「匠の記憶」第7回 レッド・ツェッペリン担当(当時) 折田育造さん

 レッド・ツェッペリンのジミー・ペイジによるリマスタリング・シリーズ、最後のタームとなる『プレゼンス』『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』『コーダ(最終楽章)』が7月31日に配信されました。
 これを記念してmora readingsでは、レッド・ツェッペリンの日本での担当としてその「伝説」を最も近い場所で目に焼き付け、「胸いっぱいの愛を」など印象的な邦題を生み出したその人、折田育造さんにインタビューを実施。生粋の音楽人としての確かな熱量に裏打ちされた、ここでしか読むことのできない貴重な証言の数々をお楽しみください。

 


 

インタビューの様子。(イラスト:牧野良幸)

 

――折田さんは1965年に日本グラモフォンに入社され、69年にレッド・ツェッペリンがデビューしたときに初代担当になられたわけですが、まずは当時の状況を教えてください。

折田 67年の1月に、アトランティック・レーベルがビクターからグラモフォンに移ってきたんだよね。ビクターはジャズのタイトルにばかり力を入れていて、リズム&ブルースのヒット・レコードをいっぱい持っていたアトランティック側はそれが気に入らなかった。だから俺たちは、まずは向こうでヒットしたものは全部出そうと。営業は堅く売れるジャズを出したがっていたから、編成会議ではいつも大喧嘩してたけどね(笑)。そんな中から68年には、前年に飛行機事故で亡くなったオーティス・レディングの「ドック・オブ・ベイ」の大ヒットが生まれた。でもその後、黒人のリズム&ブルースは急速に売れなくなっていってね。でも、グラモフォンは当然のことながらイギリスのポリドールからリリースされていたジミ・ヘンドリックスとかクリームとかも持っていて、そういうのは売れていたんだ。そういうこともあって、68年半ばには会社としてもロックに力を入るようになっていたんだよ。そしたら、10月の終わりにニューヨークのアトランティックから連絡があったんだ。今度、レッド・ツェッペリンというロック・バンドと、20万ドルという破格の契約金で契約したと。

――リズム&ブルースの凋落と、ハード・ロックの原型としてのブルース・ロックの躍進があって、そこに新たな可能性を秘めたバンドとしてツェッペリンが登場したということなんですね。

折田 そう。で、11月の終わりに音が来たのよ。1枚目はイギリスでは12月に出たけど、アメリカでは69年の1月。日本では1月の編成会議にかけて、当時としては一番早い6月25日の発売になった。そのときに日本では宣伝用にツェッペリン飛行船の風船を作ったの。これを俺がアメリカに行くときに持っていったら、アトランティックのやつらからえらく受けてさ(笑)。欲しいって言われて、あとからずいぶん追加オーダーしたよ。

――当然、「幻惑されて」などの邦題も折田さんが付けられたんですよね?

折田 もちろんそうだよ。苦労して付けた覚えがあるね(笑)。

――では、その「幻惑されて」をハイレゾ音源で聴いてみましょうか。

 

♪「幻惑されて」
(原題:Dazed And Confused|試聴

 

折田 やっぱりかっこいいね。ツェッペリンのいいところはドラマティックにグーッと盛り上がってくるところだよね。その匙加減がいいんだ。これは音楽的にどうこうというよりも、感覚、センスだと思うんだよね。

――1曲目の「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」のイントロも、ハイレゾで聴くとそのすごさがより感じられると言われている部分ですので、それも聴いてみましょう。

 

♪「グッド・タイムズ・バッド・タイムズ」
(原題:Good Times Bad Times|試聴

 

折田 うん、これだよ! ジミー・ペイジというのは本当に音にこだわっているからね。それが分かるよね、これを聴くと。71年にツェッペリンが来日したときに、来日公演をレコーディングしたんだ。広島以外の全公演をね。それがリリースされなかった理由は簡単でさ、ペイジが音を聴いて“ワースト・レコーディング(最低の録音)”って言って、発売を許してくれなかったからだよ。自分の理想とする音じゃなかったんだろうね。そのあとのディープ・パープルの『ライヴ・イン・ジャパン』がなんで出たかっていうと、エンジニアとして、かの有名なマーティン・バーチを呼んだら来たからだよ。音の良さにメンバーが納得してくれたんだ。

――ツェッペリンの1枚目が出たときの日本での評判はどうだったんですか?

