ジャンプがまたしても槍玉にあげられている。
いわゆる「ラッキースケベ」と呼ばれる、少年向け特有の「風などの偶然によって女の子がパンチラや裸体を晒す表現」が、なぜか性暴力を肯定、助長するなどと難癖をつけられている。
この「ラッキースケベ」表現は、当然昨日今日生まれた表現ではなく、その歴史は古い。これは児童誌や少年誌で具体的な性描写を避けるために作られたライトなエロ表現であり、藤子不二雄や永井豪といった巨匠も漫画の中で頻繁に使用していたもので、その有用性は「サルまん」にも描かれている。当然、それは性暴力が描かれているわけでもなければ、それを肯定してもいないのは自明である。
そもそも、暴力や犯罪がしばしば描かれる漫画の世界において、性暴力だけが描かれてはならないとする理由はない。あらゆる犯罪行為の責任や法律を、フィクションの中にあてはめてはならない、というのが本来良識ある大人の態度であろう。
一方で、そうした批判を向けてくる女性達の中には、少女漫画やBLの愛好者も多い。しかしこうした女性向けの漫画にも、性暴力的な表現はしばしば見られる。
エロマンガの統計を行なっているサークル「でいひま」さんの調査によれば、ざっくりいうと男性向けでは20%、BLでは10%、そしてレディコミでは40%程度の漫画が性暴力を描写している。逆に言えば、80%の男性向け、90%のBL漫画は純愛などの「健全な」エロ表現によるものであり、レイプ表現が極端に多いレディコミを含めても、必ずしも性暴力を伴う表現はスタンダードではないが、少なくともレイプ・フィクションを嗜好する傾向に男女の有意な差があるとは認められない。
「男性向けには強姦表現が多く」「女性はそうした表現を好まない」ということを言う批判者の女性がいるが、これらは完全に誤ったバイアスであると言えよう。
今回のジャンプ漫画の是々非々については、既に多くの方が論じていることなので今更自分が何かを言う必要は感じない。重要なのは何故、こうした女性向け漫画の性描写、性暴力表現を嗜好しながら、彼女たちは少年漫画や男性向漫画の表現を性暴力だ、差別だというダブルスタンダードを平然と振りかざすのか?ということだ。
答えは簡単で「女性向け表現はレイティングやゾーニングがされていないから」である。
自分は、以前からゾーニング有害論を提唱している。
無意味、や不要、ではなく、はっきりと有害であると断言できる。
無意味、や不要、ではなく、はっきりと有害であると断言できる。
「ゾーニング理論」なる机上の空論を無垢に信奉する日本では、こうした意見を述べると極論だと反発するものが後を絶たないが、ゾーニングについてきちんと考えたことのある人は、これがいかに危険であるか、既にある程度理解しているものだと思われる。
以下にゾーニング有害論の根拠を示す。
1.「ゾーニング破り」を抑止する機能がない
ゾーニング破りとは「ゾーニングされているはずのものを、ゾーニングの外側に引っ張り出すこと」である。ゾーニングされているものをわざわざ規制するために「こんなものが公然と売られている!」と衆目に晒し攻撃の対象とする、こうした悪辣な行為は今日でも後を絶たない。
実は、これまでも多くの表現規制論が、ゾーニング破りによって引き起こされている。エロ本規制の文脈で「こんなものが売られている」と成年マークつきの本をTVや週刊誌で晒したメディアは枚挙に暇がない。国内に限らず、「レイプレイ」はイギリスで違法に販売された海賊版がきっかけで、本来売ってもいないイギリスから「こんなものを販売するな」と外圧が来たし、AFP通信は日本の同人ショップの18禁エリアに無断で入り込んで成年向け同人誌の写真を撮影し、それを「ポルノコミックが公然と売られている日本」の写真資料として様々なメディアに提供している。
今回のジャンプにしたって、クジラックス先生の同人誌へのバッシングにしたって、本来金銭を対価に買って読むはずの表現物を違法にネット上にアップして、通常それを読まない人々の衆目に攻撃の槍玉として晒しているわけで、これらは全てゾーニング破りである。
