DCの新作ヒーロー映画「ワンダーウーマン」は、映画そのものについてもフェミニズム的にとても評価されているという噂を聞いていたし、それに伴って(主演女優がフェミニズムのアイコンとされることについて)主演女優の政治的思想について批判が高まるなどしていた。本作日本での公開が遅かったので作品として良い前評判ばかり耳にして、わたしの期待はぐんぐん上がっていた。ヒーロー映画meetsフェミニズムなんて最高じゃないか。もしかしたらマッドマックスより夢中になるのかもしれない...と、ものすごく期待していた。
そしてようやく今週末日本で公開されたわけだけれども、正直わたしはなぜこの映画が「フェミニズム的である」と賞賛されるのかがわからなかったし、この映画に出演し、ワンダーウーマンを演じたことによってガル・ガドットがフェミニズムアイコンに祭り上げられることもまったく理解できなかった。(そもそもフェミニズムアイコンであるキャラクターを演じただけでその女優がフェミニズムアイコンになってしまうようなフェミニズムなんてフェミニズムではないと思うが)
たしかに女性監督がヒーロー映画を撮る、しかも、女性ヒーローの映画を!とそれはたしかにフェミニズム(というよりも女性の社会進出であるから)画期的なことだし、これからもっと女性監督が女性ヒーローの映画を撮るべきだ。まだまだ女性ヒーローの作品は少なすぎる。しかし、「ワンダーウーマン」はそれだけではなかっただろうか。わたしはこの作品(ストーリーや設定)のどこにフェミニズムを見出せば良いのか、わからなかったのである。率直に言ってしまえば、「ワンダーウーマン」をフェミニズム映画であると言い切ってしまうことには大きな疑問を感じるのである。
(ここで注記を入れておくが、わたしは映画「ワンダーウーマン」を楽しく見たし、つまらなかったとは思わない。いろんな人に見てもらいたいし、映画としては楽しかったと思っている。)
1) セミスキラでの様子
たしかに、かっこいい戦闘衣装をきたかっこいい女性たちだけの島で、彼女たちが戦闘訓練をしているシーンなんかもうすごく興奮した!こういう映画が見たかったんだ!!と思うほどだった。なんならあの島の様子をスピンオフで2時間映画にしてもらって...と思うのだ。
しかし人間の間の争いを止めるために作り出されたアマゾン族たちが、その隷属を嫌い住んだ場所は、彼女たちが平和に暮らすために神によって「隠された」場所だった。そして彼女たちは「外へ出ること」ではなく「霧の中の楽園に」隠れていることを選んだ。劇中で、あの島から出たアマゾン族はダイアナだけであった。
設定上仕方のないことかもしれないが、島に1人だけの子供であるダイアナと他のアマゾン族たちとの絆みたいなものもあまりうまく描かれていなかったのではないかと思う。結局、アンティオペのもとで戦闘の訓練をして、いくら腕を上げたとしても、ダイアナは女王の娘であり、母親は娘が外に出ることを「悲しみ」と表現する。ダイアナという存在は、あの島の中では疎外感があったように思う。
アンティオペとは師弟関係があったのかもしれないが、最後の訓練のシーンでダイアナがアンティオペを傷つけてしまったとき、アンティオペはダイアナを拒絶するような言動をとっていたように思える。フェミニズム的な要素を入れるのならば、もうすこしシスターフッドのようなものが描かれてもよかったのではないだろうか。
(最近では「モアナ」において、テ・フィティの心を取り返す旅に出ようとするモアナに対して反対するのは父だけで、祖母は彼女の旅への意志を応援し、母もその旅立ちに反対していなかったことが、女系家族的な文脈でもとても良いなと思ったので)
2) 旅の仲間たち
ダイアナがセミスキラを出てからスティーブをはじめとする仲間たちができるわけだが、これ以降主要な役で出てくる女性は3人(ダイアナ/スティーブの秘書のエッタ/マル博士)のみである。
