今回の記事はこちらの件について。
真木よう子、「冬コミ」参加表明に対してネットでは「ヲタをナメてる」など厳しい声
真木よう子のコミケ参加はなぜ炎上したのか ビジネスライクな姿勢が「アマチュアリズムに反する」
端的に言えば、芸能人がクラウドファンディングで資金を集めてコミケにフォトマガジンを出すことを企画し、オタクに激しくバッシングされた件だ。
表に出ている記事はオタク側の姿勢に同調的だが、一方でそうしたオタクの反応を「ムラ社会」として非難する声もあった。
本件は何故批判されたのか?またその批判を「ムラ社会」として非難した人々の反応は、普段のオタク叩きの文脈とは異なるのか?
まずは問題を整理しよう。
今回問題視されたのは「芸能人がクラウドファンディングで800万円の印刷費を集めてコミケで写真集を出そうとした」ことである。
では、この中のどれが問題視され、参加辞退に至るまで炎上したのだろう。
芸能人が売名目的でやってきた……という人が多かったが、それは観測範囲からはなんとも言えない。事実だけ見ると、少なくともコミケの理念である「あらゆる表現を受け入れる場」としては、彼女の参加を拒否する十分な理由はないように見える。
コミケをよく知らない有名人が参加すると混乱を招く、という人もいるが、どのレベルで「よく知って」いれば問題ないのかという疑問はある。今回の問題ではよく叶姉妹が引き合いに出されるが、では叶姉妹がコミケについてサークル参加者として十分な知識を持っていたかどうかは、第三者からは分からない。聞く限りよく調べてはいたと思うが、なにせ初サークル参加で初壁配置である。普通だったら、ある程度コミケ慣れしてる人でも当日になってみないと分からない問題も多く出るだろうし、それなりに周囲の人間に負担もあったことだろう。それでも、コミケに参加したいという意思があって、さらに自分にできる範囲の努力をした上であれば、あとはお互いに助け合いの精神で乗り切るのがコミケだ。始める前から混乱を前提に参加を拒否するのはコミケの主旨に反するだろう。
「コミケへのリスペクトがない」という人もいたが、これも漠然とした意見だ。コミケ参加者の全てがコミケにリスペクトがあることは理想ではあると思うが、現実にそうであるとは自分には思えない。コミケに参加する目的や、コミケに対する姿勢などは参加者によって様々だ。単に「売れたい」だけでよく知らずにコミケに参加してるサークル参加者だって沢山いるとは思うし、今回の真木よう子が特別だとは自分には思えない。
「そもそも当落が出ていないうちから本を出すことを前提にクラウドファンディングで資金を集めるのがおかしい」という意見には一定の正当性があるとは思うが、はたして今回のように叩かれるほどの理由になるだろうか。
「コミケは自己資金でできる範囲内で参加するものであって、クラウドファンディングで印刷費を集めること自体おかしい」という意見も微妙なラインだ。友達からお金を借りて印刷費にして本を出す人だっているだろうし、どうしても出したければ(推奨はできないが)ローンを組んで本を出す人だっていたっていい。
下記ツイートのリプライには「コミケでは過去にファンド名目の詐欺が横行したことがあるため」とあったが真偽はよく知らない。こちらのツイートでも色々と今回の問題について説明されているので一読されたし。
https://twitter.com/tarnya0730/status/902015654970015744
下記ツイートのリプライには「コミケでは過去にファンド名目の詐欺が横行したことがあるため」とあったが真偽はよく知らない。こちらのツイートでも色々と今回の問題について説明されているので一読されたし。
https://twitter.com/tarnya0730/status/902015654970015744
800万という法外な印刷費が商業主義的に捉えられたというのもあるだろうが、実際一部の壁サークルの印刷費はそのくらいかかってる人もいることにはいるし、必然的に利益だってあがっている。