そもそもメディアの本質は「隠れているものを暴き立て衆目に晒すこと」である。これはマスメディアもマルチメディアも変わらない。それが人間の義憤を刺激し、快楽感情を喚起させ「社会正義のために隠れた悪を断罪する!」という独善的な人間を扇動するのである。こうしたメディアの性質がある限り、ゾーニングというもの自体がそもそも機能し得ないことは、これまでの経緯を見ても明らかなはずである。
2.ゾーニング・レイティングには特定の表現を「悪しきもの」としてラベリングする機能がある
ゾーニング擁護派は、ゾーニングやレイティングを「棲み分け」だと主張するが、これはまったくの誤りである。それならば、性表現に寛容でない人のための表現を「性嫌悪者向け」としてゾーニングしたり、性表現を伴わない表現を「児童向け」としてレイティングするのでもいいはずである。むしろ、今の日本は未成年の方が圧倒的に少ないのだから、そちらのほうが合理的なはずだ。
しかし、そうはならないのは何故かというと、人々はゾーニングやレイティングによって「悪しき表現」と「良い表現」を恣意的に切り分けているからである。何の根拠もなしに悪のレッテルを貼られた表現には、いくらでも攻撃を加えてよいし、むしろそれが正義のためであるというメッセージを社会に与える性質を持つのが、ゾーニングやレイティングの本質である。だからこそ、先程のような「ゾーニング破り」が正当化され、あるいは助長される。恣意的に嫌いな表現に「悪」のレッテルを貼り、今度は「隠れた悪を暴き立てる」というマッチポンプの再生産によって、ゾーニングやレイティングのラインは無限に拡大してゆく。これは、性表現に限らず「悪しきものをパージする」という善意が、対立と憎悪を駆り立てる起序そのものである。
むしろ「表現の良し悪しを決めていい権利なんか誰にもない」ということを、まず常識として周知するべきではないだろうか。
性表現にしたって「成人向け」「一般向け」に二分されるが、性表現に対して特別嫌悪感情を抱く人ははたして「一般」的だろうか?「成人/一般」「男性/女性」「男性/一般」という区分の仕方が、我々の社会において無意識に差別的なメッセージを発しているとは言えないだろうか。
タバコだって、国民の7割が吸っていた頃は誰も文句など言わなかったのに、副流煙で肺がんになるだの、歩きタバコが子供の目に入るだのと、「それは交通事故に比べて何万分の一の確率なのだ?」と思うような珍妙なことを言い出したあたりから、やれ分煙だ、増税だと極端に社会での風当たりが強くなり、世界でも稀に見るほどの迫害の対象となっている。タバコがそこまで健康に悪いなら今の中高年はバタバタ死んでいるはずであるが、見ての通りの少子高齢化である。一方で、いまだにこの国の駅前のどこにでも賭博場があることについて、国際的に見れば信じられない状況ではあるが、さほど問題視はされていないように思える。
「世の中に当たり前にあるもの」を誰も問題視はしないものであって、それがひとたび「悪しきもの」として隔離されはじめた瞬間から、それは「悪」として攻撃の対象となるのである。まさにイジメの構図と一緒だ。ゾーニング・レイティングはそれを助長するシステムに他ならない。
性表現にしたって「成人向け」「一般向け」に二分されるが、性表現に対して特別嫌悪感情を抱く人ははたして「一般」的だろうか?「成人/一般」「男性/女性」「男性/一般」という区分の仕方が、我々の社会において無意識に差別的なメッセージを発しているとは言えないだろうか。
タバコだって、国民の7割が吸っていた頃は誰も文句など言わなかったのに、副流煙で肺がんになるだの、歩きタバコが子供の目に入るだのと、「それは交通事故に比べて何万分の一の確率なのだ?」と思うような珍妙なことを言い出したあたりから、やれ分煙だ、増税だと極端に社会での風当たりが強くなり、世界でも稀に見るほどの迫害の対象となっている。タバコがそこまで健康に悪いなら今の中高年はバタバタ死んでいるはずであるが、見ての通りの少子高齢化である。一方で、いまだにこの国の駅前のどこにでも賭博場があることについて、国際的に見れば信じられない状況ではあるが、さほど問題視はされていないように思える。
