はじめに
本稿の目的は酷評者の9割以上が理解していない『打ち上げ花火〜』の簡単なテーマ解説と分からなさを作品の所為にしてしまう行為とそれがたやすく共有される現状がいかに危機される状況であるか明らかにすることである。
物語の核心にも触れるので『打ち上げ花火〜』をすでに見た人向けの話になるが、全ての作品に対峙する上で心がけて欲しい事柄についての文でもあるので多くの人に読まれて欲しいと思う。
そもそも映画批評で心がけるべきポイントやテーマを見にいくものではないという話は伊藤計劃氏が簡潔にまとめているのでそちらを読んで頂きたい。
本稿は上記の焼き増しでしかないがその上でテーマを理解出来なかった(しようともしなかった)人がいかに本作に泥を塗っているかを『打ち上げ花火~』のテーマを踏まえて論じようと思う。
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』のテーマとは?
思春期のはじまりを扱った作品
本作は「子供から大人へ、複雑化する自身の感情や世界の大きさとはじめて対峙する物語」である。
…分かりづらいので本作に沿って言い換えると、
「好きな子の隣で打ち上げ花火を見たいと願うはじめての強い感情と世界の大きさに向き合う少年少女ひと夏(一夜)の成長」…あたりになると思う。
原作小説のタイトルは『少年たちは花火を横から見たかった』である。
(ちなみに僕好みの言葉で表すと「初期衝動と行動原理」)
ちっちゃな子どもにとって、別れは死別に近いほどつらく苦しいものだった。拾った子猫が死んだ時は涙が止まらなかった。なずなもぼくももっと幼い子どもだったら、転校なんて嫌だ嫌だと駄々をこね、おいおい泣いたことだろう。そんな感受性が次第に失われて大人というものになるのだとしたら、あの夏は、ちょうどそのはじまりの季節だったのかもしれない。
本作が思春期以前の話なら泣いて悲しむだけで終わった。
しかし彼らは着実に大人に近づいておりまだ不定格な自分の感情に折り合いをつけながら大人や世界に対抗しようとする。
思春期のはじまりの不定格さは安曇祐介によく現れていた。
個人差があるにせよこれくらいの年代の人格というのは関係性の中で役割的に発生するものであり強い人格、強い意志を持つ子供はほとんどいないだろう。
なずなと花火大会の約束をした祐介はなずなへの感情や友達との関係性をうまく処理出来ず約束をすっぽかすだけでなくあんなブス好きなわけないと誤魔化すので精一杯。しかし違う世界線の祐介はなずなとぬけがけした典道を見て本気でキレている。
そういった不定格さこそ中学一年生であるといえるのに、そういう感情を忘れてしまった人が祐介がチグハグ過ぎてムカつくと解釈を誤っている。
本作では不定格さを抱えながらもなずなと逃げる道を選び取った典道こそヒーローになりえた。
身長差が気になって仕方なかったという意見も見たが本作が思春期のはじまりを扱っていることはキービジュアルにも現れている。
身長差を強調した特徴的なキービジュアル
典道は海側 なずなは線路側 既に別れが示唆されている
(C)2017「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」製作委員会
成長期は一般的に女子の方が先に来る。
小学校高学年〜中学一年生くらいの時期は精神的にも体格的にも女子の方が成熟していて男子からするととても大人びて見える。そういうイメージを具現化させたのが及川なずなというキャラクターであり低身長で童顔の典道との対比が際立つ。
なずなの場合複雑な家庭事情により周囲より早く大人に向かわざるを得えなかったわけでそのミステリアスさに加え口紅を纏った姿はもはや神々しくさえあり、中学一年生の憧れの対象としてこの上ない魅力を放つ。
しかしそれほど大きな憧れに見えた及川なずなも母親の前では助けを求めるだけの無力な子供に過ぎない。
典道ははじめて世界の大きさを知る。
抗えなさと空想のちから
これから説明する「抗えなさ」という要素は「思春期の逃避行」に自動的に付随するものであるが酷評意見の多くが理解されてないので別けて説明する。
物語の展開によりなずなと典道の逃避行が始めるがお金、知識、法律、身体能力…
中学生は大人や社会システムから絶対に逃れられないし勝てない。
離婚や転校もそう…
なずなはどうすることも出来ないのを理解した上で、それでも抗いたいという強い意志を叶えるべく誰かに全てを賭けるしかなかった。
(ナズナの名前の由来の一つが、夏になると枯れること、つまり夏無)
この「抗えなさ」という物語上の仕掛けを理解していない人ほど次第に話についていけなくなったと思われる。
正直どこからどこまでが空想かなんて物語装置の問題はこの物語を読み解く上でさして必要ない。(というかタイムリープは全て空想だ!)
