先日、友人から運営に誘われていた私の住む街から離れた街の読書会の打ち合わせに参加した。
そもそも読書会なるものに参加したことはないし、個人の心理の投影である読書を「会」と言う形で他の人の共有できるのか疑問であったが、恩義のある友人の誘いだったので参加することにした。
一応読書会なるものをインターネットで調べると二つのタイプがあることを知った。
一つは主催者がある本を紹介するタイプ、もう一つは参加者がそれぞれ紹介するタイプ。
いづれも本の紹介であることに違いはなさそうだった。
友人たちの会はそれとは異なるタイプの会を目指しているという。
世話人が選んだ本について意見を交わし合う会らしい。
一度、会を開いたところ、ある事情から首尾よく行かなかったという。
正しくは当初の目論見から大きく外れ、読書会の程をなしていなかったらしい。
運営費を頂いたのにそれはない。
利益を得ることが目的でなくとも人様からお金をいただく以上、それに見合った内容でなければならない。
そのためには、提供する側が自信を持って勧めることができることが大前提と思う。
そこで世話人だけで読書会をしてみることにした。
翌々日私の提案した本で読書会を行なった。
世話人は私を含め三人。
テキストはこのブログで紹介したことのある坂村真民氏の「一遍上人語録捨て果てて」の12章を使った。
この本は世話人の一人である友人が指摘したように内容に「ゆらぎ」がない。またもう一人の世話人が指摘したように生き方の根元にあるものを問題にしている。
したがって、読者の側から様々な意見が出ることを期待できない。
しかし、それが狙いだった。
年齢、職業、これまでの経験、知的レベル等異なる人が集まって一つの本を巡って話をする場合、全く意見を言えない人もいるだろう、もしかしたら感想すら浮かばない人もいるだろう。その人を我々が体験する。
そこを起点にそういう人を巻き込みながら議論を発展させる。それが世話人の役割ではないかと思う。
いつしか話題は本から離れ、介護の話や街の将来について話し合うようになった。
思想、政治的信条を異にしても一致することができる。
違いを認識しながら一致点を見いだせることに不思議な充実感があった。
気が付けば2時間が経過していた。
病後の影響なのだろう1時間半頃から疲労を感じ、喉が渇いて仕方なかった。
翌日は朝から起き上がれなかった。
結局一日中伏せっていた。
打ち合わせの翌日もそうだった。
医師から3ヶ月経過を見ましょうと言われていたが、まだ本調子ではないかもしれない。
二人の世話人から目指すべき読書会の姿をつかむことができとても良い時間だったとメールが来た。早速次の読書会に使用する本の連絡があった。
私はこの読書会に参加することは新たな展望がひらけて面白いと思うが、体がついてゆかないし、遠い街まで高速を使って通うのは経済的にも負担が大きい。
残念ながら世話人になることはできないと連絡した。
どうやら友人も仕事が忙しく世話人を辞したようだ。
体が本調子に戻ったらこの会を元に食、衣、住など美のある生活に関わる組織を作るのも面白いと思うのだが。