死んだじいちゃんが生前ぼくによく言ってくれた言葉。な、わけわない。そんなことを言って聞かせてくれていれば、今頃がばいばあちゃん系の本でも出版しているはずである。あなたがもし善人であるならば、自分のことは二の次にして、他人のために注力するだろう。たとえ見返りなど何もなくても。
本物の善人とは
あなたが会社勤めのサラリーマンだとして、朝の通勤時間帯の一分一秒を争っているときに、具合の悪そうな人を見つけたら、近くの交番や病院まで連れて行ってあげますか?道端に空き缶や空き瓶が落ちていたら、わざわざ拾ってゴミ箱まで持って行って捨てますか?
たぶん、あなたはそこまでする人のことを見てきっと偽善者だと思うだろう。他者からするとその偽善的な行動は素直には受け入れ難く、脳が自然と拒否反応を示す。少し歩いて見ればわかるけど、都会にはそんなことをする人間は皆無だと言っていい。他にも、貯金もないのにどこかに災害や地震があれば、ありったけのお金を集めて募金をするとか、宮沢賢治の雨ニモマケズじゃあるまいし。
ただ本物の善人とは普段からソレをする人のことなのだ。
承認欲求の根源は賞罰教育にある
大方の人は賞罰教育を受けて育ってきている。賞罰教育とは読んで字のごとく。良いことをしたら褒められ、悪いことをしたら怒られる教育のことである。この教育は一般的には良いことだと考えられている。しかし完璧な教育ではない。このような教育を受け育ってきたぼくも含めた人たちは、他人に褒められることはするけど、誰にも褒められなければしないという行動を自然と取るようになる。
子どもの例でいうと、学校で廊下にゴミが落ちていたとする。そのゴミを拾ってちゃんとゴミ箱に捨てるのか?それとも見過ごすのか?親や教師から賞罰教育(主に褒めて育てる教育)を受けて育ってきた子どもは、誰も見ていなければゴミを拾うことはない。誰かが見ているという状況に合って、初めてゴミを拾う行動を起こすのだ。つまり褒められなければやらない。褒められないことはやらない。そういう子どもになる。それは大人になっても続く。
承認欲求も同じで、誰かに承認(褒められる)されるからやるという人の如何に多いことか。以前ギブアンドギブの話でもしたように、テイクを求めるからいけないのだ。求めるのは常にギブなのだ。承認がなくてもやる。誰にも承認されなくても、自分でやるかやらないかを考えて判断することが大切なのだ。
他人に何をしてあげられるか
善人は他人から連帯保証人になってくれと頼まれたら断らないだろう。お金を貸してくれと頼まれたら喜んで貸してあげるだろう。でもそんなことって普通はできない。世界中の人たちが、全員このような善人になることもない。だからって、自分の利益だけを見返りだけを考えて生きることも虚しい。なら、できることから少しずつ始めればいいのだ。一歩進んで二歩下がるくらいに。できる範囲でゆっくりと。まずは、ブログを書いてみたり、部屋の掃除をしてみたり、献血をしてみたり、献体に登録してみたり、できることから始めてみよう。他人に何をしてあげられるかは自分で考えて決めるのだ。また会おう!