折田 あのころ音楽雑誌は『ミュージック・ライフ』ぐらいしかなかったけど、待ってました! という感じだったよ。困ったのは写真がなくてさ、同じ写真ばかり使うしかなかった(笑)。あと、深夜ラジオが乗ってくれたね。まだ若かった福田一郎さんとか中村とうようさんとかがDJをされていてね。

――2枚目も同じ69年に出ますよね。

折田 これはペイジに知られたら怒られちゃうんだけどさ、向こうから来たハブ巻き(上下2枚のフランジがなく、ハブのみにテープが巻かれ状態)のマスターテープを、会社のあるやつがドジってバラバラにしちゃってさ、元のきれいな状態に戻すのが大変だったんだよ(笑)。2枚目を最初聴いたときには、やっぱり1曲目の「胸いっぱいの愛を」がかっこよかったよなあ。

――もちろん「胸いっぱいの愛を」という邦題も折田さんが付けられたんですよね? もうそれだけで尊敬しますけど(笑)。

折田 これも考えるのにかなり苦労したんだよ!(笑)

――ではこれも、ハイレゾで聴いてみましょうか。

 

♪「胸いっぱいの愛を」
(原題:Whole Lotta Love|試聴

 

折田 よくこんなリフが考えられるよね。それをベースがフォローしていく感じが、すごく聴き取れる。で、やっぱり、そのあと入ってくるボンゾのドラムがすごいんだよね。

――当時聴いたときの衝撃が甦りますか?

折田 いや、それは違うな。だって当時は初めて聴くわけだから、感激の度合いが全然違うよ。思い出すのは、あのころってレコードにするときにデシベル(音量)を抑えちゃってたのよ。会社の規定があってさ。これ以上デシベルを上げると針飛びしちゃうっていうことでね。でも俺は、工場へ行ってカッティングのチェックをして、デシベルを上げさせてたんだよ(笑)。じゃないとしょぼい音になっちゃうからさ。

――マニアの間では、当時の日本グラモフォンの国内盤はオリジナル輸入盤よりも音がいいと言われているのですが、そういう理由があったんですね。

折田 へえ、そんなこと言われてるんだ。じゃあそのせいだろうね。

――その後、70年に折田さんは新たに設立されたワーナーパイオニアに移り、ツェッペリンを含むアトランティックもそちらに移籍しますよよね。

折田 71年の正月がワーナーパイオニア創設初の新譜発売日で、ツェッペリンの「移民の歌」のシングルもそのひとつだったね。これは10万枚売れたよ。で、そのあと1月25日に3枚目のアルバムが出た。前年12月にグラモフォンから出て、すでに売れに売れていたんだけどね。

――ということは、3枚目はグラモフォンとワーナーの両方から出たんですか?

折田 そうだよ。「移民の歌」のシングルはアトランティックに連絡して、ワーナーからしか出せないようにしてくれって頼んだんだけどね。それでさ、ワーナーパイオニアは設立に当たって、70年11月に記者発表をしたんだけど、そのときにアメリカからアトランティック社長のアーメット・アーテガンが来てくれたの。その場で彼は、“当社のレッド・ツェッペリンを日本に行かせるから”ってぶち上げたんだよ。それで71年9月の来日が決まったわけ。武道館を2回、広島県立体育館、大阪フェスティバルホールを2回。俺はライブを観て、ツェッペリンというのは本物だと感じたね。他のバンドとは違う、別格だって。

――広島はチャリティ・コンサートでしたね。

折田 あれはペイジというか、バンド側からの発案だったね。原爆記念館ではペイジもプラントもすごくショックを受けていた。そのあと、広島市長に会ってコンサートの売り上げの700万円を寄付したんだ。で、その夜がライブ。広島県立体育館は古いから、音がでかすぎて壁が崩れたんだよ(笑)。

――チャリティを行う反面、彼らの行状はかなり悪かったようですね(笑)。

折田 世界中でこれよりひどいのはザ・フーぐらいしかいないと事前に聞かされていたけどね(笑)。広島から大阪へは夜のうちに寝台列車で移動したんだけど、付いてきてたグルーピーを探してペイジが他人の部屋を勝手に開けまくるしさ。大阪のロイヤル・ホテルでは、ボンゾがお土産に買ったおもちゃの日本刀を振り回したっていう話があったけど、あれをやったのはアトランティックから来ていたフィル・カーソンなんだよ。でも確かに部屋は壊したね。東京でもそうだった。めちゃくちゃにしたよ。まったく破天荒だったよな。

――ちなみになんですが、そうした費用というのは誰が持ったんですか?

折田 事前にアトランティックから連絡が来てたんだよ。やつらはいろんなことをやるから、その費用はあとでまとめてアトランティックに請求してくれって。で、アトランティックはそれをツェッペリンの印税から差し引くんだ。だから、やつらは自分でちゃんと払っていたってことなんだよ。そこが偉いよね(笑)。

――そのあとの3枚目、4枚目あたりで、ハイレゾで聴いてみたい曲はありますか?