「世の中に当たり前にあるもの」を誰も問題視はしないものであって、それがひとたび「悪しきもの」として隔離されはじめた瞬間から、それは「悪」として攻撃の対象となるのである。まさにイジメの構図と一緒だ。ゾーニング・レイティングはそれを助長するシステムに他ならない。
3.ゾーニング・レイティングをする基準と根拠が不明瞭
ゾーニング擁護派はいつも「こうした表現なら問題ないが、こういう表現はゾーニングすべきだと思う」といった発言をするが、明らかに一人ひとりで全く異なる基準を持っている上に、何をもってそのような基準を提示しているのか、誰も客観的な根拠を説明できた者はいない。誰もが何かしら問題視する表現というのはあろうが、それが万人の意見となって集まるとやがて殆どの表現は禁止されてしまうだろうし、そもそも殆どの人には「自分の基準で表現をゾーニングする」などという決定権がない。これは以下の4点目にも繋がる問題点である。
「自分は問題が無いと思う」「むしろあってほしい」表現が、どうして誰かによってゾーニングされないと無根拠に信じられるのか、自分には理解できないのだが、結局のところ自分に関心のない表現については、誰しも「他山の石」なのであろう。自分は、つまるところこうした社会の無関心こそが、問題だらけの有害なゾーニング理論を正当化せしめているのだろうと思う。
レイティングにしたって、性表現や暴力表現が児童に対して有害である、などという主張のエビデンスは一度たりとも示されたことはない。これは表現を規制する上での「明白かつ現在の危険」の基準に反する。むしろ昨今のアメリカの研究では、暴力表現は児童は児童に悪影響を与えない、むしろ犯罪率を下げる効果があるとすら結論づけられている。当然、性表現についても同じような理論があてはまると考える方が自然だろう。
かつて正義であると信じられてきたことが、実は全くの誤りであったり、むしろ非道な人権否定や児童虐待であった、とされたことなど歴史を俯瞰すればいくらでもある。ポルノや暴力表現に対するゾーニングやレイティングについても、将来的にそのような扱いにならないとは限らない。むしろ現段階では、限りなくその可能性が高いと言えよう。
4.そうした基準を決定する機関が権力化する
そうしたゾーニングの基準を、なるべく明確化するために「審査団体」が作られる。すると、これらの団体の審査に落ちれば表現者たちはたちまち表現の機会を奪われるのだから、誰もそうした団体の意向に逆らうことができなくなり、こうした組織は表現者たちに対して絶大な権力を持つことになる。
こうした組織はしかも、しばしば警察権力が間接的に介入し、場合によっては天下りの温床となってきた。警察が直接的に指導するのではなく、警察の「意向」を受けた人物が審査団体に加わることによって、間接的に検閲行為が容認されてきたのである。表現が権力によって検閲され、「良い表現」とされた表現だけが世に出てくる社会。民主主義を標榜する社会として、問題がないわけがない。憲法で禁止されているはずの検閲が当然のようにまかり通っていることに対して無関心な人々が、人権が、見ない権利がどうこうなどと言っても、まるで説得力がない。
そうした権力化した審査組織の顛末も、また悲惨なものである。警察の天下りを受け入れてまでAVを審査してきたビデ倫の人間は、あっさりとハシゴを外されて、AV会社の役員ともども軒並み逮捕された。
ソフ倫、出倫協、CERO、BPOの人間だって、みんな明日は我が身だ。大事なのは、表現を取り締まることそれ自体が違法であり、重大な人権侵害であることを強く世に訴えていくことであって、国家権力に対して従順な姿勢を示すことではないと思う。
5.ゾーニングラインは絶えず変化していく
「既にゾーニングされているから、もうこの世界の表現は安心」だなんて言っている人を見たことがない。ゾーニングによって表現を社会の表面から排除するということは、殆どの人にとっては、そうした表現を除く「健全な表現」が世界の全てになるということで、その中で生きる人々は残った表現の中からまた必ず「不健全」な表現を見出し、これを新たにゾーニングしようとする。つまり、ゾーニングラインは絶えず後退していくのである。やがては表現文化それ自体が、表の社会に存在できなくなるだろう。
