【ネタバレ注意】この記事には「Undertale」「MOTHER2 ギーグの逆襲」「Hotline Miami」「Spec Ops: The Line」「BioShock」のネタバレが含まれている。どうかこれらのゲームタイトルを遊んでから、あるいは一生遊ばないとケツイしたうえで読んでもらいたい。

私は「Undertale」のレビューで9.7という高評価をつけた。この点に関しては妥当な判断だと我ながら思っているが、しかしながら個人的なことを言えば「Undertale」のことがあまり好きではない(ただし間違いなく名作だとは思っている)。どこが嫌なのかと言えば、それはゲームプレイヤーに言及しているところだ。いや、それ自体は問題がないのだが方法が気に食わないのである。

「Undertale」以外にも、ゲームという枠を越えてプレイヤーに言及する作品はたくさんある。ビデオゲームの大きな特徴はそのインタラクティブ性、つまりプレイヤーが作品に対して介入できる(ように見える)ところであろう。うまく操作できればキャラクターは生き残り、失敗すればやられてしまう。選択がいくつもあれば、プレイヤーの性格がゲームの展開に影響を与える。そういった“ただ見るだけではない”というところに重点を置きゲームを制作するクリエイターも多くいる。

無論、名作ゲームと呼ばれるタイトルの中にはそういった領域に踏み込んでいるタイトルがあるわけだ。そしてそういった作品群は、ゲームを遊ぶプレイヤーそのものについて語ることになる。今回のコラムでは、“第四の壁を越えようとプレイヤーに接触してきたゲーム”がゲーマーにもたらすものを語ろうではないか。

「Undertale」と「MOTHER2 ギーグの逆襲」に出てくる“プレイヤー”の違い

さて、まずは「Undertale」がどのようにプレイヤーに接触してくるのかを語ろう。本作は途中までふつうのRPGに見えるのだが、そのうち“こちら”を感知するキャラクターがいることがわかる。たとえばフラウィは、プレイヤーの特権であるはずのセーブおよびロードという能力を使いこなしてくるし、サンズはすべてのモンスターを虐殺する通称“Gルート”で、世界が何度もループしている(プレイヤーがゲームとして遊んでいる)ことを認知していると伝えてくる。

なぜゲーム内のキャラクターが外の世界に干渉してくるのかといえば、これはキャラクターたちにリアリティを与えるためであろう。通常であれば作品の中でしか認知できないキャラクターという存在が、さらに大きな存在を知り語りかけてくる──。するとプレイヤーは、「この存在は単なるゲームキャラでなく生き物なのかもしれない」というような錯覚を覚えそうになるわけである。

特に効果的なのは、ハッピーエンドを迎えたあとに「Undertale」を再度起動すると見られるイベントだ。この際フラウィが登場し、「この幸せな世界をリセットしないでくれ」と懇願してくる。やはり本作は、ゲームの中に本当の世界があると思わせたいのだろう。

これはかなり大胆なやり口である。Toby Fox氏が大きな影響を受けたであろう「MOTHER2 ギーグの逆襲」にもプレイヤーに言及する演出があるのだが、こちらは比較するとかなりささやかだ。ラストバトルで強大な敵「ギーグ」に立ち向かうも祈るしかなくなった主人公たち。多くの仲間の後、最後の最後に思いが届いたのはプレイヤーだった……、という流れになっており、プレイヤーの心境をゲームに重ねるという手法が取られているのである。

「MOTHER2 ギーグの逆襲」のスクリーンショット。“バケツの中のハンバーガー”は「Undertale」にも登場する。

「Undertale」と「MOTHER2 ギーグの逆襲」の違いは、ゲームキャラクターが外の世界を認識するか、あるいはプレイヤーをゲームの世界に引きずり込むかの違いである。無論、どちらもプレイヤーを熱中させるためにやっている演出ではあるが、どの次元に落とし込むかが違うのだ。

ゲームプレイとして、プレイヤーの残虐な行為について語るゲーム作品の数々

そして、「Undertale」は同時に問題提起も行っている。“誰も死ななくていいやさしいRPG”というキャッチコピーの本作だが、すべてのモンスターを殺すGルートが存在するのはなぜか? それはやはり、プレイヤーの残虐性を認識させるためであろう。

Gルートのフラウィは、ゲーマーが“要素が存在するのならばプレイせずにはいらない性質”を持っていることを指摘する。これは確かにそうで、正直なところGルートへ行くにはやや手順が面倒なのである。しかし会話や展開が変わるし、これまでに体験したことのないバトルを楽しめ、そして「MEGALOVANIA」といった素晴らしいBGMを聴けるわけで、プレイヤーはついついこれを目指してしまうのだろう。