TVドラマ版『打ち上げ花火~』が放映された「if もしもシリーズ」も、もしもの世界を映し出すことが目的でもしも部分の仕掛けに関しては問題にしてなかったと思われる。
反時計回りの風力発電機…決してカップインしないゴルフボール…
「抗えなさ」が確定しているシチュエーションの中タイムリープを重ねるごとに空想の度合いが増していく。
TVドラマ版の監督であり原作小説の著者である岩井俊二はこの物語のモチーフが『銀河鉄道の夜』であると述べています。
銀河鉄道の夜こそ空想の世界で生きる目的を見出す物語ですよね。
「抗えなさ」が確定している世界だからこそそれでも抗おうとする少年少女唯一の対抗手段だった空想世界の煌めきが美しく、どうしようもなく悲しい。
夢の電車に乗り込んだ二人は夢を語り、愛を歌う。
ここにエモを見出さずに何を感じ取るというのか?
TVドラマ版では結局電車には乗り込まずただ二人遊んで未来の話をして帰って終わりなんですが、本作ではより空想度合いが突き抜けて銀河鉄道の夜あるいはシンデレラ的な表現になったわけです。それこそアニメでリメイクされた意義だったように思う。
曖昧な心を とかして繋いだ
この夜が続いて欲しかった
((打上花火/DAOKO×米津玄師
(作詞・作曲 米津玄師/Produced by 米津玄師)))
繰り返すがこの物語ははじめから成し遂げることは目的にしていない。
ただこの夜(空想)が続いて欲しかっただけ。
それでも前に進むこと、生きることを誓い合った。
少年少女は時計の針を戻さなくてはならない。
空想の出来事だったがその時抱いた感情はこれからの人生の原動力になるだろう…
(ちょっとポエム調)
そうして空想の世界から一歩踏み出し現実に戻った世界で二人の姿は提示されず、彼らがこれから何を選び取るかは観客に委ねられる。
同級生たちよりほんの少し大人に近づいたなずなと典道の一夏の物語。
『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』はそういう作品であった。
(最後の方は解説ではなく解釈になりました。各々で解釈してみてくださいね)
閑話休題テーマを語るな
ここまで『打ち上げ花火~』のテーマを語ってきたわけですが頼まれてもないのにこの映画のテーマはこれこれでここにエモを見出して~など説明するのは本来褒められた行為ではなく映画や多くの作品はそれぞれの解釈に委ねられるべきものであります。しかし『打ち上げ花火~』に関してはあまりにも何も持ち帰ることが出来なかった人が多くそのまま最低の映像体験として嘲笑の対象にされるくらいなら説明をつらつらと重ねて少しでも何か感じ取ってもらえることのほうが何万倍も意義があるということで書いているわけ。
分かろうとしなさが共有されることへの警鐘
そろそろ本稿の着地点に向かいましょう。
今この作品に対する酷評がネット上で晒され共有されている。
なぜそういう事態になったかというと酷評者のほとんどが作品テーマを理解出来なかった(しようとしなかった)からである。
テーマを理解出来なかったということは内面・背景を理解出来なかったということで外面・見たままを語るしかない。外面で語るということは作画が~、キャスト演技が~、普通に~、説明が足りない~、感情移入が~、とかいう印象論になる。
これらは本当に(感想者の内面の)印象論でしかないのでつまらなかったことは分かるものの解釈を経ていないため社会通念上の言葉にアウトプットされておらず何がつまらなかったのかまったく分からないのだが要するに彼らは文句を言って分からなさを何かの所為にしてしまいたいだけなのだ。
