2012年07月07日

同化の過程

すでに書いたように、政府がアイヌの文化や言語を禁止または抑圧したことは事実であるが、それがすべての原因ではない。

アイヌ自身が外来文化を積極的に取り入れてきたことも部分的に事実である。

例えば、明治時代の写真を見ると、もうすでにアイヌたちが和服を着て生活している様子が写っている。
http://www.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0B029780000000002
日本政府がアイヌの民族衣装を禁止したとか、和服の着用を強制したとかそういう記録はないはずだ。


また、洋服を着ている写真も明治以降数多くある。
http://www.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0B025620000000000
(これは説明にあるように東京にあった開拓使仮学校に来ていた人たち。アイヌの民族衣装を着ている人もいれば洋服を着た人もいるし、和服の人もいる。)

特に千島アイヌがロシア風の服を着ている様子なども写真に残っている。
http://www.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0B026360000000000

和人も伝統服である和服をだんだん着なくなって洋服を着るようになったのだから、アイヌが民族衣装をだんだん着なくなり、和服や洋服を着るようになったのも大きな違いはないと考えていいはずだ。
これを同化と言うなら同化だが、そうならば和人も同化したと言うべきだろう。


ただ、アイヌが自分たちの固有の言語や文化を手放さざるを得なかったのは、やはり政府の政策や、長年の迫害・差別が大きいだろう。


ひところ(1960-70年代)、アイヌを「アイヌ系日本人」と位置づけ、「同じ日本人なのにどうして差別するのか」「もうアイヌの人たちは昔ながらの生活をしているわけじゃない。もう日本人と同じなのにどうして差別するのか」という形でアイヌ差別に反対する人たちがいた。

このような考えは、善意に基づいているのだろうが、これは裏を返すと、同じ日本人なら差別してはならないが、言葉や風習が違う異民族は差別されるのもいたし方ないという発想になりかねない。
アイヌが昔のままの生活をしていたならば差別されても致し方ないということになるのだろうか。


同じになれば差別されない。こういう発想は日本において根深くある。
アイヌ自身もそう思わされて、早く同化して「日本人」になりたいという思いで、自分たちの風習や言葉を捨て、和人になろうと努力してきた。

当事者アイヌ自身からも「もう俺たちは昔の先祖のような生活をしているわけではない。しかしどうして我々を差別するのか」という形で和人によるアイヌ差別を批判・抗議する人たちもいた。


だからわざわざすべてを徹底的に禁止しなくても、アイヌの風習や言葉が次々と衰退していったのである。
また、禁止令(あくまで通達であって法律ではない)があったとはいえ、罰則が明記されてないので、規制し切れなかったという面もある。


すでに述べた入れ墨については、警察の取締りがあったので、警察の監視の目をくぐってやったとか、警察がうるさいのでやらなかったというような証言があり、実際問題、警察などの公権力からの干渉があったことは明らかである。
(瀬川清子『アイヌの婚姻』(未来社、1972)などを参照。)

ただ実際に入れ墨をした人が逮捕されたとか、そういう事例は聞かない。
しかし、アイヌ文化がさまざまな面で権力によって禁止・制限されたことは事実である。


入れ墨の文化は和人においてもあったが、必ずしも一般的なものではないし、特に近代以降は、法的に制限されたこともあり、ヤクザや花柳界など、限られた分野の人だけのものになりかかった。
また、顔面への入れ墨は和人において一般的ではない。


シヌイェは、和人にとって、かなり異質なものであったため、侮蔑の対象になったし、アイヌの「象徴」だった、象徴にされていたと言うことができるかもしれない。

例えば、一昔、手話で「北海道」もしくは「アイヌ」を表す動作は、親指と人差し指で口の周りをなぞるものであった。
http://www.tgs.co.jp/signlist/lesson49.htm
http://www3.ocn.ne.jp/~oneyes/movin/zenkokuMap/zHokkaido.html

これはアイヌの女性のシヌイェを表している。北海道=アイヌ=入れ墨、というイメージである。

アイヌのシヌイェは民族独自の信仰に基づいたもので、禁止令が出てもある時期まではなかなかやめようとしなかった。警察などからの干渉があったにもかかわらず、それをかいくぐってでも娘に入れ墨を施す人がいた。
しかし、ある時期から、次第に行われなくなった。


とある知人は、幼少時、口に入れ墨をしたおばあさんと暮らしていたが、その祖母は、出かける時、つねに口の辺りを服の袖で隠すようにしていたという。
(マスクをして隠して外出する人がいたという話も伝わっている。)
それは入れ墨を見られると自分が好奇の目を浴びせられるのを避けるためだろうし、それだけでなく、孫が入れ墨をした祖母と歩いていて、その孫も好奇の目を浴びせられて嫌な思いをすることを避けようという思いでやったことなのだろう。


なお、琉球(沖縄・奄美)でも、女性が手に入れ墨を施す文化(ハジチ)があったが、こちらも明治になって禁止令が出され、次第に行われなくなった。
(こちらも信仰上の理由があったということで、アイヌとの共通性が高いようである。)


私の住んでいる様似町でも、昔、入れ墨をしたおばあさんが外に出ないように家族が家に閉じ込めていたなどという話を聞いている。伝聞なので実際のところは分からない。
そのようなことはあるべきではないが、その家族としては、自分たちの身内に、入れ墨をした、明らかにアイヌである者がいることを知られたくない、見られたくないという思いで、そのようなことをしてしまったのだろう。
また、実際問題、入れ墨をした媼が、町に行けば、入れ墨をしている自分を見て、みんなが恐ろしがる、と研究者に語った言葉が記録されている。この嫗は和人との接触を好まず、日本語も話さなかったという話が伝わっている。

それは、本当なら民族固有の風習である入れ墨の風習を恥ずかしいものとして感じざるを得ない社会が作られてしまったからである。


アイヌが固有の文化や言語を失っていった過程には、本当に厳しい、差別の状況があったのだろうと思う。
差別がなければ無理してまで自分たちの言葉や文化を放棄する必要はなかったはずだ。これは断言できる。
小林よしのりの言うように、単なる「時代」のせいで片付く問題ではない。


先立って引用した知里真志保による『アイヌ民譚集』の後記では、知里真志保は自分の故郷の幌別村(現在の登別市)が、他村に先んじて「同化」したことを喜ぶと述べている。
http://poronup.seesaa.net/article/278632374.html

小林よしのりはこれを引用して、アイヌが自分から望んで同化を望んだのだと主張している。
しかし、知里真志保が「暗い陰に包まれてゐる古い伝統を忘れ去つて,一日も早く新しい文化に同化してしまふことが,今ではアイヌの生くべき唯一の道なのであるから」書いていることを忘れてはいけない。

この後記では、知里真志保が体験した被差別体験や、心を痛めた偏見の実例について綴られている。
彼は、和人への同化がアイヌにとって「生くべき唯一の道」とさらりと書いているが、それ以外の選択肢が当時のアイヌになかったのである。
こういう根強い差別・偏見があったからこそ、生きていくために、アイヌは「同化」への道を進まなくてはならなかったのである。

この文章全体を読むと、アイヌが喜び勇んで自分たちの言語や文化を捨て去ったという見解にはならないはずである。
読んでない人は、ぜひ、全文を読んでほしい。

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posted by poronup at 10:28| 北海道 ☔| Comment(0) | アイヌ文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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