ただ、コミケで利益をあげること、これはなかなかデリケートな問題だ。意図的に利益をあげようとしなくても、本が売れれば当然に利益はあがる。むしろ、売れる本を出す人が意図的に利益を出さないようにする方が問題で、そうなると売れる(魅力のある)本ほど単価を下げなくてはいけないことになり、売れない本ほど単価が高いという逆転現象が発生する。これではむしろ売れる作家は安くて上手いから売れまくり、売れない作家は高いし下手だから誰も買わないという、ダンピングに近い状態が発生する。こうした不公平を生まないためにこそ、同人誌にはある程度500円なり1000円なりといった相場があり、大抵の人は一律そうした金額で売る慣習が出来上がっている。これは売れない人でもギリギリ資金回収が出来るか出来ないかくらいの金額で、これを下げると赤字のサークルがもっと赤字になるだけで、売れるサークルはさして損をしない。本来コミケが守らなければならないアマチュアをこそ淘汰してしまうのは本末転倒だ。
一方で、コミケで利益をあげているサークルに対する一般参加者やネットユーザーの風当たりは強い。統計的に、コミケで頒布されている本の9割は二次創作であり、著作権法上の問題を抱えている。親告罪とはいえ権利者のお目こぼしで成り立っている同人文化それ自体に懐疑的な向きも少なくない。その中で利益を得ているとなると、尚更非難の目が向きやすい。これは自分でもしばしば経験している事実だが、実際にコミケに参加している者よりも、コミケに行ったことのないネットユーザーのオタクの方がそうした理由で同人バッシングをする傾向にある。今回の炎上のうちの何割かも、そうした実際にはコミケに親和的でない人々によるものであるようにも思うので、それら全てがコミケ参加者の反発であるかのように言われるのもいささか疑問は残る。
「芸能人がクラウドファンディングで8万円の印刷費を集めてコミケで写真集を出そうとした」なら(芸能人がなんでそんな金額を捻出できないのかと思われるが)ここまでの批判はあがっていなかったと思うので、やはり「クラウドファンディング」という手段を批判しているわけではないように思える。一方で、その金額の多寡は一つの原因ではあろう。「商業流通の商品を頒布してはならない」というのはコミケの公式なルールではあるが、それ以上にコミケには(そして一部のネットユーザーには)商業主義そのものに対しての風当たりが強い側面があるのだ。
一方で、芸能人がコミケに参加することの是非もあるだろう。最初にあげた記事中にもあったが、コミケは元々アマチュアのための表現の場である。当然に何のネームバリューもない一般人が基本的には参加するものと考えられている。かつてはプロの漫画家が参加すること自体に否定的な者もいたし、企業スペースの存在を受け入れることにも是々非々があった。最近では見かけないが、コミケで知名度をあげてプロになった者はコミケを卒業するべきだ、なんて意見を言う者もいた。
そこにTVに出るようなネームバリューの高い芸能人やアイドルが参加すれば、どんな作品を出そうが当然に一般人よりもモノは売れる。一般人が一生懸命に描いたフルカラーの漫画本より、大物漫画家の落書きペラ本の方が、残念ながら売れてしまうのは事実だ。まして芸能人やアイドルがコミケで写真集やCDを出すとなると、それは半ば「握手券」的な意味合いを持ち、その作品のクオリティ如何に関わらず、当人のバリューを求めて買いに来る人達もいるだろう。それは真剣にモノ創りをしている人達の場では一種の「ズル」に見えなくもない(芸能人の写真集が、真剣なモノ創りでないわけではないと思うが)。真木よう子ほどの知名度もあれば、最初から商業流通に乗せてモノ作りをすることも可能なわけで、それができないアマチュアのための場であるコミケであえてモノ作りをする意味が問われるのも仕方のない側面もある。
また、コミケというイベントそのものの主旨が変容することへの恐怖感もあるだろう。極端な話を言えば、何十人というアイドルグループ、人気アーティストや芸人などが大挙してコミケにサークル参加して、一人一枚のCDなり写真集なりポエムなりを手売りしてくれたらそれだけで行列が出来るし、壁サークルを芸能人が独占するような事態にもなりかねない。そうした芸能人を目当てに、コミケのマナーに理解も馴染みもない一般人が大量に来場することも考えられる。実際今回の件でも、真木よう子は自分のファンコミュニティのための活動にコミケという場を借りたいと主張していた。となると、やはり訪れるのもまたコミケに親和的でない一般人となる。そうした人々が今後増えれば増えるほど、一般参加者の構成は大きく変動し、ただでさえオタクに無理解、ないし差別的な感情を抱く一般人が現在においても少なくないことを踏まえると、これまでコミケが築き上げてきたルールやマナーも形骸化していき、最終的にコミケが全く別の性質のイベントへと変容する可能性もある。長い不況の中、巨大化したコミケのマーケットを目当てに、そうした動きが今後起こらないとも限らない。
