まえがき
「今日は2016年1月18日です」
その言葉で始まった一連の出来事が、芸能史や経済活動という領域ではなく、視聴者の私たちにとって何を意味していたのだろうかということをよく考える。
今思うのは、あの時私たちは初めて「SMAPのいなくなる世界」を見た。
当たり前にあるはずの存在が、ある瞬間から全て過去になる。
その”もしも”はあの時テレビの奥で確かに、ぽっかりと大きな口を開けた。
だけど同時に、こんな事も思う。
もしかしたらあの騒動は、SMAPがSMAPじゃない人生を選ぶ、最後のチャンスだったのかもしれない。
かつて20代の彼らが「何度か考えた」それとはまったく意味合いが異なる。
2017年、SMAPは全員が40代に突入する。
同世代がそうであるように、等しく彼らの人生もまた、折り返し地点へと差し掛かりつつある。そこに選択肢はあったのだ。
そしてあの生放送には、SMAPとして生きる男性たちの運命がありのまま映しだされていた。
この日の『SMAP×SMAP』生放送、その2年前、香取慎吾が言っていた。
「過酷な運命と言えばそうかもしれないけど…。でも過酷じゃない運命はないと思う。苦しみや辛さを知らずに生きている人なんていないはず」
さらにこんな言葉も続けている。
「人生ほとんどがSMAPなので、”もしもSMAPじゃなかったら”の想像は、もうできなくなっていますね」
「でも強いて考えるなら…ファンになってみたい」
これは「ファン」である私が、SMAPのエンターテインメントとともに過ごした28年間、そして29年目の物語である。
SMAPじゃない今を生きる、SMAPの皆さんへ。
私は今まで一度も、皆さんに会えたことが、ありません。
第一章 1985~1989 時代の狭間に生まれて
SMAPが2014年に発売したアルバム「Mr.S」に、『SKINAIRO』という香取慎吾のソロ曲がある。
この曲の作詞を手がけたのは当時まだ20代半ばのラッパー、名前をSALUという。
楽曲提供を依頼することに決めたのは、香取本人が、たまたまテレビで見たSALUの音楽性に強く惹かれたからだった。
そして始まったやりとりの中で、香取はあることに気づく。SALUはちょうどSMAPが結成された1988年生まれのミュージシャンだったのだ。
香取はこんな話をした。
「同じ年同士、君が生きてきた時間を書いてくれたらどこか重なるんじゃない? ってお願いしたら、一行目から感じましたね。〝時代と時代の狭間に生まれて〟って、まさにSMAPがそうだなって」
この言葉を後で思い返した時、私がSMAPを好きになったのは、きっと必然だったのだと思った。
私が生まれた頃、父はまだ、国鉄で働いていた。
終戦から4年後に発足した日本国有鉄道は、新幹線開業など復興を遂げていく新生日本の旗振り役となっていたものの、一方では車社会の到来や輸送需要の変化が影響し、早い時期から赤字に悩まされるようになっていた。
戦後生まれの父が入社した頃も、国鉄はすでに財政問題の真っ只中だった。しかしそれでも父は国鉄に入ることを望んだ。
祖父もまた、国鉄マンだったのだ。
そして縁あって国鉄一家の3代目に私が生まれ落ちた1983年、一層深刻化していた国鉄の経営状況は、もはや民営化やむなしという段階にまでに達していた。
1986年、時の中曽根首相をトップに据えた自民党は、国鉄民営化の公約を掲げて選挙を圧勝し、秋の国会で分割民営化の準備は完全に整う。
その頃時代はまだ、昭和と呼ばれていた。
1986年、神奈川県藤沢市のある家に1通の郵便が届いた。
「レッスンがありますので来てください」
中学生の中居正広がジャニーズ事務所に興味を持ったのは、友達の何気ない誘いだった。
中居の通っていた学校にはすでにジャニーズ事務所でレッスンを受けている生徒がおり、同級生だった中居は、彼からよく芸能生活の話を聞いていたのだ。
お前も来ればいいと誘われ「じゃあ送ってみようか」と履歴書を送ってみたのは、まだ中1だった1985年。
しかし封筒は直後に家へと返送されてくる。
「あて先不明」
もう一度送る。
「料金30円不足です」
何度送っても帰ってくる書類を前に、さほど熱意のなかった中居少年はもういいやと諦め、一度はタンスの上に放り投げる。
その届かなかったはずの履歴書が、なぜか届き、1年も経過した1986年の今頃になって、突然合格通知がやってきた。
