煙の街

1
分煙にも程があるというか、遂には喫煙者は、
別の世界に飛ばされるくらいの
酷い扱いを受けるようになった頃の話。

喫煙室でもくもく煙草を吸う鼻つまみ者の彼らは、
ときどき、こっそり、集団失踪させられていた。

もちろん今はそういうことは行われていない。
安心して欲しい。今からするのは、少し昔の話だ。

2
たとえば当時二十六歳だった
チェーンスモーカーの彼は、
その夜、駅のホームの喫煙室で、
ショートホープを吸っていた。

無暗に大声で笑う大学生三人を、
舌打ちで追い払ったところだった。

半分は八つ当たりだったのだが、
この行為は結果として、彼らを助けることになる。

3
電車のブレーキ音が聞こえて、
男が煙草を消そうとしたとき、
ふいに全ての音が消えた。

男が顔を上げると、喫煙室の外は真っ暗だった。
それどころか、季節外れの雪が降っていた。
そこはもう駅ではなく、どこかの丘だった。

煙草を吸い終えた男は、「さて」と言い、
ドアを開けて外に出て、室内よりも濃い煙に包まれた。

降っているのが雪ではなく灰だと気付くのは、
しばらく後のことだ。

4
こんなことなら、あの大学生たちを放置して、
巻き添えにすればよかった、と男は思った。

降っている灰が多すぎて、
頼りとなる街の灯りはうっすらとしか見えなかったが、
とにかく男はその方向へ歩いて行った。

5
そこは煙の街、星の見えない世界の灰皿。
街の人間の気取った言い方を借りれば、そうなる。

正確に言うと、降っているのは灰ですらないのだが、
他にどう呼べばいいか分からないので、皆そう呼んでいる。

6
遮光力の高い灰のせいで、街は常に薄暗い。
そのため、一日中ガス灯が道を照らしている。

灰煙を吸わないよう、人々は外出時にはマスクをする。
また灰をかぶらないように帽子をかぶっており、
少し短めに切られた彼らの髪は、
毛先に行くほど灰色が染みついている。

7
この灰色は染みつくのだ。

だから、空だけでなく、木も、花も、
鳥も、灰色に染まっている。
それらを見続けているうちに、
目まで灰色になってくる。

世界中の喫煙者が集うここでは、
共通語が必要とされ、住人の手で、
あまり便利とは言えない言葉がつくられた。

8
灰を吸っていれば大抵の欲求は満たされる。
時が止まったように、空腹も無くなるのだ。

しかし逆に、灰を吸い込むことで寿命は早まる。
街に来た人間がまず教えられるのはそのことだ。

街で10年以上生きた人はおらず、
だから大抵の人は、滅多に外に出ず、
家にこもって、適量の灰を吸いながら、
家族と楽器を弾いたりチェスをしたりして、
自分が死ぬのを待っている。

9
街に来てから三年が経っても、
男は家族を作ろうとしなかった。
天気の比較的良い日は外に出て、無闇に歩き回った。

そんな彼を、街の人間は変人扱いした。
なぜあの男は、わざわざ死にに行くような真似をするんだ?
なぜ家族をつくらないんだ?