そもそも、オタク界隈にはいまだ根深いマスメディア不信が色濃く残っている。これはマスメディア側の責任なのだが、彼らはかつてオタク集団に対して一方的に犯罪者予備軍のようなレッテル貼りを展開し、オタク達が社会全体において厳しい迫害に遭う原因を作ってきた歴史がある。必然的に、芸能人などのいわゆるマスメディア側の人間に向ける目線は厳しい。叶姉妹がコミケで受け容れられたことがそもそもイレギュラーなのであって、あれは彼女らのコミケ参加者に徹底的に寄り添うサービス精神が成し得た奇跡であって、コミケに参加する人々からしたら、そもそも芸能人が来ること自体に嫌悪感を抱く者が多くてもおかしくはない。
しかし、では「一般人がクラウドファンディングで800万円の印刷費を集めてコミケで写真集を出そうとした」なら叩かれていなかったかというと、自分はやはりある程度叩かれていたと思う。ならば炎上の根本的な原因は、必ずしも芸能人だからではないことになる。
自分は、一番致命的だったのはおそらく「写真集」の部分にあると思う。
推測だが「芸能人がクラウドファンディングで800万円の印刷費を集めてコミケで漫画を出そうとした」なら、受け取られ方が今と全く違っていたように思う。写真集を作ることが安易だとは思わないが、漫画を一本描きあげることの難しさはコミケ参加者の多くが了解しているところである。芸能人に漫画が描けるのか、と眉をひそめる者も多いだろうが、物珍しさに応援する声は多かったように思う。叶姉妹の出した本だって、前半部は本人のイラストで占められていたわけで、それが叶姉妹の凄いところでもある。
そもそも「コミックマーケット」の名前にある通り、コミケは基本的には漫画の祭典である。黎明期にはコスプレに対する扱いの是非も問われてたし、さらに実写モノの写真集となると今でも肩身の狭い部分がある。コミケットの運営側だって、必ずしも実写モノの文化に理解を示してくれるわけではなく、過去には一部のROMサークルが明確にコミケから排除されたりもしてきた。自分はコスプレROM等には元から偏見もなかったし、今では自分でもROMを撮影してリリースしたりしてはいるが、やはりコスプレイヤーに話を聞くと、そうした人々に拒否感を示す参加者も多いと言う。まして、コスプレでもなんでもない写真集となれば、さらにコミケや同人の世界では風当たりが強くなる。
二次元フィクションを中心とする趣味の世界に傾倒するオタク達にとって、実写モノの表現自体がそもそもデリケートな分野である。二次元をベースにしたコスプレがギリギリ、そこからさらに逸脱して単なる写真集となると、それをコミケでやる必要はあるのか、というのがコミケ全体になんとなく通底する空気だと思う。それ自体は特に明文化されたルールではなく、実際に漫画アニメとは無関係の評論や造形物なども売られているわけで、あらゆる表現を受け入れることを明言している以上、排除することに確たる正当性があるわけではないが、先に述べたマスメディアへの不信も相まって、オタクの祭典たるコミケで芸能界の真似事をやる意味はないのではないか、というのは少なくない参加者の感想なのであろう。
そうした、コミケにおけるいくつかのデリケートな部分を、あのクラウドファンディングはまるで理解せず踏み込んでしまったので、上記のような様々な理由で反発を受けた、というのが実際のところだろう。おそらく、今回の件を批判していた人達も、必ずしも批判の理由は一様ではない。批判者の全てがコミケ参加者ですらないと思うので「ムラ社会」という指摘そのものが的外れの可能性もある。
そうしたデリケートな問題を抱えながら、なお彼女のコミケ参加はルールに違反しているわけではない、というのも一つの問題だ。たとえば今回のような形でコミケに参加しようとする芸能人は今後も増えてくる可能性が高いが、そうした人々を特に排除する正当な理由がない以上、そのうちコミケは芸能人が主導する一般人向けのイベントになってしまう危険性だってある。これはコミケのレギュレーションの問題だ。