実はあの時放り投げたはずの履歴書は、後に見つけた母親の手で、もう一度ジャニーズ事務所へと送られていた。
だがすでに話の盛り上がりから1年も過ぎている。
それにその頃の中居にとっては気心の知れた地元の友達と遊んでいる方がよっぽど楽しかった。
「忘れたころだったから、しばらくはそのままにしてたんだよね」
そんな彼が再びレッスンのお知らせに目を通したのは、さらに時間が進み、履歴書を書いてから早2年になろうとしていた1987年の晩冬である。
その頃になると、中居の遊び友達はみんなある理由で忙しくなって、なかなか集まれなくなっていた。
「〝受験で親が厳しいから〟って。俺、受験ないから……なくはないんだけど、あの勉強しなくても入れる高校があるから、単願で」
「だから中3の時は勉強もしないし部活もないから、じゃあ通ってみようかって」
14歳の中居がジャニーズJr.のレッスンに参加し始めたちょうどその頃、彼らはたびたび、なぜか後楽園のローラースケートリンクにいた。
その始まりは事務所社長のジャニー喜多川が雑談の途中に切り出した、「みんなで、スケートでもするか」という他愛もない一言である。
30人ほどの少年を引率して後楽園へとやって来たジャニー喜多川は、ローラーシューズを配り、皆に自由に滑らせた。
というよりほとんど遊ばせた。
少なくともすでにジャニーズJr.として1年以上活動していた16歳の諸星和己にとって、それは完全に遊びのつもりだった。
「こういう暇つぶしもたまには面白いな」
しかし思いつきのはずだったその週に1度の遊びは、気づけば週に3度、4度とどんどん回数が増えていき、果てには「先生」まで登場して、少年たちは本格的な指導を受けていくようになる。
あまりの熱の入りように、同じくスケートリンクに通っていた13歳の佐藤敦啓(現:佐藤アツヒロ)も、内心ずっと不思議に思っていた。
「何でローラースケートのレッスンやってるんだろう?」
本来、ジャニーズといえば歌と踊りである。
そのうち一人、また一人と、スケートリンクに通うジャニーズJr.は何かしらの理由を並べて減っていく。
新入りの中居正広は当時、スケートリンクに行かなくなってしまった方のJr.の一人だった。
「ローラースケートの練習が土曜日なのよ。土曜日は……遊ぶ日でしょ?」
しかし後楽園に通う少年たちの中で、数人だけは、この時間が何を意味しているのかをはっきりと知っていた。
「なんだよ。俺だけに声をかけたんじゃねえのかよ」
18歳の大沢樹生は、もうジャニーズ事務所を辞めようと思っていた。
小学6年生の時に事務所入りし、翌年4人組アイドルグループ・イーグルスの一員としてレコードデビューした大沢だったが、彼らは思い描いていた結果を残せず、人気の高かった中村繁之のソロデビューを置き土産に、やがてイーグルスは自然消滅となってしまう。
仕事が減る形で普通の学生生活に戻った大沢と、そして同じイーグルスのメンバーだった19歳の内海光司は、どこか決まりの悪い思いをずっと抱えていた。
このままでは自分がだめになってしまう。そう感じた大沢は、意を決してジャニー喜多川に直接電話をかけた。
「これ以上お世話になっていても自分もつらいですし、この機会に一度、自分をゼロに戻したいので、事務所を辞めさせてください」
考え続けた上での結論であることを告げると、声のトーンこそ少し変わったものの、ジャニー喜多川は特に何も言わずにあっさりと電話を切った。
引き留めるような言葉がなかったことに安堵と落胆の両方を感じながら、大沢が受話器を置いたその瞬間、もう一度目の前でベルは鳴る。
「ユー、ローラースケートやんなよ。絶対スターになれるから」
1987年6月、最後までローラースケートの練習を続けたジャニーズJr.の中から、内海光司、大沢樹生、諸星和己、佐藤寛之、山本淳一、赤坂晃、佐藤敦啓の7名が新しいアイドルグループ「光GENJI」のメンバーとして、デビュー記者会見に出席する。
遊びのつもりで滑っていた者からラストチャンスのつもりで臨んでいた者まで、その人生を変えたのは、多くのジャニーズJr.が集められた、あのスケートリンクだった。
そしてスケートリンクに行かなくなってしまった者たちは、あの不可思議な時間がデビュー選考の場であったことを、テレビの向こう側の出来事として、初めて知る。
中居正広もその一人だった。
「2回くらい行ってもう辞めちゃった」
「だからその後光GENJIがデビューした時は、ビックリしましたよね。あ~あって……」