少し前から完璧主義を捨てて適当に生きるよう努力しています。
適当=いい加減と思われがちですが、実は以下の意味もあるのです。
【via goo】
- ある条件・目的・要求などに、うまくあてはまること。かなっていること。ふさわしいこと。また、そのさま。「工場の建設に適当な土地」「この仕事に適当する人材」
- 程度などが、ほどよいこと。また、そのさま。「調味料を適当に加える」「一日の適当な仕事量」
適当って中々素晴らしいですよね。適当に生きれば適度にチカラが抜けて良いかと思っています。
完全に完璧主義を捨てた訳じゃありません
長年完璧主義で生きてきたので、まだ完璧主義を完全に捨てることが出来ていません。
僕が考える完璧主義とは以下になります。
- 身の回りのもの、環境に完璧を求める
- 100点か0点で考える
- 友人・知人に完璧を求める
1.身の回りのもの、環境に完璧を求める
とにかく身の回りのもの、例えばスマホやタブレットなどのガジェットに完璧を求めます。この世に完璧なガジェットなんて無いと思いつつ、ついつい追い求めがち。
また、環境にも完璧を求めます。特にブログを執筆する時の環境。僕が求める理想の環境は、
- 静かな生活騒音
- スタンディング(立ったまま)でブログ記事を執筆
- 時にはBGMが流れる
上記の環境が全て揃うのは自宅しかありません。僕的には、カフェでブログを書きたいのですが、結局上記の環境でしかブログを執筆する事が出来ません。
2.100点か0点で考える
物事を100点か0点で考え、0点になりそうなことには手を出しません。なので新しい事を始める時はとても慎重になります。石橋を叩いて渡るどころか石橋を叩き割って渡らないということが日常茶飯事。
さらに、ブログ記事の執筆にも完璧を求めます。完璧に書き上げることが出来ないと消去してしまいます。
今まで散々記事を書いては消しを繰り返してきました。これは完璧に悪いという訳ではありませんが、もう少し粘って書きたいものです。
3.友人・知人に完璧を求める
自分が完璧主義者である事が原因なのか、友人・知人に完璧を求めます。相手はたまったもんじゃないですね。僕から離れていく人が多数います。
最近で言えば、仲良くしていた従兄弟に完璧を求めてしまって縁が切れました。僕が逆の立場だったら同じことをしていたと思います。
完璧かどうかは他人が決める
自分が完璧に出来たと思っていても、それが完璧なのかどうかは他人が評価します。よって、幾ら自分は完璧に出来たと思っていても、他人が完璧でないと思ったら「自分は完璧に出来た」という思いは自己満足になります。
よって、完璧を求める努力は素晴らしいと思っているのですが、無駄な努力で終わる可能性があるのです。
大事だと思うのは、自分のチカラで他人の評価を変えることは出来ないと思うこと。他人の評価に敏感にならないこと。
そう思うと他人の評価はあまり気にならなくなり、評価が良かろうが悪かろうが、あまり気にしなくなると思います。
完璧主義を捨てる為に実践していること
完璧主義を捨てる為に以下のことを実践しています。
1.とにかく「適当」と念じる
何かをする時、つい完璧にしようと思います。それを思った瞬間「適当」と念じます。すると少しだけ適当にすることが出来るようになっています。
2.「こんなもんか」と思うようにしている
自分に期待しないようにしています。どうせ僕は「こんなもんか」と割り切る努力をしています。自分の思った通りにならない場合でも「こんなもんか」と思うようにしています。
完璧主義はとにかく何でもかんでも完璧にしようとしがち。有名人でさえ完璧な人間なんていないのに、僕ごときが完璧を求める資格なんてないですね。
3.自分を許す
上記に書いたように、まだ完全に完璧主義から脱却した訳ではありません。よってミスをすると完璧に出来なかった自分を責めます。
失敗の大きさにもよりますが、何てことはない失敗については自分を許すようにしています。
「完璧主義は絶対にミスをしてはならない」
という固定観念を捨て去りたいと思っています。
まとめ
完璧主義を完全に捨てることが出来ていないからか、未だ完璧主義は素晴らしいと思っている自分がいます。
結局、完璧主義が素晴らしいかどうかは自分が決めること。僕の場合は、完璧主義を捨てる努力をしていますが、完璧主義を理想とする方は、無理のない範囲で求めていけば良いかと思います。
肝心なのは自分はどうありたいか。これにつきると思います。
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