電通で新入社員の高橋まつりさんという方が自殺したことに関して私は最近いろいろと思いを巡らせている。
なぜ考えるかというと別に彼女に思い入れがあったわけではなく、もっと世の中全体の問題点が見えてくる良いケースだと思ったからだ。
今日は、以前の記事で少ししか取り扱えなかった「パワハラ」をキーワードに日本社会の病について解いていきたい。
- 「パワハラ上司死ねよ」と言ってる人間こそ危険な人間
- 「電通はパワハラがひどいブラック企業」と個別的解釈をするバカになるな
- 現代人が失ったもの
1.「パワハラ上司死ねよ」と言ってる人間こそ危険な人間
高橋さんが亡くなったことがニュースで話題になっていこうしばしば見られたのが以下のようなコメントだ。
- パワハラ上司は今ものうのうと働いてんの?
- 電通ってこのクズ上司をクビにしないとか終わってんな
- 高橋さんの上司は同じ人間とは思えない
確かにこれらのコメントは優等生的回答であり、道徳的でありこれに疑問を持つことは不適切であるとさえ思われる。
もちろんこの上司がパワハラを敢行していたのであればその罪は罰せられなければならない。
ただ、それは司法に任せるとしよう。
ここで私が問題にしたいのは人々の向き合い方への恐怖である。
先ほどのような考えを発したり持っている人というのは間違いなく「私はそういうことをしないけどね」という傲慢さに溢れている。
これが怖いのだ。
あなたに聞きたい。
何が何でも、そしてどんな状況でも自分がパワハラをやらない自信があるのか?
パワハラをした上司はとてつもない悪人だったと断言できるのか?
何が言いたいかというと、あなたが将来的に「パワハラ」を「悪意」ではなく、「親切心」や「その会社の空気」からしている可能性があるということを指摘している。
繰り返しになるが、根拠なく「自分は大丈夫だ」という考えを持っている人間ほど危険な人物はいない。
ヒトラー体制において「線形すべき」社会の人々が、道徳的には完全に崩壊したという事実が教えてくれたのは、こうした状況においては価値を大切にして、道徳的な規格や基準を固持する人々は信頼できないということでした。
ハンナアレント『責任と判断』
そして、これらの感情的な慈悲深さが問題の本質を見ることをいつも遠ざけている。
そろそろこれをあなたも卒業してほしい。
この問題が討論される全体の雰囲気は、現在では過剰なまでに感情的なものとなっていますし、しかもあまり好ましくない感情で満たされていることが多いものです。この問いを提起する人は誰でも・・・、真剣な議論など不可能な次元に引きずりおろされることを覚悟しておかなければなりません。
ハンナアレント『責任と判断』
2.「電通はパワハラがひどいブラック企業」と解釈をするバカになるな
外から見ていると理解しがたい事件というのは電通のパワハラが導いた事件だけではない。
死亡までいかないものも含めれば、世の中では毎日のように起きている。
例えば、身近なレベルでいうと、会社や大学で「飲み」と呼ばれる知性が劣化した会合があるが、あれで死亡事故を起こすことなどもこの電通事件と大いに共通点がある。
こういった問題へ人々が与える解釈というのは先ほど同様以下のような「あいつらは悪人だった」というお粗末な解釈である。
- 周りにいる人なんで止めないの?
- 飲みサーってやっぱカスだね。
- 同じ人間とは思えない。
そしてそれをゴミ箱に捨て去り、「善人面した」人間たちは本質をとらえることなく問題を終わらせる。だから社会全体として凶行を繰り返す。
- 本当に彼ら・彼女らは悪人だったのか?
- 飲み会で死人が出ることを支持した周囲の状況はどういったものだったのか
- 私ももしその場にいたらそれを止められたのだろうか
ということを考えない。
あなたのような凡庸人ほど危険な人物はいない。
私は今、凡庸人といったが、この凡庸人というのは、自分の行動規範を会社、慣習、空気に全て委ね自分を「まっとうな人間」と考えている人間たちを指す。
一言で言えば、「思考停止」している人間たちだ。
しかし、考えてほしい。
現代社会では宗教なども権威を失い本当に信頼出来る外的対象などあるのか。
あったら教えてほしい。
だからこそ、そのような時代の中で信頼出来る人とは、目の前の対象に「疑問を抱ける人」であり、「懐疑的な人」なのだ。
このような習慣に従う人々よりも信頼できるのは、疑問を抱く人々、懐疑的な人々です。
ハンナアレント『責任と判断』
電通のパワハラ事件に関しては、
- もしかしたら私もやってしまうのではなかろうか
- この上司は、どうしてその行動を正当化したのか
- 周囲はなぜそのパワハラを支持したのか
と考えるのがあるべき姿なのである。
21世紀最大の犯罪と呼ばれるナチスの全体主義運動でさえ「悪意」のある人間の行動でなかったことをご存知か?
何十万人もユダヤ人を殺害する命令を下したアインヒマンを裁く際、多くの人が「悪事をなすには悪をなす意図が必要」という前提で臨んだ。
アイヒマン裁判で問題になったより広汎な論点の中で最大の物は、悪をおこなう意図が犯罪の遂行には必要であるという、近代の法体系に共通する仮説だった。
ハンナアレント『イェルサレムのアインヒマン』
しかし、この仮説は全く歯が立たなかった。
アインヒマンはただ、命令に忠実であり、仕事に忠実な人間でしかなかった。
電通のパワハラ上司も飲み会で騒いで人を殺す人間もアインヒマンと同じだ。
3.現代人が失ったもの
もちろん「何かを信じる」ことなしに人は生きていけない。
それは私自身そうである。
しかし、それが常に「正常」かどうかを疑う努力を現代人は失っている。
この疑うという活動は、哲学を持ってしかなし得ない。
これに関してカントは「愚鈍さは邪悪な心から生まれる」と主張したことがあります。この表現そのものは正しいとは言えません。思考する能力が欠如していることは、愚鈍を意味しません。高度に知的な人物においても、思考の能力が欠けていることがあるのですし、邪悪が思考の欠如の原因となることはほとんどありません。・・・ですからカントの用語法では、悪を防ぐためには、思考の能力としての理性を鍛える活動である哲学が必要であるということになります。
ハンナアレント『責任と判断』
愚鈍な行動や狂気は「高学歴」「高年収」と呼ばれる社会的地位のあるものでも起こしうるし、東大であろうとも飲みサーで死人を出している事実が今目の前にある。
アレントのいったように、「頭の良さ」と「思考する能力」は全く別だ。
そのバカは人を殺める力がある。
バカを卒業せよ。
おもしろき事なき世を面白く
ここでアレントを引用するのはおかしいと思います。何故なら彼女は「我々の中のアイヒマン」という発言に対して反論を展開していますから。全般的にこじつけが酷いです。アレントの引用でなく、ご自分の言葉で語れないのでしょうか。
「我々の中にアインヒマンがいる」とは書いていません。
以上。
私だって書いてませんよ
でも、「電通上司死ね」はそんなに危ないですかね。どう見ても筋金入りのクソですよ。
それに「電通上司死ね」=思考停止というのは早計ではないですか?とりあえず「電通上司死ね」の後に考えればいい事です。
本当に危ない人は黙ってニヤニヤしてますよ。