とはいえ、その代償は大きい。Gルートを最後までプレイすると、あの愛らしかったモンスターたちをすべて殺すことになり、今まで見たことのない存在を目にすることになる。それは最初に山に登って落ちた子供、つまりプレイヤーの分身そのものであることがわかる。そう、ハッピーエンドにたどり着くフリスクはプレイヤーではなく、別の存在なのだ。そして残虐な性質を持ったプレイヤーの分身は「Undertale」という世界そのものを破壊してしまう。

「Hotline Miami」のスクリーンショット。主人公はよくわからない場所で覆面の3人に出会うことになる。彼らの言葉はとても意味深だ。

プレイヤーの残虐性について語るゲームはいくつも例が存在する。たとえばDennaton Gamesが開発した「Hotline Miami」は、ゲームそのものが残虐である。とにかくロシアンマフィアを殺しまくるゲームであり、ドット絵だからこそマシになっているが非常にグロテスクだ。

道中、ニワトリのマスクを被った存在から「他人を傷つけることが好きか?」と問われる。ほかの質問は明らかな伏線なのに、この質問はやや異質だ。おそらくこれは主人公への問いかけというよりはプレイヤーへの質問だと思われる。なぜ殺しをするかも、いったいどうして殺人が必要なのかもわかっていないのにただ指示に従い続け殺すのは、暴力が好きだからか──。私にはそう問われているように見えた。

「Spec Ops: The Line」のスクリーンショット。人を助けに来たはずのデルタフォースだったが、気がつけば紛争に巻き込まれることになり……

しかし、暴力的なゲームを選んだのがプレイヤーだとしても、プレイヤーに暴力をさせるよう導いているのは紛れもなくゲームのほうである。……という言い訳を打ち砕く作品「Spec Ops: The Line」もある。本作の舞台は、これまで類を見ない大規模な砂嵐に襲われたドバイ。マーティン・ウォーカー大尉はデルタフォースのリーダーとして、ドバイに派遣されて戻ってこないアメリカ陸軍の第33部隊を探すことになる。

「Spec Ops: The Line」はTPSであり、雰囲気からするとマーティン・ウォーカー大尉が活躍して英雄になるというようなシューターに見える。しかし本作はそれを逆手に取った作品で、たとえば「Call of Duty 4: Modern Warfare」のようなタイトルを盛大に皮肉るようなゲームでもあるのだ。

ウォーカー大尉が歩む道はすべて地獄への道でしかなく、どのような選択をしようとも最悪な状況にしかならない。気づけば33部隊と殺し合いをすることになり、敵を排除するため白リン弾を撃てば市民をたくさん巻き込んでしまい、脅しのために水源を奪うも結果的には一般市民が飲むための水をなくしてしまうことになる……。

「Spec Ops: The Line」のラストシーン。プレイヤーの決断がエンディングを大きく変化させるが、それはプレイヤーが本作に対してどのような態度を取るかということでもある。

最後の場面でプレイヤーは選択を強いられる。ウォーカー大尉として進んできた道、つまり殺しを続けてきた行為を正当化するか否かだ。ウォーカー大尉は自分の行いに対し、「誰かを傷つけるつもりはなかった……」などと言い訳をする。そして、33部隊の隊長であるコンラッド大佐の幻影はこう答える。

「誰だってそうさ」

このゲームは語り方がどこか曖昧で、どう感じるかはプレイヤーに委ねられていると言えるだろう。私が本作から感じられたものは、殺人者を英雄として肯定する行為に対するアンチテーゼと、ただ思い込みで人を殺し続けることの愚かさ、つまりプレイヤーへの皮肉である。

「Spec Ops: The Line」はどうあがいても地獄への片道切符であるため、プレイヤーが反抗できるとしたらコントローラーを置くことくらいである。ただ、プレイヤーが暴力的であるものをひたすらに求めていると言われると、いまひとつ納得がいかない。

プレイヤーは単純に残忍な存在なのか?