しかも、秘書のエッタは劇中、わりと活躍している様子(ロンドンで情報基地局としての役割をきちんと果たしていそうだったし、スティーブとダイアナがドイツの暗殺者たちに囲まれたときも異変を察知してスティーブたちの後を追っていることから)なのだが、出番がとても少ない。ほんとうに「いち秘書」といった役割で、ダイアナの旅の仲間たち(ダイアナと男性4人)よりは格下の扱いである。
また時代考証上仕方なかったのかもしれないが(とはいえワンダーウーマンというそもそも架空の人物を扱っているのだから)旅の仲間たちに1人くらい女性がいてもよかったのではないかなどとも思ったりした。ここでもシスターフッドのような友情や、同じ女性との交流は特に描かれない。(し、女性が村人とかくらいしかでてこない)
映画全体では余裕でベクデルテストをクリアするが、設定上女性しかでてこないセミスキラでの場面を除いてしまえば、ベクデルテストもギリギリクリアというようなかんじでは、わたしは寂しい気持ちがしてしまうのだ。
そんなわけでわたしは特にワンダーウーマンがフェミニズム映画であったとは思わない。たしかにワンダーウーマンという女性ヒーロー映画が作られたこと、そしてそれがとても出来の良い娯楽先品であったことは素直に認めるけれども、あれをフェミニズム映画である、ガル・ガドット演じるワンダーウーマンはフェミニズムアイコンであると言われると、わたしはそこには同意ができない。
もともとワンダーウーマンというキャラクター自体がフェミニズムアイコンとして作り出されたものである。だとするとあの程度で映画「ワンダーウーマン」をフェミニズム映画として手放しで称賛してしまうのは、あまりにも甘すぎるのではないだろうか。
たしかに、やっと、ここまできて、女性監督による、女性スーパーヒーローものの映画が作られたこと、それはとても喜ばしいことだ。そして、この映画をみて勇気付けられる女の子たちはたくさんいるだろう。そういう意味では、この映画の存在価値は大きなものだ。そしてこれを皮切りに、もっともっと女性監督がたくさんの映画を作るようになってほしいし、女性ヒーローものの映画も作られてほしい。まだまだ進むべき道は長いのだろう。
しかし、この映画の存在意義とは別に、この映画がフェミニズム映画であるかどうかについては、いちど冷静に考えてみる必要があると思う。
・追記
主演女優の政治的思想について批判が多く出ているし、わたし個人もその政治的思想には賛同できない。しかし、主演女優がそのような政治的思想を持って、平和を守る女性スーパーヒーローを演じたということを意識してスクリーンを見たとき、スーパーヒーローたちの抱える自己矛盾が浮かび上がってくるような気がした。
またジェイムズ・キャメロンとパティ・ジェンキンスのビーフ合戦については、なんていうかどっちもどっち...とわたしは思っている。
ジェイムズ・キャメロンの発言は女性ヒーローの多様性を妨げるものである(実際に男性ヒーローなんかは、正統派ヒーローからアンチヒーローまでものすごい多様性に富んでるのにね!)と思うし、一方パティ・ジェンキンスの「キャメロンは男性だからワンダーウーマンが女性にとってどんな意味を持つかわからないんでしょう」という発言は性差別的なのでは(男性だから女性のことがわからないわけでもなく、女性だけが真の女性映画を作れるわけでもないでしょ)と思う次第であった。
・追記2
女性監督による女性主人公の映画が少ないために、エンパワメントの可能性があるものですらその母数の少なさから完璧さを求められてしまうのではないかという意見もあるけれども、それなら「じゃあ女性監督が作った女性主人公モノの映画だから、出来は良くないけど、良かったとしか言えない。エンパワメントという存在意義があるから、内容の批判はでしない/できない」方が問題じゃない?わたしは男性監督が「ワンダーウーマン」をこの内容で作っていたとしても、同じブログ記事を書いたと思うし、男性監督が作った男性主人公の映画についても、同じように(内容に難があるとか)批判するよね。それと同じような定義を当てはめることができないならそれはそれで、作品批評として問題では...