うさるの厨二病な読書日記

生涯中二の着ぐるみが、本や漫画、ドラマなどについて好きも嫌いも全力で語ります。【ネタバレ前提です。注意してください】

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「生後数か月後の赤ちゃんを連れ回す親たちに想うことと、“ベイビーハラスメント”について」の記事がどう読めるのか、淡々と解説する。

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自分がこの記事をどう読んだか、どう解釈したかを話します。 

www.goodbyebluethursday.com

 

この記事は二段階構成になっています。

二つの別々の話が合わさっています。

 

前半部分(ベイビーハラスメントではない話)

まず前半は「生後数か月の赤ちゃんをそういった場所(国内旅行、海外旅行、レジャー施設、商業施設や観光スポット)に連れてきているファミリーを見かけたときに想う」こと、この条件で元記事筆者が思う感想について述べられています。前提や例外は、一切書かれていません。

「赤ちゃんがかわいそう」

「そんな幼い赤ちゃんを連れてくる意味があるのか」

一切の例外を設けず、「その欲望を抑えることってできないんですか?(それは親の欲望が全ての動機である。例外なし)」「赤ちゃんにとっては迷惑以外の何物でもない」と結論づけています。

 

次の段落でどうしても赤ちゃんを一人にしておけないから、という理由で、やむを得なく赤ちゃんを同行させている家庭もあると思います」つまり「やむえない理由もあるのかもしれない」家庭についてあげています。

しかし、そういう「やむえない理由がある家庭」ですら「来シーズンにできるのでは(今年は出かけるな)」と言っています。

「一切の例外なし」の補強をしています。

 

まとめると前半部分は

生後数か月の赤ちゃんをそういった場所(国内旅行、海外旅行、レジャー施設、商業施設や観光スポット)に連れてきているファミリー見かけたときに」「やむえない理由がある家庭も含めて一切の理由を認めず」「来シーズンにのばせ」「その動機については、すべて親の欲望としか思えない」から「その欲望を抑えることはできないのか」

ということを話しています。

 

次の章で「赤ちゃん側の視点からちょっと角度を変えて」と書いてあるので、今までは筆者が「一切の例外なく、すべての生後数か月の赤ちゃんの視点で代弁してくれた」ものです。どんな事情もどんな理由も例外はありません。

「色々事情がある方もいるのでしょうけれど」という緩衝材となる言葉すらありません。むしろ「そう多くはない」と否定しています。

「やむ得なく同行させている人」も「来シーズンに伸ばせないのか」と書いてあるので、「一切の例外なし」と解釈します。

 

前半の話については、これで終わりです。

「一切の例外なく、生後数か月(と筆者が判断する)赤ちゃんを、国内旅行、海外旅行、レジャー施設、商業施設や観光スポットに連れてきているファミリーは、親の欲望でそうしている。その欲望を来シーズンまで伸ばせ」こう言っています。

文章だけで解釈するとこうなります。

 

この後の「“ベイビーハラスメント”について」「ちょっと角度を変えて」と書いてあるので、幼い赤ちゃんがいる場合の周りへの影響」についての話に移ります。

視点も角度も変えて、別の話をしますよ、と言っています。

 

後半:本題の“ベイビーハラスメント”について

その「角度を変えた」後半の話に移ります。

表題が「“ベイビーハラスメント”について」なので、ここからいよいよ本題の“ベイビーハラスメント”の話になるようです。

ここからが表題に関連する“ベイビーハラスメント”について、元記事の筆者が本当に言いたいことのようです。

 

“ベイビーハラスメント”については、二つの定義が出てきますので、それぞれ見ていきます。

一つ目はこれです。

「デッキ内とか、少し音が遮断されるスペースがあるわけですよね。映画館だったら、スクリーンの外へ出ればいいわけです。そういうことをせずに、泣き喚く赤ちゃんを放ったらかしにして、周りに鳴き声をまき散らすのは、もはや「ベイビーハラスメント」と呼んでいいのではないでしょうか。」

これについて見ていきます。

これは少し分かりづらいです。

「泣き喚く赤ちゃんをあやしても泣き止まない場合」はハラスメントに当たるのでしょうか? これは分かりませんでした。

見ていると「あやしても泣き止まない赤ちゃん」がかなりいます。

 