男は誰よりも灰化が進行していて、
肌は青白く、赤味がほとんどなかった。
男はそれを自慢に思っていた。

10
前の世界に戻りたい、とは思わなかった。
やっていることはほとんど変わらない。
ただ、楽で単純になっただけだ。

来る日も来る日も男は積極的に寿命を削った。
ある日男は、少女につまづいて転んだ。

11
少女の灰化は、かなり酷いものだった。
背中まである長い髪が、綺麗な灰色に染まっていた。

短期間に多くの灰を吸い過ぎたのだろう、
呼吸困難になり、喉をおさえて倒れていた。
目を閉じて冷や汗をかき、苦しそうにしている。

男が真っ先に感じたのは、同情や心配ではなく、
自分より灰化が進行しているこの少女が気に入らない、
という、嫉妬に近い感情だった。

12
男は少女の顔にかかった髪を払うと、
唇を重ねて、ゆっくり灰を吸い出した。
灰は、吸った分だけ男の肺に残留する。

二人の灰色が同じくらいになると、
男は唇を離し、大きく咳き込んだ。

少女は目を開き、何回か瞬きをした後、
起き上がって姿勢を直し、頭を振って灰を払い、
激しく咳き込む男に駆け寄り、背中をさすった。

13
男は少女を受けて入れてくれる家を探した。
川の傍の家族のもとに少女は預けられたが、
翌日、男が外をうろついていると、
橋の下で寝ている少女の姿を見つけた。

男は少女を叱りつけたが、言葉が通じず、
少女はへらへら笑って男を見ていた。
灰の恐ろしさについて理解できていないらしい。

預け先の家に連れて行き、事情をたずねると、
少女が勝手に出て行ったらしかった。

14
翌日も同様の出来事があり、
さらに数日後、男は再び少女に躓いて転んだ。

灰を吸い出して咳き込む男の背中をさすりつつ、
少女はちょっと嬉しそうな顔をしていた。

結局、少女は男と一緒に暮らすことになる。
十二歳くらいのヨーロッパ生まれの少女と、
三十路手前のアジア生まれの男。

15
後に、少女は覚え立ての言葉で、
「あなたが毎日外を歩いてたのって、
 私を心配してくれてたんでしょう?」ときく。

男は否定しなかった。

また、男が自身の寿命を削って
少女の灰を吸い出していたと知ったとき、
少女はしばらく、びっくりするほど大人しくなった。

16
こうやって、ついに彼にも家族が出来た。

男がまず始めたのは、椅子をつくる作業だった。
彼の家には机と椅子とベッドが一つずつしかなかった。
ベッドや机は良いとして、椅子は流石に共用できない。

背もたれが出来るように丸太をカットするだけの作業だが、
まともな道具がないこの街では大変な作業で、
少女にも手伝ってもらい、二日かかって椅子は完成した。

17
座り心地も良く、出来栄えに男が満足していると、
少女はその椅子を男の方へ持って行き、
古びた方の椅子を自分の方へ持って行こうとした。

男がそれを元に戻すと、少女もそれをまた入れ替え、
新しい椅子の押し付け合いのような形になった。
結局、その椅子は少女のものになった。

18
男が、街の唯一の文化施設である図書館に
少女を連れていくと、言葉が分からない少女は、
立ち入り禁止区域に侵入しようとした。

慌てて引きとめようとする男を少女は面白がり、
二人で図書館内を走り回り、職員に注意された。
否定を意味する言葉の大半は、このとき覚えたと少女は言う。

19
段々と言葉を覚えてきた少女を連れて、
ときおり、男は暇潰しに、喫煙室を見に行った。

新たに連れてこられた人たちを見つけると、
彼らはマスクを彼らに渡して着けるように指示し、
この街に降る灰がどのようなものかを説明した。

ついでに「豚の糞を喉に詰まらせてくたばりやがれ」
という意味の言葉を「ありがとう」を意味する言葉として教えた。

去っていく男と少女に、彼らはその言葉を連呼した。
街に入ってからも、しばらく彼らはその言葉を使っていた。

20
少女を連れて歩く男を、街の人間は面白がり、
「どんな心境の変化だい?」などときいてきた。

男は、そういう問いは大抵無視した。
少女は会話が聞き取れなかったので、男にきいた。
「あの人たちはなんて言ってたんですか?」
「お似合いの二人だって褒めてたんだよ」
「ですよね」と少女は頷いた。「私もそう思います」

21
言葉を覚えてから、しばらくして、少女は言った。
「灰が体に悪いってことは、一応、最初から知ってたんです」

「じゃあなぜわざわざ外に出ていた?」
男がききかえすと、少女は「んー」と考えてから、
「積極的に、生きていたいとは思わないんです。
 死にたいって思うほどでもないんですけど」と言った。

22
男は、頭の中で同意しつつ、口では否定した。

「そんなすぐに死ぬのも勿体ないだろう?
 ある日突然、良いことが起きるかもしれないし……」

少女はきいた。「あなた、いくつですか?」

「二十八。いや、もう二十九だな」と男は指折り答えた。

23
「で、起きたんですか? 良いこととやらは」

「起きたよ」男は躊躇せず答えた。

「なんですか?」

「お前が来た」

少女はしばらく黙っていた。
男と目が合うと、すぐに逸らして、
何度も一人で頷いて、最後にちらっと笑った。

「私も、今、良いこと起きました」

「へえ」男は言った。「聞かせてくれるか?」

「あげませんー」

24
またある日は、少女はこうたずねた。
「どうしてこれまで一人で暮らしてたんですか?
 他の人は皆、集団で暮らしてるのに」

「良い質問だ。胸の内に閉まっときな」
男は枕元の灯りを消して、少女の頭をぽんぽん叩いた。

「もしかして、孤独癖とか、無頼漢とかなんですか?」

「難しい言葉を覚えたな。だがそんな格好良いもんじゃない」

25
男はしばらく考えてからこう言った。
「こういうのは“鼻つまみ者”っていうんだ」

「なんですか、鼻つまみ者って?」

「そのうち分かる」

「そうですか」と言って少女は男の頭をぽんぽん叩く。

26
しばらくして、不意に少女が口を開く。

「私、“鼻つまみ者“が好きですよ」

「それは間違った使い方だ」

「あってます」

「嫌われてる人を、鼻つまみ者って呼ぶんだ」

「じゃあ、あなたは、鼻ひらき者ですね」

「なんだそりゃ」男が笑う。あ、笑った、と少女が喜ぶ。

27
その日は少女と男が出会って、ちょうど一年目だった。
男が外出から帰ると、少女がベッドに座って俯いていた。
「どうした、また誰かに叱られたのか?」
男が言うと、少女は首を振る。