そもそも刑法における「わいせつ」の定義にしたって全く不明瞭で、その時代ごとの社会通念をベースとして取り締まられているのだから、社会が問題視する表現は常に変化するというのが自明である。しかし、そのような不確かな基準によって、表現の有害無害、良し悪しを判断することを当然に受け入れ続ければ、それ自体が社会通念に対して有意に害を成す。「時代に適合しない表現は刈り取っていい」などというのはまったくの独善であり、むしろ、そうした時代・社会のマジョリティに適合できない弱者のためにこそ表現という手段は肝要なのである。
6.ゾーニングは「表現を享受する権利」を侵害する
以前「コンビニ売りのエロ本は成年誌ではない」とTwitterで言ったところ「あれがエロ本ではないとはどういうことだ!」と反発を受けたことがあるが、実際いまとなっては、多くの人は「成年マーク」つきのエロ本の存在を知らないのだろう。それらは18禁エリアのある専門の書店でしか販売されていないので、実質その流通範囲はほとんど同人誌と変わらない。ポルノコミックを嗜好する人達の中でも、おそらく大半の人々はこの「成年マーク」つきのエロ本と、そうでないコンビニ誌の区別がついていないし、「成年マーク」つきエロ本の存在を知らない人もいる。
つまり、「成年マーク」つきでゾーニングされた本が、流通範囲が極端に制限されることによって、成年向けの本を本来見たいと思う人達も、そうした本にリーチできなくなっているのである。
たとえば「暴力表現は北海道でのみ扱ってよい」だって一つのゾーニングなわけだが、そうすると当然本土の人はこうした表現を見たくても見れなくなる。棲み分けとは言いながらも、実際は一方に不利益を与えて表現にアクセスすることを困難にし、経済あるいは思想の権利を制限しているのである。これは典型的な「橋の下で眠る法」だ。
仮にエロ本が、コンビニで成人向けの棚に置かれるでもなく、書店でも普通に店頭に置かれたとして、今と売上が変わらないのであれば「ゾーニング」は正しいということになるが、そんなわけはない。より人目に触れる機会を得られれば得られるほど本が売れるのは当たり前で、それは表現の好悪とは無関係である。エロ本がゾーニングされることによって、エロ本は本来得られるはずの経済的利益を大きく奪われているし、本来エロ本を読みたいと思っている人々も、欲しいと思った時にエロ本を手に入れる機会を大きく失っているのである。
これはTwitterなどで、同じ画像を「不適切画像」のフラグを立ててアップするか、そうでなく一般公開の画像としてアップするかで、RTやfavの数字が10倍以上変わることを見れば瞭然である。普通は、自分が好まない画像やイラストをRTやfavはしない。ならば、「不適切画像」としてゾーニングされたことによって、本来その画像やイラストを見たい、好ましいと思う人間の9割以上が、その画像にリーチできなくなっていることを意味する。
また、世の中にさまざまな表現物があることによって、我々は個人的体験の範囲を超えて社会を理解するわけだが、性表現だけが社会からパージされることによって、そうした表現を好む人々の存在や、そうした性が世の中にあること自体が、社会全体から無視される結果に繋がる。これは性表現を嫌悪する人々にとっても害悪で、社会を意図的に歪められた状態で捉えるということは、社会問題について考える上でも十分にバイアスが起きる。その結果生まれた視野狭窄が、今回のような問題にも繋がっているのであって、実際彼女らは「性表現や暴力表現などなくても誰も困らないし、そんなものを好ましいと思う女性はいない」という重大な認知バイアスを抱えている。そうした偏ったモノの見方をする人々が社会問題について語り合うことで、社会問題の解決がむしろ遠のき、あるいは少数者の存在を無視する結果に繋がるのではないか。