この前段階で、「飛行機で寝れなかった友人の話」が出てきます。

飛行機だと、筆者が主張する電車や映画館のように場所のように移動することは難しいので、「放ったらかしにして」いるかどうかで、ハラスメントか否かの定義が変わるのかが聞きたいです。

「泣き止まなきゃハラスメントだ」と言うのならば、あやしても泣き止まない赤ちゃんはどうすればいいのか。

「赤ちゃんはあやせば泣き止むはずだ」と思っているのならば、それは赤ちゃんそれぞれではないか、状況にもよるのではないか、と思います。「(赤ちゃん連れの親に対して)赤ちゃんや他人のことを考えろ」と主張している人が、赤ちゃんはそれぞれ違うということを、想像していないとは思えません。赤ちゃん視点で、赤ちゃんの代弁をしているくらいなので。

「放ったらかしにしていなければ泣き止まなくてもOK」だと考えます。

特に条件が書かれていないので、「放ったらかしにしているか否か」は筆者の主観が決める、と解釈しました。

赤ちゃんが泣き喚く前から親は気を使っていると思いますが、それは筆者の観測範囲内に入っていなければ「放ったらかしにしている」と定義されると考えます。

 

次に二つ目の定義に移ります。

「これは私にとって、紛れもなくベイビーハラスメントです。鑑賞する場所、静かにする場所で、泣く可能性のある赤ちゃんを連れてくることがおかしい」

「鑑賞する場所、静かにする場所で、泣く可能性のある赤ちゃんを連れてくることがおかしい」

自分はこの文章だけならば、(“ベイビーハラスメント”という言葉は使わないが)賛成です。

ただこの「鑑賞する場所」「静かにする場所」の定義で争います。

それを決めるのは誰なのか?

施設側が「お子様連れはご遠慮します」と書いていない限りは、自分の主観で物事を判断するしかありません。

 

自分の主観は、明らかに子供向けではない舞台、クラシックなどのコンサート、映画などはちょっと……と思うけれど、「子どもの泣き声がNGではない」カフェであれば仕方ないと思います。

この「仕方がない」の主観的範囲を、自分の側から自分のできる範囲だけ広めようと考えることが「相手の立場を想像すること」「譲り合いではないか」と考えています。この記事に関連して、そういう意見を多く見ますが。

 

この後に続く文章が非常にミスリードされやすいように感じます。

筆者が以前に書いた「子供の泣き声がNGのカフェ」の記事の次に、自分が「つい先日」感じた例が書かれていますが、この「つい先日入ったカフェ」のほうは「泣き声NG」のカフェなのでしょうか?

サラッと読んでしまうと、「泣き声NGのカフェ」であったかのようにも読めます。

これはどちらだったのでしょうか? 「泣き声NGのカフェ」であれば、さすがにお店側が注意すると思いますが。

 

自分は「泣き声NGではないカフェ」と解釈しました。その解釈で話を進めます。

そこでは筆者は「譲り合い」の精神を発揮できなかったようです。(自分から席を立ったが、こうやって不満をブログに書いているので、行動の動機を相手に対する思いやりからではなく、自分の快を優先させたと解釈します。)

 

そして「(筆者が主観で判断する)鑑賞する場所、静かにする場所で、泣く可能性のある赤ちゃんを連れてくること」を言葉による緩衝材もなく、一切の例外もなく親の我慢できない欲望」と断じ、「それをどうして周りの大人たちが寛容さを持って許容しなければならないのでしょう」と言っています。

 

そのあとに「“ベイビーハラスメント”とは」とつなげているので、後半部分の主張は、

「“ベイビーハラスメント”とは子供が泣き喚いた場合、席を移動するか、泣き止ますか、泣き止まなくても筆者が定義した放ったらかしにしていない」状態を作ること、このいずれもできない状態」

「また「子供の泣き声がNGではない」カフェなども含む、施設側ではなく、筆者が定義した鑑賞する場所、静かにする場所で、泣く可能性のある赤ちゃんを連れてくること」

「これらの状態が起きた場合、一切の例外なく、全て親の我慢できない欲望に起因する“ベイビーハラスメント”である」と言っていると解釈しました。

 