確かにコントローラーやマウスを通じて残虐行為をしているのはプレイヤーそのものだが、それがプレイヤーだけの意思であると言われるのは心外だ。「Undertale」でもGルートへたどり着くとプレイヤーの残酷さを非難されるが、本当にプレイヤーだけの問題なのだろうか? そういえば、「BioShock」でも同じことを感じる場面があった。

「BioShock」の主人公は「恐縮だが(Would You Kindly)」という言葉を聞くと命令に従ってしまうという性質を持っており、物語の中盤までまるで奴隷のように悪役に操られて進むことになる。そしてこれはプレイヤーにとっても同じであり、“ゲームをプレイしているように思わせているが、実際はゲームをプレイさせられているのだ”と匂わせる場面がある。

「人は選ぶ、奴隷は従う」というのは「BioShock」の重要人物であるアンドリュー・ライアンの言葉である。とはいえゲームプレイヤーは望んで制作者の意図に乗っているのだし、むしろそこに乗らなかったら作り手側も困るのではなかろうか。

プレイヤーが心から虐殺を望んでいて、殺せるものをすべて殺したのだとしたら残酷かもしれない。しかし、殺せるように誘導しているのはゲーム側もそうである。しかも殺したあとにはストーリーや新たな展開、そしてエンディングなどご褒美があるのだ。これはもはやフェアではなく、共犯関係と言ったほうが適切であるように感じられる。

とはいえ、暴力行為に対する問題提起は納得ができる。結局のところ、誰かの正義は別の誰かを苦しめるだけであり、誰かの楽しみは誰かの苦しみを生み出している可能性があるのだろう。

私を語るゲームと、ゲームキャラクターになりたい私

さて、話を「Undertale」のほうに戻そう。本作は暴力行為に対する問題提起をしたと同時に、キャラクターに外の世界を認知させることでリアリティを増そうとしている。かなり贅沢かつ大胆な手法で、実際にこれはひとつの成功を収めていると思われる。だが私からすると、これこそが「Undertale」という世界にヒビを入れているように見えた。

その問題は、“プレイヤーをゲームの世界に取り込む”ことではなく“キャラクターを外の世界に出そうとした”ところにある。フラウィは幸せな世界を壊さないでとプレイヤーに懇願し、サンズは何度も繰り返されるやるせなさをプレイヤーに訴えてくる。それはわかる。わかるが、なぜプレイヤーにだけ言及するのだと思えてしまうのだ。

Gルートを選んだプレイヤーが全面的に悪いとしよう。しかし前述のようにプレイヤーは共犯者のひとりだ。そもそもフラウィやサンズをそういう宿命に陥れた人物は? 開発者そのものだ。開発者はつらい運命を作ったどころか、それをコピーして世界中にばらまいているわけで、そこを問題にしないのか。そして、現実世界の存在としてサンズを見ると、彼は結局のところは開発者の一部である。なんだ、結局のところ開発者が“かわいいパペット”を使って自作自演しているだけではないか──。というように、ゲームに没頭していたのに現実へ引き戻されてしまうのである。

当たり前のことだが、プレイヤーについて言及するとキャラクター(主人公)との乖離が起こるのである。あくまでプレイヤーはゲームの中の世界をそういうものだと理解して没入しているのであって、「現実世界から見たらこんなのウソだよ」などと無粋なことは言わないのがふつうであろう。だが、プレイヤーに言及するということは現実的な視点を持ち込むというわけで、現実から見ればゲームのストーリーなどおとぎ話だとも言えてしまうのである。

とはいえ、どれほどプレイヤーとキャラクターを離すかはタイトル次第だ。それこそ「MOTHER2 ギーグの逆襲」はプレイヤーが別の存在であることを知らしめはするが、その思いはキャラクターやゲームの流れと同じであることを示している。「Spec Ops: The Line」や「Hotline Miami」は十中八九プレイヤーのことを語ってはいるが、決して直接的に言及するわけではない。

しかし、「Undertale」はその中でも性質が違う。キャラクターがプレイヤーに話しかけることで“こちら”にやってくるし、主人公とプレイヤーが違うことを明確にしているのである。一応はRPG(ロールプレイする、つまりなんらかの役割を演じるゲーム)なのに、だ。

無論、メタフィクション的な仕掛けを使い、キャラクターがあたかも実在するかのように思わせる手法自体は良い。だが、ここまでやると本当にモンスターたちが生きているように感じられた世界が、結局のところそれは全部ウソに過ぎないとゲーム側から突きつけられているかのように感じられてしまうのだ。このあたりの引っ掛かりが、私が「Undertale」に10点満点をつけられなかった理由である。

私はやはり、ゲームを遊ぶのなら主人公になりたいのだと思う。英雄だろうと虐殺者だろうと奴隷だろうとなんでもいい。そのキャラクターになりたいのだ。“私”のことなどどうでもいいのである。