ヨーロッパ、アポロ、ナイキ、アンドロメダ、ヴィーナスという名前を聞いたこともないという人は少ないはずだが、これらがギリシャ神話の登場人物に由来することはあまり知られていない。我々日本人には気がつかないが、ギリシャ文明はヨーロッパ文明に深く根を下ろしている。事実、ヨーロッパの美術館に行けば、あらゆる時代を通してギリシャ神話や歴史が絵画や彫刻の題材になっているのがわかる。ところが、私たち日本人はギリシャ文明を体系的に学ぶことはまずないため、ギリシャだけでなく、西欧の文化を理解するときどうしても壁を感じてしまう。結果、演劇でもオペラでも、ギリシャ文化が題材だと、背景がわからないため、ほとんど理解できずに悔しい思いをする。
このギリシャ神話や叙事詩に描かれているのが、ポリスを中心にしたギリシャ文明のルーツと言われている紀元前2000年にクレタ島を中心に栄えたミノア文明と、紀元前1500年ペロポネソス半島を中心にしたミケーネ文明だ(写真)。ホメロスの叙事詩を史実と確信したシュリーマンの発掘物語は今も鮮明に覚えている。
このように、ミノア文明とミケーネ文明がギリシャ文明のルーツであることを疑う余地はないが、ともに線文字を使う文明を支えた人たちのルーツや、その後のギリシャ文明を支えた人たちとの関係については、想像の域を出なかった。ところが近年、遺跡から出土する人骨のDNAの解析が可能になり、この問題を解明できるのではという期待が生まれていた。
そしてついに、米国ハーバード大学、ワシントン大学、そしてドイツ・ライプチヒのマックスプランク研究所が協力して、ミノア、ミケーネの青銅時代の遺跡に残された人骨のゲノムを解析し、両者の関係、ルーツ、そして現代ギリシャ人との関係を明らかにし、昨日発行のNatureに発表した(Lazaridis et al, Nature, 548:214)。
論文を読むと、ギリシャだけでなくヨーロッパとその周辺で出土した様々な時代のゲノム解析が急速に進んでいることがよくわかる。これらの蓄積があって初めてこの研究も成立している。この周辺の民族のDNAと比べると、ミノア人とミケーネ人はほぼ同一と言っていいほど近縁で、新石器時代のアナトリア人(現在のトルコに相当する)に共通の起源を有しており、エーゲ・アナトリア青銅器文明の担い手と一括りにできる。
とはいえ、両者のゲノムは完全に同じではなく、明確に分離可能でもある。ミノア人は石器時代のアナトリア人にイランやコーカサス地方の民族の遺伝子が混じっている。一方、ミケーネの方はアナトリア人を土台に東欧やシベリアなど北方の狩猟民族のDNAが混じっている。また地理的な近さから予想できるように、ミケーネ人の方が現代ギリシャ人に近い。ただ現代ギリシャ人の成立過程で、石器時代の土着民のDNAが交雑して形成されている。
もちろん、これはゲノム上に存在する各民族のDNAの割合の話で、実際にどのように交雑が進んだのかは今回の解析からは明らかになっていない。おそらくミノア、ミケーネ相互の交雑もあり、常に他の民族との交雑も繰り返されたと思う。稀にしか交流がなかったネアンデルタールと現代人のような単純な図式で決めることはできない。一つの文化が多様化したのか、あるいは多様な文化が合わさって共通文化ができたのかについてすら、まだまだ研究が必要だろう。その意味で、ゲノムと遺物解析を基盤とした全く新しい考古学が必要に成る。
文化的に重要なのは、今回解析されたミケーネ王族のゲノムは一般市民のゲノムとほとんど同じで、国家の階層が一つの民族から形成されていたこともわかる。
推計学的解析が進めば、同じデータからもっと多くのことがわかるだろう。また、DNAの抽出さえうまくいけば、多くの遺骨からより複雑な民族間の関係が明らかに成るだろう。今も未解読な線文字A解読のヒントになるかもしれない。
このように古代人DNAの解析は今歴史学を大きく変えようとしている。おそらく数年もすると、教科書のギリシャ史も書き換えられるだろう。ひょっとしたら、日本人にももっとギリシャが身近になるかもしれない。
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