2012年07月07日

アイヌ語の衰退

アイヌ語については、日本政府が「禁止」したといろいろな人が言ったり、出版物に書いていたりするが、実際問題、アイヌ語の使用を法令などで禁止したという事実はない。
この点は異論があるかもしれないが、先に書いた入れ墨や耳輪などの風習ははっきり禁止令が出たという事実があるものの、アイヌ語については、通達・法令などで禁止されたという事実はない。
(逆に、はっきりした「禁止」の事例があるならば、情報がほしい。)

開拓使の通達では、日本語を「奨励」しているが、これは事実上強制と言っていいだろう。実際義務教育では日本語の学習が強制されたのは紛れもない事実である。

とはいえ、先に書いたように学校教育の場ではまずアイヌ語は禁止であった。そして日本語が徹底的に叩き込まれた。

もちろん、仕事の場や役場での手続きなど、公的生活ではまずアイヌ語を使うことはできない。
なので和人が多数派になった社会で、アイヌは生きていくために日本語を覚えなければならなかった。

また、日本語が不得意でアイヌ語なまりの日本語を話すアイヌたちは、そのことを馬鹿にされたり、差別されたりした事例がいくつもある。

そして、和人による差別・迫害の中で、アイヌ自身がアイヌ語を家庭で使うことを断念し、子供を日本語で育てていくことを選択していった。
「お前たちはアイヌ語など覚えなくていい」「日本語ができないと和人に馬鹿にされるからアイヌ語は覚えなくていい」と親や周りの大人たちに言われながら育った人がたくさんいる。


千葉大学の中川裕(ひろし)教授の『アイヌ語をフィールドワークする』(大修館、1995)などを読むと、アイヌ語がアイヌ社会で次第に使われなくなった経緯について、古老たちの証言を紹介しながら説明している(p50-55あたり)。


ということで、アイヌ語を法令などで「禁止」した事実はない。
しかし学校教育の場などでは禁止であり、さまざまな形でアイヌ語に対して抑圧があったことは否定できない。

また、日常的に、和人によって行われた過酷な差別がアイヌ自身がアイヌ語の存続を断念させたのである。

家などでアイヌ語を話して逮捕されたという、はっきり資料で確認できる具体的な事例はどうもないようである。
(ただし、http://www.chikyukotobamura.org/forum/salon100123s.htmlなどでは、曽祖父がアイヌ語を話して牢屋に入れられたというような話が紹介されており、事実関係の確認が必要である。)

ただ、アイヌ語を話していると、町の有力者や教育者、警察などから注意されたとか、そういうことはあったかもしれない。


かつてのアイヌの生活では、アイヌはアイヌ語で語り合い、アイヌ語でケンカし、アイヌ語で笑い、アイヌ語で怒り、アイヌ語で泣き、アイヌ語で愛を語り、すべてをアイヌ語の中で表現していた。
しかし、わざわざ「禁止」しなくても、アイヌ語は数世代のうちに衰退し、今では日常的に話す人はほとんどおらず、「危機言語」と呼ばれるようになったわけである。

そういう意味で1日も早くアイヌを同化させ日本人化したいという日本政府のもくろみは「成功」しかけてしまったということになる。
しかし、特に1980年代以降の、アイヌ語教室をはじめとする、アイヌ自身が中心になったアイヌ語復興・学習運動の結果、アイヌ語の学習者が増え、弁論大会なども毎年開催されている。
また、アイヌ語を新たに学び流暢に話すことのできるだ若い世代が少しずつ現れつつある。

posted by poronup at 09:38| 北海道 ☔| Comment(2) | アイヌ語 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
明治政府は基本的に徹底的な現実主義で動いていますね。

目的は文化根絶などではないので、アイヌ語禁止はあり得ません。その他方言の禁止が無いのと同じです。

日本語の推奨は当時の各地方にも行われていますし、意思疎通を図り、情報の伝達を円滑にするためでしょう。
恐らく移民が多かったことも、共通日本語を推奨する理由ではないでしょうか。

また日本語を話せない事によって馬鹿にされたというのは、北海道の日本人が各地の方言から標準日本語に強制された人たちだった影響もあるのではないでしょうか。

悪意を邪推する前に、当時の状況を思い浮かべてみるの方が大事ですよね。
Posted by 坂東蝦夷 at 2014年08月19日 23:00
こんにちは。コメントありがとうございます。

さて、私は「悪意」があったとかなかったとかは書いておりません。
どのようにしてアイヌ語が「衰退」していったのかを事実に即して書いただけです。

もしかしたら、とある役人は日本語が不自由なアイヌを気の毒に思って、彼らに一生懸命日本語を教えたのかもしれません。
仮にそれが善意に基づいていたとしても、アイヌ語という民族の言葉を衰退に追い詰めたことには変わりません。アイヌにとってみれば迷惑だったかもしれません。
「善意」が余計なお世話だったり、相手によっては支配だったり侵略だったりすることはよくあることです。

アイヌ語の「禁止」は学校教育などであったのは事実ですし、禁止でなくても少なくとも圧迫を受けたのは確かなことです。

「日本語の推奨」が、日本のほかの地方で行われたとしても、それは別問題であり、アイヌ語を抑圧した歴史を正当化できる理由にはならないと思います。

「意思疎通」うんぬんというのは多数派の勝手な理屈ではないでしょうか。

たとえば、この日本に、韓国人でもいいし、ロシア人でもいいし、どこかの異民族がどんどん移住してついには多数派になったとしましょう。
仮に、もしもの話ですが、この日本で韓国人の人口がどんどん増え、この日本の多数派になったとして、日本人に「お前たちが韓国語が苦手だと意思疎通が難しく、不便だ。お前らはできるだけ日本語を使うのをやめて、韓国語を覚えなさい」と韓国語の学習を推進もしくは強制したならば、あなたは日本人として(坂東蝦夷さんが「日本人」だとしたらですが)納得できるでしょうか。「まあ、俺たちは少数派になっちゃったから仕方ないか」と受け入れることができるでしょうか。
(この韓国語の例はあくまでたとえです。これがアメリカ(英)語でもでも中国語でもロシア語でも同じことです。)

自分の側の都合ではなく、相手の立場になって考えることが大事だと思います。
Posted by poronup at 2014年08月19日 23:43
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