そうなった時に、元いたオタク達に居場所が残されるのか、元々のコミケのマナーが守られるのかも疑問だ。徹夜組の禁止だって、詰まるところコミケの内輪ルールであって、一般人であれば欲しい商品を買うために徹夜で並ぶこともあるし、メディアも当然のように「人気商品のバロメーター」として報道する。コミケ参加者は当たり前のようにSNSなどで徹夜組を強い言葉でバッシングするが、あれは非オタクには奇異の目で見られてはしないかと自分的にはハラハラすることもある。
コスプレのまま帰宅してはいけないとか、トイレで着替えてはいけないとかいうルールも同様で、渋谷のハロウィンに集まる若者達はそんなルール守ってないし、そんなルール自体を共有していないので、当然に守る必要も感じていないだろう。
ではなぜ上記のようなルールが形成されたかと言えば、コミケ参加者はコミケに参加している時点で、ある種コミケという巨大な集団に帰属するような性質を持つからだ。コミケの参加者が迷惑な行動を取れば、一般人はコミケというイベント、オタクという集団そのものを問題視するようになる。そうすればイベント自体の開催が危ぶまれる。それはコミケというイベントが我々の社会において特異な存在だからだ。コミケが仮に「ムラ社会」だとしたら、そうせざるを得なくなった責任の大部分は「ムラ」の外側にこそある。だからこそ、こうしたコミケの内輪ルールが必要とされてきたのであって、コミケが仮に一般人のためのイベントとなり、コミケ参加者が単にオタクではなく一般人と見做されるようになれば、徹夜組だってコスプレだって、コミケというイベント全体の問題ではなく、一部の一般人のマナーの問題になる。街中の酔っ払いを居酒屋がわざわざ取り締まらないように、問題が起きぬよう徹夜列をわざわざ高い運営費を割いてまで形成する必要さえなくなり、既存のルールは形骸化するだろう。
そうなった時、一般人達は元々コミケにいた我々にどういう反応をするだろうか。偉大な先人達と敬意を示すものはおそらく少数派だろう。むしろ、以下のようなやり取りがあちこちで行われるようになるんじゃないかと自分は思っている。
「なんで徹夜したらダメなの?新作ゲームのために徹夜するなんてみんなやってるじゃん」「なんでコスプレで帰ったらダメなの?ハロウィンではよくあることじゃん」「ていうか、子供が来るかもしれないとこで、こんな本を売ってる方が非常識でしょ。ここから出ていけ!」
……自分は決して荒唐無稽なことを言ってるとは思わない。いわゆる一般人の感覚というのはそういうものだと思っている。実際に今回「クラウドファンディングで印刷費を集めるより、boothなどで二次創作グッズを売ってる方が問題だ」と言っていた者もいる。それはそれで一つの事実だ。凡その同人作品は様々な理由から、必ずしも法的にクリアではない。それでも同好の士のために互いが集まり、互いにモノを作り合っていて、それが今日のコミケのエネルギーに繋がっている。だが、その存続のために作られた内輪ルールが必ずしも尊重されるとは限らない。ゆくゆくは一般人のためにそのルールは外界と平均化され、クローズドな文化ゆえに生まれていた熱量を失って形骸となる日が来るのかもしれない。
イキりオタク、という言葉が最近あるが、これはどちらかといえば「一般人的なオタク」といった方が正しい表現だと自分は思う。一般人は、大抵イキっているのだ。彼らはマジョリティなので、自分達のルールが社会全体のルールであるように錯覚しがちである。先のエロ本をコンビニから排除せよという訴えも、決して特異な政治主張を持った異常な集団だけが言っているというよりは、自分をマジョリティだと思っている「一般人」の感覚というように見える。そうした人々に居場所を奪われてきた人たちこそが「オタク」であり、コミケはそうした人達のためにずっと居場所を提供してきた。
今、そんなオタクたちの祭典が「排外的」だと言うのなら、それでもいいのではないかと自分は思う。「排外的」だからこそ優しい空間というのが世の中にはあって、そういう空間こそ今の世の中に必要な気がする。
そしてその「排外性」まで含めたコミケについての十分な理解を、参加者のみならず社会全体に対して求めるべく、今後もきちんとコミケを理解している人々がその理念や歴史について語ってゆくべきだとは思うし、今後のコミケのレギュレーションについて考えることもまだまだ多いように思う。今回の件、単に雑多な議論に終始するには勿体無い事例であったのではないだろうか。