折田 ギターの切れがいいってことで、「ブラック・ドッグ」がいいかな。

 

♪「ブラック・ドッグ」
(原題:Black Dog|試聴

 

折田 うーん、ペイジのリフがとにかくすごいよね。でもそれだけじゃなくて、ギタリストとして多彩だということもよく分かるね。

――『聖なる館』、『フィジカル・グラフィティ』の中だといかがでしょうか?

折田 「カシミール」(『フィジカル・グラフィティ』に収録)だね。あの途中の盛り上がりのところとか聴きたいね。

 

♪「カシミール」
(原題:Kashmir|試聴

 

折田 お、いいね、やっぱり立体感が違うね。ツェッペリンというのは、ブルース、ジャズ、フォークから、こういう民族音楽風なものまで、本当に幅広く取り入れていたよね。それが当時の評論家には分かってなかったんじゃないかな。なんて言うか、フェイクとして捉えられてしまったというかさ。だからこうしてリマスターされた音源を聴いて、やっと最近じゃないか、ツェッペリンのすごさが本当に理解されるようになったのは。ツェッペリンって、そのエネルギーを聴いちゃうみたいなところがあるから、今になってやっと音楽的に聴いて、音楽的に評価できるようになってきたというかさ。

――今年の7月31日に新たにハイレゾでリリースされたのが、最後の3作、『プレゼンス』、『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』、『最終楽章 (コーダ)』です。ここからは、ボンゾのものすごいドラミングが聴ける「モントルーのボンゾ」(『最終楽章 (コーダ)』に収録)を聴いてみましょうか。

折田 こんな風に聴こえるんだね。昔はまとまりで聴いていたけど、ひとつひとつの太鼓の音がしっかりと聴こえるよね。ボンゾって力任せに叩いていただけじゃなかったっていうことも分かる(笑)。あと、小さい音で聴いても音圧が感じられるよ。

――振り返ってみて、ツェッペリンがロック史に残したものは何だったと思われますか?

折田 誰もツェッペリンの真似はできないね。影響はいっぱい残ってるよ、バンドやってりゃ、彼らみたいになりたいってみんな思うしね。でもロバート・プラントみたいに声が出るやつも、ジョン・ボーナムみたいに叩けるやつもいない。そういう真似できないすごさっていうのを残したっていうかな。あと、すごくイギリスのバンドだなという気がするよね。アメリカからはこういうバンドは出ないね。アメリカにはブルースがその場にあったけど、イギリスはそうじゃないから。よそ者なんだよ。でも、本場にいないからこそ、客観的に見ることができるわけで、それがよかったんだよ。あとさっきも言ったけど、ツェッペリンにはいろんな要素が入ってるよね。ブルースやジャズだけじゃなくて、ブリティッシュ・トラッドとかさ。そういうところもすごいし、何と言っても「天国への階段」はその集大成だよね。この曲なんかを聴くと、ちくしょう!って気になるね。

――なるほど、折田さんにとってツェッペリンというのは、“ちくしょう!”と言いたくなる対象でもあるんですね?(笑)

折田 そりゃそうだよ。ああいうバンドを作れたらどんなにいいだろうと思うよね。世界中のやつらが思ってるよ。ちくしょう!って(笑)。

(インタビュー:細川真平)

 

 

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【プロフィール】

折田育造(おりた いくぞう)

1941年11月29日 生まれ。
1965年3月 慶應義塾大学経済學部卒。
1965年4月日本グラモフォン(株)[現ポリドール(株)]入社。
1970年10月ワーナー・パイオニア(株)[現(株)ワーナー・ミュージック・ジャパン]入社。
1986年1月 同社邦楽部部長。1988年9月同社洋楽部部長。
1989年11月 ウィア・ミュージック(株)代表取締役専務を経て1990年9月 同社代表取締役社長に就任。
1991年8月 (株)ワーナー・ミュージック・ジャパン代表取締役社長就任。1995年2月 同社退職。
1995年3月ポリドール株式会社代表取締役社長就任

洋楽・邦楽問わず、あらゆるジャンルの音楽に精通する、根っからの音楽人間。
現在も、折田氏の信奉者は業界でも数多い。

インタビュー&テキスト:細川真平
1964年、香川県生まれ。早稲田大学卒業。出版社、レコード会社勤務を経て音楽ライターに。ジェフ・ベックほか多数のCDライナーノーツ、国内外有名アーティストへのインタビュー、音楽誌/ギター誌の記事等を手がける。