■無意味な訓練の意味
北朝鮮から日本に本当にミサイルが飛んでくるのか、現在のところ可能性は低いと見るが、究極的には分からない。だが仮に本当に飛んでくるとしても、こうした訓練は意味がない。小学校の体育館に逃げ込んで身を守れるのか。体育館に集まった方が安全だと判断する根拠はどこにあるのか。頭を抱えたところで、落ちてくるのはミサイルであり、対処法は基本的にない。
政府は、グアム方面に発射されたミサイルを日本上空で迎撃すると言い、島根、広島、高知の3県に地上配備型迎撃ミサイル「PAC3」を配備した。だがこれも無意味だ。日本上空を通過するときにはミサイルは高高度を飛んでいるためPAC3で撃ち落とせない。
北朝鮮が米本土に向けて撃つミサイルを日本が撃ち落とすなどと言っているが、これもばかげた話。この場合、ミサイルは日本上空を通過しない。
これらに共通しているのは危機認識の前提や、その対処方法に「全く合理性がない」という点だ。太平洋戦争末期に政府が「竹槍(たけやり)で爆撃機B29を落とす」と言っていたのと変わらず、見ているこっちが恥ずかしくなる。
ではなぜ無意味なことをやるのか。そこに別の意味があるからだ。つまり社会的効果を見込んでいる。戦時中、竹槍でB29を落とす訓練に「そんなのは無意味だ」などと言おうものなら、「お前は何を言っているんだ。非国民だ!」と爪はじきにされた。いま行われている弾道ミサイル避難訓練はこの構造とよく似ている。つまり不合理に屈する国民を生産するという社会的効果がある。
■朝鮮戦争にこそ原因
大いに懸念されるのは、こうした訓練を繰り返すことで、人々の心が「とにかく頭を抱えるべきなんだ」となり、同時に「なぜ、こんなことになっているのか」という問いが消えてしまうことだ。
なぜ日本がミサイル攻撃を受ける可能性があるのか。なぜ私たちはそこまで憎まれているのか。なぜそれほどの犠牲を強いられるのか。こうした根本的理由を問うことをやめ、せいぜい「あの国は理解できない」などという説明で納得した気になってしまう。
だが当然ながら問題はそんなに単純ではない。もつれた歴史の糸をほぐしながら考えなければいけない。
これは朝鮮戦争が終わっていないことに起因している。国際法的には今も戦時であって、一時的に休戦しているに過ぎない。この状態が60年余り続いているのは異常だ。米国はこの戦争の当事者であり、だから北朝鮮は、米国に対抗するために核開発とミサイル開発をやめない。
この構造の中でなぜ日本に危険が及ぶのか。それは日本が米国の前線基地であるからだ。60年以上続くこの異常な状態を、アジアの住人が主体となって解消しなければいけないと考えるべきだが、日本人の多くにそうした発想はない。
■本質から目そらすな
「東アジアの安全保障環境が厳しさを増している」という理由づけで、安倍政権は2014年7月に集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、翌年安全保障関連法制を成立させた。このとき、集団的自衛権行使の前提として「存立危機事態」にあることが条件とされた。「日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」事態だ。
当時、国会で挙げられた事例(ホルムズ海峡封鎖)と比べれば、北朝鮮のミサイル問題は、存立危機事態にはるかに近いと言えるだろう。では、その「存立危機事態」はなぜ生じているのか。原因は明らかに米朝関係と日米安保体制に求められる。この現実から目をそらしてはいけない。
こうして全体を俯瞰(ふかん)して分かるのは、ミサイルが飛んでくるかもしれないと言って行われる避難訓練がいかにばかげた行動であるか、ということだ。考え、解決しなければいけない問題は別の次元にある。頭を抱える練習をしたところで、何も守れはしないのだ。
※本稿は、『神奈川新聞』8月26日朝刊に掲載されたものです。
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