前半部分と後半部分をつなげた自分の解釈

前半からすべての主張をつなげます。

前半:“ベイビーハラスメント”かどうかは不明。違うと解釈。

「赤ちゃん視点では、一切の例外なく、生後数か月(と筆者が判断する)赤ちゃんを、国内旅行、海外旅行、レジャー施設、商業施設や観光スポットに連れてきているファミリーは、親の欲望でそうしている。どんな事情があろうとも、それは親の欲望であり、来シーズンまで伸ばせるはずだ」

後半:“ベイビーハラスメント”について

「“ベイビーハラスメント”とは、子供が泣き喚いた場合、席を移動するか、泣き止ますか、筆者が定義した放ったらかしにしていない」状態を作ることであり、「子供の泣き声がNGではない」カフェなども含む、施設側ではなく、筆者が定義した鑑賞する場所、静かにする場所で、泣く可能性のある赤ちゃんを連れてくることであり、それは全て「親の我慢できない欲望」に起因するもの」

 

自分はこの記事をこう解釈しました。

とりあえず、自分はこの解釈しかしようがなかったので、この解釈に基づいて自分の意見を書きます。

 

以上の解釈に基づいた、自分個人の意見

自分の解釈をものすごく平たく言わせてもらえば、この記事は「赤の他人に対して、自分の利益を最大限優先しろ」と言っているようにしか思えませんでした。

何故なら、すべての定義が「筆者の主観に基づいており」しかも「一切の例外なく」断じられているからです。

「どんな理由があろうと、自分の定義に基づかないことをすれば、それはハラスメントだ」そう言っています。

 

自分は「赤ちゃんが泣くことにイラッとすること」「迷惑に思うこと」を批判はしません。何故なら自分もそう思うことがあるからです。

ただ「自分はこの瞬間だけ我慢すればいい」「放置しているように見えるけれど、今日は赤ちゃんの機嫌が悪くて、朝から大変だったのかもしれない」「お母さんも、何か月も家に閉じ込められっぱなしで、このカフェでようやく友達に会えたのかもしれない」「自分が知っている赤ちゃんは大人しかったけれど、この赤ちゃんは性格が違うのかもしれない」と色々と想像します。

そうやってその人の立場に立てるときは自分が我慢します。

 

我慢できないときもあります。そういう時は席を離れたりします。

でもその時の「我慢できない自分」ではない自分として考えたとき、「自分は赤ちゃんからすぐに離れられるけれど、お母さんはずっと一緒なんだろうな」とも考えます。

飛行機の中の出来事であれば、我慢できず、あとあと家族や友人などにはブツブツ文句を言ってしまうかもしれません。中には「他人のことなどまったく考えない親」というのも存在すると思います。世の中にはいろいろな人がいますから。

だからどこに譲れるラインを置くかで批判しているわけではありません。

これからも自分は「その時の自分が譲れる範囲」で譲り合いの精神を発揮したい、と思うだけです。

 

事情がまったく分からない赤の他人に対して、相手の事情を一切想像も考慮もせず、「自分の利益を最大限優先させろ。そうしなければお前は俺にハラスメントをしている」そう読めてしまう記事を、様々な事情を持つ不特定多数の人が読む場所に上げたことを批判しています。

この記事に関連しては「お互いの譲り合い」というコメントが多く見られました。

まさにその通りだと思います。

このテーマに限らず「相手の事情を一切考慮せず、自分の利益を優先させなければ、それがハラスメントだ」という主張を認めるわけにはいきません。

 

もう一度いいますが、譲れるラインは人によって違うので、そのラインがどこまでかということを批判しているわけではありません。

「親が赤ちゃんを放ったらかしにして泣き止ませられなかったり、静かな場所に赤ちゃんを連れていくことを、相手の事情は一切考慮せず、すべて自分の側の事情でハラスメントという強い言葉で定義し、その行動の動機は一切の例外なく親の欲望に基づく行為であると断じたこと」を批判します。

あくまでこれは自分の解釈ですが、どうしてそう思ったのか、どの言葉をどう解釈したのかも書いておきました。

 

そもそも「解釈の仕方云々以前に」なぜ、自分の側を「配慮しろ」という主張の記事を、相手の側の事情は一切考慮していない、一切の例外を認めないと読めてしまい、それを全て「親の欲望」と断じ、しかも「ハラスメント」などという強烈な言葉をつけておきながら、その言葉の定義に関する事柄すべてを自分の主観で決め、文章の解釈も分かれる状態で使うのか。

