日本漁業の歴史の中で獲れなくなった魚の代表例として思い浮かぶのがニシンだ。ニシン漁は江戸期から戦後にかけて北海道を中心に一大産業となり、多くのニシン長者を産んだ。身は昆布巻きや燻製として、卵は数の子として広く親しまれてきた。しかし、現在の漁獲量は往時の1%にも満たず、輸入品が台頭している。
ニシンが枯渇した背景には、質より量を追い求める漁の形態や、資源の回復力を過信して規制を設けずに漁を続けたことがある。資源減少が近年話題となっているクロマグロなどと通じる問題がある。
北海道沖の日本海に浮かぶ焼尻島。クルマで走れば一周20分程度の小島では、漁業が約200人の住民の重要な生活の糧となっている。漁港を見下ろす高台に、古びた木造建築の家が残る。黒檀や檜をふんだんに使い、蔵も備えた延べ床面積569平方メートルの広大なつくり。建造当時は瀟洒な豪邸だっただろうその建物は、北海道の長者番付十傑にも入った小納家の旧邸だ。小納家の豊かな財を築き上げたのは、島近海に来遊するニシンだった。
文化財として邸宅を保有する羽幌町によると、小納家は明治17年ごろに石川県から焼尻に入植した。当初は雑貨店や郵便局を営んでいたが、ニシン漁の権利を譲り受けたことで一気にその財を膨らませた。
焼尻は元々、ヤンゲシリと呼ばれるアイヌの居住地だった。江戸時代中期から松前藩の商人がアイヌの住民を雇ってニシン漁を本格的に始めた。幕末期には蝦夷地への定住が解禁されたことで出稼ぎ漁師が急増した。
マグロに通じるニシンの問題
ニシン漁は明治20~30年代に最盛期を迎える。人口は2000人を超え、島全体で2万トン以上のニシンが水揚げされた。小納家のニシン御殿が建ったのもこの頃だ。しかし、以降は不漁と小幅な回復を繰り返しながら徐々にニシン漁は衰退。昭和30年代には、ニシンの産卵・放精によって海が白く染まる群来(くき)は全く見られなくなった。小納家もこの時期にニシン漁から撤退。昭和50年代に羽幌町に寄贈されるまで、ニシン御殿は無人の廃墟となった。
焼尻のマグロ漁師、高松幸彦さんは、北海道のマグロ漁師約70人が参加する「持続的なマグロ漁を考える会」の代表だ。減少していくマグロ資源に危機感を覚え、2014年に会を立ち上げた。高松さんは「日本漁業の本質的な問題はニシン漁の頃から変わっていない」と話す。