著者は『オシムの言葉』をはじめとしてサッカーを題材にしたノンフィクションを手がけてきた。サッカーを描きながらも大半の作品に通底するのは、政治や組織に翻弄された個人がその矛盾に対峙する側面を切り取る姿勢だ。
大文字の歴史で語られることは少ないが、戦後サッカー史で在日朝鮮人のチームは「影の最強チーム」と称された。
例えば社会人などで結成された「在日朝鮮蹴球団」は1961年に結成され、1980年代まで日本のトップチームを相手に9割6分の勝率を残している。時代も舞台も違うが、レアルマドリードがリーガ・エスパニョーラで同チームとして、史上最高勝率を誇った15ー16シーズンでさえ8割5分である。
まぎれもなく日本に存在する「最強チーム」であったが、「影」であったのは、公式戦への出場を制限されていたからだ。トップチームだけでなく、そこに多くの選手を輩出した東京朝鮮中高級学校のサッカー部もながらく高校サッカー界の「ナンバーワン」と呼ばれた。
1954年に東京朝鮮中高級学校が都立朝鮮人学校だった当時、第33回全国高校サッカー選手権大会に創部間もないにも関わらず初出場。ベスト4に輝きながら、その後は民族教育への揺り戻しや、全国高体連の意向も働き、1996年まで公式戦に出場の道を閉ざされた。
本書では戦後に在日朝鮮人のサッカー界を支えた金明植に光をあてているが、金明植は高校1年で全国4強時のレギュラー。蹴球団でも後に活躍するが、彼が日本サッカー界の裏面に名を刻むのは指導者としての功績が大きい。
東京朝高は影の日本一と言われながらも、当時、日本蹴球教会技術委員で後の日本サッカー協会会長になる岡野俊一郎は「練習試合だから」、「個人技頼み」、「戦術的、技術的には古い」と酷評している。実際、当時のメンバーも振り返り、岡野の指摘を「その通り」と認めている。「パチンコ屋か、金貸しか、焼き肉屋かヤクザかしか道がなかった」と将来に光を見いだせない彼らにしてみれば、サッカーでの練習試合とはいえ「ハレ」の場であり、背負うものが日本の高校生徒とは違うのは想像に難くない。
逆境を原動力にして無敵を誇った東京朝高は1971年に金が監督に就任すると高校サッカー界に革命を起こす。ただ強いだけのチームではなくなったのだ。金は当時としては先進的だったサイドチェンジなど「戦術」を導入。個人が力任せに蹴っていただけのステージから一段上がり、東京朝高は黄金期を迎える。帝京、習志野、静岡学園など全国屈指の強豪校が対戦を熱望し、練習試合に出向く姿は「朝高詣」と呼ばれるまでになった。朝高から何点とれるかが全国大会でどこまで勝ち上がれるかの指標であった時代があったのだ。
とはいえ、金のサッカー人生が順風だったわけではない。サッカーをしたいだけの彼だったが政治的思想の欠如を指摘され、結果的に現役引退に追い込まれた。指導者としても誰もがその力を認めながらも、言動が問題視され、監督を更迭されたとまことしやかに囁かれている。
サッカーは戦術が高度化しながらも、結局は自己の力と判断力で状況を切り拓く競技だ。個性が求められる一方、サッカーと政治が結びついているような国や時代なら、強い個性は組織にとっては時に障害になる。
本書は、帝京を長らく率いた古沼貞雄など高校サッカーの名監督への取材も豊富だ。高校サッカーの創生期の歴史として面白い一冊だが、複雑な国際情勢下で選手やチームが国家とどのような関係にあったのかも読ませる構成だ。華々しいサッカーの世界が内包する民族や文化の混沌を照らし出している。
現役サッカー選手の自伝ではピカイチに面白い一冊。ならずものを自認する彼だが、「朝はパンツ一丁でコーンフレークを食べるのが俺流だ」とのこと。ワールドクラスのならず者はコーンフレークの食べ方までこだわりが。
サッカー界のレジェンド「カズ」の父親である納谷宣雄の評伝。スターへの階段を駆け上がったカズを語る上でタブー視されてきたことも納得の生き様。覚醒剤を密輸して逮捕されたり、殺し屋と交際したり、任侠映画もびっくりの半生。
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