 

それが自分のこの記事に対して一番言いたいことです。

炎上狙いか否かはどちらでもいいです。言いたいことは変わらないので。

 

追記は、何が問題かわかりやすい。

もうひとつ「追記」についてです。

この追記では、元記事の何が批判されるているのかがよく出ていると思います。

「「子育てしてから言え!」という意見は、ちょっとどうかと思いますよ」

そしてその理由として、そういった子育ての経験のない人たちがどう感じているのかを、ちょっと考えてみたらいかがでしょうか」と言っています。

 

自分一人に言われた意見を、「子育ての経験のない人たち」に言ったと解釈を拡大しています。

自分も子育ての経験はありませんが、こういう意見は言われたことがありません。

色々な意見を言っていますが、

「子育てをしていない人は、物を言う権利さえない」

などと言われたことはありません。

 

「子育てしてから言え!」は「(こういう記事を書いたという条件を持つあなたは)子育てをしてから言え!」と言っているのだと思います。

「子育ての経験のない人たち」全体に言った、とする解釈は間違いです。

実際に自分は言われていません。

どこか公共の場で、「子育てしていない人すべてには、物を言う権利さえない」という主張があったのでしょうか?

 

自分個人が受けた意見であれば、属性全体に波及させるのはやめてください。

元記事に対する、書いた筆者への意見だと思いますので、「この記事を書いたという条件を持つ」筆者一人で受け止めてください。

「属性批判」も「属性波及」も同じくらい悪質です。

これは「属性波及」ハラスメントにあたるのでしょうか?

 

「確かに、自分が子を持ち、子育てを経験すれば、考え方や感じ方が変わるだろうという感触はあります」

ご自分の意見がこういうものならば、それぞれ違う他人である「赤ちゃん視点」に立つ前に、「考え方や感じ方の変わった自分自身」の視点に立ったほうがいいのでは、と思います。

そういうことができないのであれば、「自分が子供を持ったときの予防線か?」と解釈されても仕方ないと思います。

 

(文中青字引用元:「生後数ヶ月の赤ちゃんを連れ回す親たちに想うことと、“ベイビーハラスメント”について」-さようなら、憂鬱な木曜日より-.宮田レイシープ)

 

(追記 8月30日13時)

いま元記事を見たら「ベイビーハラスメントの定義」が追記されていたのでご紹介します。(この記事の執筆段階では確認できませんでした。)

ベイビーハラスメントとは、「自分の赤ちゃんが泣いたり喚いたりしているにも関わらず、周囲に気を遣う素振りさえせず、あやすこともなしに放置する行為」です。

とすると、飛行機に乗った友人は前の座席に座った赤ちゃんが「一切、あやされていないこと」が見えたのでしょうか?

「全然寝れなかった」ということは、かなり長い時間だと思います。

「泣き止まないこと」だけでは、ベイビーハラスメントは成立しないということはわかりました。

 

飛行機に乗った友人のケースは、

友人が全然眠れない原因となるくらい長い時間赤ちゃんが泣き止まず、その時間ずっと、前の座席に座っている親が一切なにも手立てをこうぜず、周りを気遣う素振りも見せないということを赤ちゃんが泣いている間中、友人が確認している。(前の座席なので見えるかどうか疑問ですが)

この条件でないとベイビーハラスメントは成立しないということでいいでしょうか?

 

立川談志の落語の席で急に泣き出した赤ちゃんも、親は立川談志に声をかけられるまで何もしなかったんですか?

赤ちゃんがすぐに泣き止んだのならば問題はないし、この後ずっと親は泣き続ける子供を放置して立川談志の落語を見続けたのでしょうか?

 

また「周囲に気を遣う素振りさえせず、あやすこともなしに放置する」という状態は、誰が何をもって判断するのでしょうか? ということは本文でも書きましたが。

それは「筆者の観測内でやらなければ」認められないのでしょうか?

この判断を自分の主観だけで断ずるのはいかがなものか、ということもこの記事の主旨のひとつです。 

自分個人が標的にされているわけではないことに対して、ハラスメントという強い非難の要素を含む言葉を使うならば、この辺りの条件設定は必須だと思います。

追記の内容の定義は本文から読み取れませんし、むしろ矛盾しているとさえ感じます。

ということを指摘しています。