これは映画感想の話に限らず、人に(作品に)に文句をいいたい時は対象にも通じる言葉を選んで説明しなければならない。(理由も分からず因縁をつけるな)
あなたの人生の中で愚痴を零すなというと厳しすぎるのでせめて自分のコミュニティー内に留めて欲しいと思う。少なくともわざわざ映画レビューサイト等に書き込み社会に対して投げかける様な内容ではない。
過激な言葉遣いになってしまったが作品テーマを理解出来なかったことを非難しているわけではない。伊藤計劃氏が仰られた通り ”映画を観て得られるものは、その人の感性や知的レベルに合ったものでしかない” のでそれを責めるのは酷だ。
ご存知の通り私たちが他人の本当の内情を知ることは絶対に出来ないのでせめてもの相互理解に努めるため相手にも伝わるように言葉を選びコミニュケーションを図ろうとする。
しかし、自分の中の分からなさを解釈せずそのまま社会に投げかける行為は思考停止であり相互理解からはもっとも遠い行為である。
自分の中の分からなさの責任を漠然と社会や他人に押し付けるな。それはもはや分からなさではなく分かろうとしなさである。
さらに『打ち上げ花火~』のケースではその分かろうとしなさが並べられたスクショを無責任な第三者まで巻き込み拡散共有され作品が嘲笑される事態に陥っていたので地獄絵図かと思い笑ってしまった(笑えない)。
分かろうとしなさが漠然と投げかけられあまつさえ共有される社会など絶対に信じたくないし警鐘を鳴らしたかったというのが本稿を書こうと思った動機である。
願わくば一つの作品を通してそれぞれが自分の解釈を語り、何が好きか?何が納得できないか?皆違うが色々な感情を抱えて生きているんだという相互理解の助けになるような社会になって欲しいと思う。
感情をアウトプットする営み
『少年たちは花火を横から見たかった』のあとがきで岩井俊二は自身の創作衝動(初期衝動)は中学生くらいの時代の言葉にならない感情や懐かしさを再現すること、そのために小説を書いたり映画を作ったり音楽を作ったりしていると語っていました。
強いクリエイターたちはそういった創作衝動を抱えながら自身の感情や感性がアウトプットされた創作を続けている。
僕はというと正直一年くらい前までは個人がTwitterやらブログをやる意義がよく分からなかった。自身のさして強くない内面を社会に投げつけることに何の意味があるのか分からなかった。
しかし色々な強い作品や解釈に触れるようになり少しずつ自分の言葉をアウトプットすることを重ねていたら自ずと話したい言葉が増えていった。
同じ作品を見てもその時期によって解釈は変わっていくしその感情の変化をアウトプット出来るようになったことで自身の成長に繋がっていると思えるようになってきた。強い作品や解釈を通して自身の行動原理を探り続けているわけ。(そしてアイカツ!を解釈し続ける)
本稿を書き始めたのは無責任な批判への憤りが動機でしたが、これを書くにあたり改めて本作の解釈を重ねるにつれ本当に好きな作品だなぁと思ったし自身の中の作品理解度をさらに高めることが出来たと感じています。
そんなこんなで最後になりますが本作について言いたいことは
ありえんくらいテーマもモチーフも好き、大好き。
自分の感情をどんどんアウトプットしていこう!
現場からは以上です。
*2:岩井 俊二、 永地 著