6.ゾーニングは「表現を享受する権利」を侵害する
以前「コンビニ売りのエロ本は成年誌ではない」とTwitterで言ったところ「あれがエロ本ではないとはどういうことだ!」と反発を受けたことがあるが、実際いまとなっては、多くの人は「成年マーク」つきのエロ本の存在を知らないのだろう。それらは18禁エリアのある専門の書店でしか販売されていないので、実質その流通範囲はほとんど同人誌と変わらない。ポルノコミックを嗜好する人達の中でも、おそらく大半の人々はこの「成年マーク」つきのエロ本と、そうでないコンビニ誌の区別がついていないし、「成年マーク」つきエロ本の存在を知らない人もいる。
つまり、「成年マーク」つきでゾーニングされた本が、流通範囲が極端に制限されることによって、成年向けの本を本来見たいと思う人達も、そうした本にリーチできなくなっているのである。
たとえば「暴力表現は北海道でのみ扱ってよい」だって一つのゾーニングなわけだが、そうすると当然本土の人はこうした表現を見たくても見れなくなる。棲み分けとは言いながらも、実際は一方に不利益を与えて表現にアクセスすることを困難にし、経済あるいは思想の権利を制限しているのである。これは典型的な「橋の下で眠る法」だ。
仮にエロ本が、コンビニで成人向けの棚に置かれるでもなく、書店でも普通に店頭に置かれたとして、今と売上が変わらないのであれば「ゾーニング」は正しいということになるが、そんなわけはない。より人目に触れる機会を得られれば得られるほど本が売れるのは当たり前で、それは表現の好悪とは無関係である。エロ本がゾーニングされることによって、エロ本は本来得られるはずの経済的利益を大きく奪われているし、本来エロ本を読みたいと思っている人々も、欲しいと思った時にエロ本を手に入れる機会を大きく失っているのである。
これはTwitterなどで、同じ画像を「不適切画像」のフラグを立ててアップするか、そうでなく一般公開の画像としてアップするかで、RTやfavの数字が10倍以上変わることを見れば瞭然である。普通は、自分が好まない画像やイラストをRTやfavはしない。ならば、「不適切画像」としてゾーニングされたことによって、本来その画像やイラストを見たい、好ましいと思う人間の9割以上が、その画像にリーチできなくなっていることを意味する。
また、世の中にさまざまな表現物があることによって、我々は個人的体験の範囲を超えて社会を理解するわけだが、性表現だけが社会からパージされることによって、そうした表現を好む人々の存在や、そうした性が世の中にあること自体が、社会全体から無視される結果に繋がる。これは性表現を嫌悪する人々にとっても害悪で、社会を意図的に歪められた状態で捉えるということは、社会問題について考える上でも十分にバイアスが起きる。その結果生まれた視野狭窄が、今回のような問題にも繋がっているのであって、実際彼女らは「性表現や暴力表現などなくても誰も困らないし、そんなものを好ましいと思う女性はいない」という重大な認知バイアスを抱えている。そうした偏ったモノの見方をする人々が社会問題について語り合うことで、社会問題の解決がむしろ遠のき、あるいは少数者の存在を無視する結果に繋がるのではないか。
色々述べたが、平たく言えばゾーニングやレイティングというのは、あの悪名高いアパルトヘイトやゲットーと全く同質のものである。単に我々の社会から根拠なく「悪しきもの」とレッテルを貼られた人々や表現をパージし、それを「棲み分け」として正当化して、差別を肯定しているだけだ。
だからこそ、内実は全く同質の表現でありながら、男性向けポルノは、女性向けポルノを嗜好する人々にすら差別され、迫害を余儀なくされる。ともすれば、女性達が男性全般に対して、あるいは男性の性欲そのものに対して差別的な考えを持つこと自体を助長している。それは、男性向けポルノ表現がゾーニングやレイティングを引き受けたことによって生まれた当然の結果だ。
ジャンプの性表現や、コンビニのエロ本が昨今バッシングされているのは、このようにして女性達を中心に蔓延した性差別意識によるヘイトクライムそのものである。