「さっき、人がきました」

「人か。どんな人だ?」

「黒髪の人です」

「ってことは、新入りか?」

「私、元の世界に帰されるらしいんです」

男はコーヒーを淹れる手を止めて、
ついに来たか、と溜息をつく。
何かおかしいとは思ってたんだよ。

28
「その人が言うには、私は本来、
 ここにいるべきじゃないらしいんです。
 間違って連れてこられたんだとか」

「まあ、お前しか子供がいないってのは、
 考えてみれば変な話だよな」
男は少女と目を合わせずに言う。

「元の世界に、戻されるらしいです。
 今日が終わったら、もう私はいなくなります」

「そうか」男は一拍置いて言う、「良かったな」

少女は頷きかけたが、思い直して首を振った。

29
「私、あっちに戻っても、良いことなんて
 ひとつもないんです。ここにいたかったなあ」

「じゃあここに残ればいい。簡単な話だ」

男がそう言うと、少女は微笑む。

「そうですね。残りましょう」

そう言って、男の背中に抱き着く。

30
男の背中に顔を埋めたまま、少女は言う。
「短い間だったけど、ありがとうございます」

「ああ。これからもよろしく」と男は答える。

「まったくもう」と少女が呆れた顔で言う。

「さて、今日は何の日だと思う?」

「お別れの日です」

「違う。俺とお前が出会って、一周年の日だ。
 記念日だ。ワインも用意してある」

「私、未成年ですよ?」

「見りゃ分かる」

「まったくもう」

31
「運命の相手に巡り合えたことに、乾杯」

「否定しませんよ」

「ずいぶん喋るのも上手くなったよな」

「喋りたいって思えば、上達も早いんです」

「そうだな。俺も、ずいぶん語彙が増えたよ」

「豚の糞を喉に詰まらせてくたばりやがれ」

「いえいえ、こちらこそ」

32
「もう一年前になるんですか。初めて出会ったのは」

「ああ。まだ俺が二十代だったころだ」

「あなたが見つけてくれてなかったら、私、今頃灰燼に帰してましたね」

「言葉通りな」

「灰を吸い出してくれたのは助かったんですけど、
 無意識のうちにファーストキスを済まされたのは悔しいです」

「ああいうのはキスと言わない。子供の頃に遊びでするのと一緒だ」

「赤ん坊の頃から、遊びでキスしたことなんて一度もありませんよ」

「お堅いんだな」

「ええ。死守してきたんです」

「そうか。悪いことをしたな」

「まったくもう」少女は嬉しそうに椅子を揺らす。

33
「さて」男は言う、「ここで自己紹介と行こう」。

「そうですね」少女はうなずく、
「お互いのことをよく知るのは、
 付き合っていく上で大事なことですから」。

それから二人は自己紹介を始めた。

34
互いの素上について話しているうちに、
時間は驚くほど早く過ぎていく。
なぜか? 書く側の体力が尽きてきたからだ。

少女が窓の外の時計台を見て、
書き手にとって都合の良いことを言う。
「残り、十分を切りましたね」

「らしいな」

「何か、最後に、言っておくことあります?」

「これからもよろしく」

「もう、そろそろそんなこと言ってる場合じゃないですよ。
 いなくなる私に、なにか優しい言葉をかけてくださいよ」

「お前のファーストキスの相手が俺でよかったよ、みたいな?」

「”みたいな”はいりません」

35
男は小さく溜息をつくと、ぼそっと言う。

「あんまり褒められたことじゃないけど、
 俺はお前のことが好きだったよ。
 何言ってるんだって思われるかもしれないが、
 結婚するならお前みたいなやつが良かった」

「あんまり褒められたことじゃないですね」

「だろう? だから言わないでいたんだが」

「いえ、でも、最後に言ってもらえて良かったです。
 ていうか、それがききたかったんです」

「そっか。俺もこれが言いたかったんだよ」

36
どちらともなく差し出した手を繋ぎ、
二人は最後の十分間を過ごした。

最後に別れの言葉を言おうとして
開かれた男の口は、少女の唇で塞がれる。
かつて男が少女にやった方法で、
男の肺に溜まった灰が、吸い出されていく。

全てを吸い出し終えたところで、少女は口をはなし、
「さよなら。幸せでした」と言って、
男の返事をきく間もなく、姿を消した。

37
時計台が十二時を告げる鐘を鳴らす。
男は呆然とそれを眺めていた。

不意を突かれて、抱きしめ返す暇さえ与えられなかった。
最後の最後に、してやられたな、と男は思う。

男は立ち上がって、綺麗な方の椅子に座り、
異様に長く感じる鐘の音に、耳を澄ましていた。


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