの靴を与えている。
午前7時過ぎ、学生たちが大学に帰り着いたところで、スペイン国営放送の映像は終わっている。


                                                                                                                                          もし、あの時広場に、侯氏や劉氏がいなかったら、事態は大きく変わっていたろう。
若さに走る学生たちだけでは、とても対処出来なかっただろう。
学生のトップリーダーの二人は、敵前逃亡でいなくなっているのだ。
既に、学生たちの派の対立が大きくなり、いざこざが起こっていた。
無事に三千人の命を救った、侯氏の働きは大きい。

その後、この侯氏の扱いに窮した中国当局は、侯氏を台湾に追放した。
天安門広場での虐殺は無かったと発言したことが、民主化運動家たちの反発を買い、当局と取引をしたというレッテルを貼られてしまう。
それで侯氏は、すっかり発言しなくなっていた。

NHKは侯氏には、このスペイン国営テレビの映像の発見を知らせることなく、取材し、証言を求めた。
その結果は、侯氏の話と映像とが、驚くほど合致していた。

少なくとも最後の天安門広場に限って言えば、軍の虐殺はなかった。
長安街の事態とは、違っていた。

国谷さんは「民主化運動が、武力によって鎮圧されたたことは事実ですね」と
当時現場で取材していた加藤記者に、向けた。


(写真はクローズアップ現代「天安門広場空白の3時間」より)

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「天安門事件 中国」書庫の記事一覧

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結局スペインの記者が見ていないと言うだけで、真実かどうかは判らないままですよね。
こういう意見もあると言うだけで、それ以上でもそれ以下でもないと思いますが

2008/5/4(日) 午前 1:04 [ sslongbeach ] 返信する

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スペインのテレビクルーは、天安門広場に最後まで、踏みとどまっていました。そこで、テレビリポートをしています。台湾から亡命していた候氏も証言しています。少なくとも、最後に残った広場に残った学生市民への銃殺行為はなかった。候氏らの努力で平和的に撤退したということは真実だと思います。
テレビ番組をごらんになるとわかると思います。

2008/5/6(火) 午前 2:43 [ kaz**ano*ukeka*usa ] 返信する

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