たとえば「北斗の拳」で女性を切り刻んだり裸に引ん剝いたりする表現や、「ドラえもん」で女児の入浴シーンに主人公が入り込むといった表現が看過される一方で、ただ「ゆらぎ荘」で女の子が偶然に裸を晒してしまう表現がバッシングの対象になるのも、単に「ゆらぎ荘」の絵柄が今風で、現在ゾーニングされているような漫画の絵柄に近かったからにすぎない。
一方で、以前にも述べたが、女性向け表現はこうしたゾーニングやレイティングが全くといっていいほどなされていない。BLコミックも、レディコミも、児童も目にするような一般書店に普通に置かれている。
だから、むしろそれゆえに、男性向けと全く同じような内容が描写されていても「これは一般向けだから無害である」というバイアスが生じる。
有害な表現だからゾーニングやレイティングをされているのではなく、ゾーニングやレイティングをされたから「有害な表現として扱われるようになった」のである。
女性向けポルノコミックを嗜好する女性の多くは、いまだ男性向けで行われているゾーニングやレイティングの実態を全くといっていいほど知らないし、はっきりいって関心も持っていない。彼女らの多くは、エロ漫画を単に「男性向けだからゾーニングされている」と考えており、女性向け表現がまさかそのような対象になるとは思ってもいないので、昨今のように青少年育成審議会によってBLが次々に取り締まられていることに対し「大人が読むものを規制なんて!」とトンチンカンな怒りを表明していることも多い。(青少年育成審議会の不健全図書指定は「レイティングされていない一般誌を成人向けとして取り扱う」ことを求める指定である)
もちろん、こうしたことをきちんと理解して、危機感を感じている女性達もいる。しかし依然として大多数の女性たちは、これまでの「性表現をゾーニング・レイティングする」という取り組みに対して、実際はほとんど無関心であったということが浮き彫りになったのが、昨今のエロ表現バッシングではなかろうか。ゾーニングされているものをゾーニングされていないと言い、性表現でないものを性表現だ、性暴力だと言って憚らないのは、これまでのそうした取り組みの議論的蓄積に対して全く無知であることの証左であろう。ほぼコンビニでしか売られていない「一般向」レイティングのエロ本に対して「コンビニでエロ本を売るな!」と吹き上がったのもそういうことだ。あの中身が一般誌と同水準の修正がされていることも知らないし、コンビニ誌をコンビニで売るなという要求が、イコール雑誌を廃刊せよという意味になることも知らない。表現規制派というのは、概して無知なのである。
ここまで読んでくれた人はわかるだろうが、自分は女性向けをゾーニングせよ、レイティングせよと言う気は全くない。むしろ、男性向けをゾーニングしたりレイティングしたりするのをやめろ、と言っているのである。
自分はコンビニの「成人向け」棚の存在自体にも反対であるし、コンビニ向けのエロ本はあくまで一般誌として一般誌と同じように販売すべきであると考えている。その理由は当然、上記のように「成人向け」として販売すること自体に、性表現に対する社会的攻撃や差別を助長する性質があると考えるからである。
一介の商業施設に過ぎないコンビニに「公共性」の概念まで持ち出してエロ本をバッシングしていた者もいたが、公共性を持つ施設なればこそ、なおのこと男性向ポルノも女性向ポルノも、あるいはゲイポルノだろうが何だろうが需要がある限り置くべきなのであって、それを排除することの方が民主主義の理念に反する。「こうしたものを必要とする人たちがいる」という現実を目の前から排除しようとすることが、差別的でなくて何なのだろう。公共の社会は、マジョリティだけが快適に暮らせばいい社会ではない。
これは決して男性向け表現に携わる表現者の中でも多い考え方ではない。むしろ、ほとんど極少数派の考え方に近いことは自覚している。しかしながら、いま存在するシステムが全く合理性もメリットもなく、またこれまでの反差別の議論的蓄積や概念に照らし合わせれば、まぎれもない差別であることは事実だと考えているので、近々の現実論としてではなく、将来にわたって共有されるべき理念として上記の考えを述べていきたい。
ここまで読んでくれた人はわかるだろうが、自分は女性向けをゾーニングせよ、レイティングせよと言う気は全くない。むしろ、男性向けをゾーニングしたりレイティングしたりするのをやめろ、と言っているのである。
自分はコンビニの「成人向け」棚の存在自体にも反対であるし、コンビニ向けのエロ本はあくまで一般誌として一般誌と同じように販売すべきであると考えている。その理由は当然、上記のように「成人向け」として販売すること自体に、性表現に対する社会的攻撃や差別を助長する性質があると考えるからである。
一介の商業施設に過ぎないコンビニに「公共性」の概念まで持ち出してエロ本をバッシングしていた者もいたが、公共性を持つ施設なればこそ、なおのこと男性向ポルノも女性向ポルノも、あるいはゲイポルノだろうが何だろうが需要がある限り置くべきなのであって、それを排除することの方が民主主義の理念に反する。「こうしたものを必要とする人たちがいる」という現実を目の前から排除しようとすることが、差別的でなくて何なのだろう。公共の社会は、マジョリティだけが快適に暮らせばいい社会ではない。
これは決して男性向け表現に携わる表現者の中でも多い考え方ではない。むしろ、ほとんど極少数派の考え方に近いことは自覚している。しかしながら、いま存在するシステムが全く合理性もメリットもなく、またこれまでの反差別の議論的蓄積や概念に照らし合わせれば、まぎれもない差別であることは事実だと考えているので、近々の現実論としてではなく、将来にわたって共有されるべき理念として上記の考えを述べていきたい。
男性向け表現が全くゾーニングもレイティングもされていなければ、今よりずっと多くの男女が性表現に触れ、嗜好していただろう。そもそも、男女の性愛を描くポルノに普遍性がないわけがなく、現在でも男性向けエロコミックの作者や読者の、実に3~4割近くが女性であるとも言われている。
男性向けというラベリングの貼られている現在においてすらそうなのだから、おそらく本来ポルノとは女性メインのカルチャーになるはずだったのではないだろうか。こと「恋愛漫画」というジャンルの殆どが女性向けに偏っていることを考えると、むしろ女性の方が性愛をテーマとした表現物を嗜好する傾向にあると考えるほうが正しい。それが、無意味なレイティングやゾーニングによって「女子供に有害なもの」というバイアスを与えられたことにより、男性にとってのみならず、女性にとっても、子供にとっても、性の価値観や文化の可能性を著しく狭め、自らの性に向き合う機会を奪ってきたのではないだろうか。
性の在り方が多様であるという常識を共有しているはずの今日において、男性は男性向け表現を嗜好し、女性は女性向け表現を嗜好し、子供には男性向けは有害であるが、女性向けは安全である、などという差別的で雑なラベリングをいつまでも続けるべきではない。男女にも様々な考えの人がいるし、様々な嗜好を持つ人がいて、子供のうちからそういうことを理解することは良いことではないのだろうか。
同じように性表現を嗜好する男女同士で、いがみあうことのなんと愚かで醜いことか。
表現の自由の重要性については今更語るべくもないが、性の充足もまた人によって欠かせない人権のうちである。男女とも殆どの人は当然に性欲を持っているし、それを持つこと自体を禁圧されてはならない。ポルノ・フィクションによって精神的に満たされることを権利として否定するのならば、性の自己決定とは、内心の自由とはいったい何だったのか。
性の自由を訴えてきたはずの女性達が、今では自由な性の抑圧に諸手をあげて賛成し、多くの女性達がそれに同調する一方で、自分達の性表現を棚上げし、性差別を容認する様は、まったくかつての男尊女卑的価値観の転倒にしか見えない。その先にあるのは、男女ともに思想も欲求も禁圧された、窮屈な人権無視の社会に他ならない。
話は戻るが、まるで暴力性を伴わない少年向けの「ラッキースケベ」表現までもが、性暴力である、あるいはそれを助長するなどと言ってしまうことを看過していくと、性暴力という言葉の意味をどこまでも希釈するだろう。かつて性犯罪や強姦の言い換えにすぎなかったはずの「性暴力」という語を、単に絵を描いたり見たりする行為にまで援用しようとすれば、やがてそれは「性的搾取」や「家父長制」などと同じ、特に意味内容や学術的根拠を持たないフェミニズム・ジャーゴンの一つに成り下がり、かつて救済しようとしてきた「本当の」性暴力の被害者達を、むしろ救済の手から遠ざける結果にも繋がる。なぜ今日フェミニズムがカルトのように扱われているかと言えば、フェミニスト達のそうした「自分達の間でしか意味が通じない言語」を「自分達で勝手に作って」、「さも理解できない相手が悪いかのように論難する」手法が、完全にカルト宗教のそれと同じだからだ。もし、自分がそうしたカルトにハマっていないとするならば、自分達が他者を論難する時に向けてきた言葉を、本当に自分できちんと定義できているか、それが他者と共有できているか、自分自身には当てはまらないか、きちんと考えてみるといい。
BLの10%、レディコミの40%が性暴力フィクションであると先に述べたが、今回のように「無意味にキャラが裸になったり、アクシデント的に脱いだり、またはそれを異性に見られる」といった基準にあてはめると、BLどころか、少女漫画やTLまで含めた大半の女性向漫画アニメは性暴力フィクションであるとすら言えてしまう。特に恋愛漫画を描写する傾向の多い女性向けでは、有意にこうしたシチュエーションの発生確率が高くなり、ともすれば女性の方が性暴力表現を嗜好するという結論にもなるだろうが、本当にそのような議論的決着を望んでいる人がいるのだろうか。
己のミサンドリズムを満たすためだけに、このような差別的な攻撃に加担することは、ひいては女性の声や人権運動そのものが危険視され、差別主義と同一視される社会を築いていくのではないかと思う。「女性差別」や「性暴力」というマジックワードを振りかざせば社会がなんでも聞き入れてくれる時代は、いまや終わろうとしているし、終わらせなければならない。それは一部の女性にとってとても安易な手段ではあるが、しかしながら逆説的に性差別を肯定しかねない論理だ。男とか女とか関係なしに、差別とは、人権とは何だったのか、もう少し慎重に、そして真剣に一人ひとりが考えていくべきだ。
その中で、ゾーニングやレイティングのような、今日ではまるで正義のように語られながら、しかし明らかに差別性を内包するシステムについても、改めて検討し直してもらいたい。
BLの10%、レディコミの40%が性暴力フィクションであると先に述べたが、今回のように「無意味にキャラが裸になったり、アクシデント的に脱いだり、またはそれを異性に見られる」といった基準にあてはめると、BLどころか、少女漫画やTLまで含めた大半の女性向漫画アニメは性暴力フィクションであるとすら言えてしまう。特に恋愛漫画を描写する傾向の多い女性向けでは、有意にこうしたシチュエーションの発生確率が高くなり、ともすれば女性の方が性暴力表現を嗜好するという結論にもなるだろうが、本当にそのような議論的決着を望んでいる人がいるのだろうか。
己のミサンドリズムを満たすためだけに、このような差別的な攻撃に加担することは、ひいては女性の声や人権運動そのものが危険視され、差別主義と同一視される社会を築いていくのではないかと思う。「女性差別」や「性暴力」というマジックワードを振りかざせば社会がなんでも聞き入れてくれる時代は、いまや終わろうとしているし、終わらせなければならない。それは一部の女性にとってとても安易な手段ではあるが、しかしながら逆説的に性差別を肯定しかねない論理だ。男とか女とか関係なしに、差別とは、人権とは何だったのか、もう少し慎重に、そして真剣に一人ひとりが考えていくべきだ。
その中で、ゾーニングやレイティングのような、今日ではまるで正義のように語られながら、しかし明らかに差別性を内包するシステムについても、改めて検討し直してもらいたい。