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(「3.屈折の時代」黙読タイム)
外山 ……いかがですか? 先に読んできた藤村君が予告してたとおり、前半に東浩紀による加藤典洋への大絶賛がありました(笑)。
藤村 ちょっと不自然なぐらいの、ね。90年代の批評史を全般的に論じ合うに際して、加藤典洋への言及に割くこの分量の多さは異常だよ(笑)。
外山 たしかに他に言及されてる人たちに比べても圧倒的な分量だ。
藤村 ゴメンナサイってことでもあるんでしょう。
外山 どういうこと?
藤村 東浩紀は以前、「棲み分ける批評」(99年・河出文庫『郵便的不安たち』所収)って文章を書いてて、その結論部分は加藤典洋への批判なんだ。“加藤さん、あなたの云うことも分かるんだけど、その語り口ではダメだ”的な……持参してるんで読み上げると、こう書いてる。
「ポストモダニスト、あるいはアカデミズムの言葉がいま力を失っており、その原因が遠く敗戦が引き起こした精神分析的な歪みに遡るという『敗戦後論』の指摘については、確かに私もまた同意してよい。しかしその機能不全を乗り越えるため加藤が取るべきだったのは、古い文芸批評の語り口ではなく、むしろまったく新しい語り口、アカデミズムとジャーナリズムを同時かつ横断的に説得できる別の文体ではなかったか」
・・・って、これを書いた99年時点ではそんなふうに批判してたわけです。しかし今回の座談会では、東はむしろ「敗戦後論」での加藤のいわば“文学的な語り口”を高く評価してる。そういう東自身の認識の変化もあって、“以前はよく分かってませんでした、ゴメンナサイ!”って疾しさで、それを埋め合わせるためにも長々と加藤典洋について語ってるんじゃないか、と(笑)。
外山 ……168ページ上段から中段にかけて大澤聡が云ってるように、90年代半ばというのはたしかに、どういう事情からかインテリ界隈では「ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(八三年、邦訳八七年)などの国民国家論が席巻してい」て、「左派が国民国家の幻想性や仮構性にこだわった時代」だったと思う。大澤も、小熊英二のデビュー作『単一民族神話の起源』(新曜社・95年)とかと並べてスガさんの『日本近代文学の〈誕生〉』(太田出版・95年)を挙げてるとおり、スガさんもそういう流れの中にいた。で、加藤典洋の『敗戦後論』はそれらとは完全に相容れないもので、ほとんど袋叩きに遭ってたよね。左派インテリが“ナショナリズム批判”に熱を上げてる真っ最中に、結果としてはナショナリズムの復活につながりかねないような提起を加藤典洋はやったんだから、仕方がないと云えば仕方がない。日本が近隣アジア諸国に謝罪するためには、まずその謝罪の主体となる“日本人”が形成されなければいけない、そして“日本人”が形成されるためにはまず日本人戦没者の追悼が順序として先にならなければならない、というのが加藤典洋の提起なんで、そりゃ“ナショナリズム批判”の人たちは猛反発するだろうけど、ぼくは、あくまで“現実的な解決策としては”だけど、加藤典洋の云う方向以外にはありえないと思うし、だから『敗戦後論』にもぼくは肯定的なんだけどさ。
藤村 東浩紀はずっと『批評空間』の圏域にいたから長いこと自覚できなかったんだろうけど、やっぱり本来は“『オルガン』右派”の一員たるべき人なんです(笑)。加藤典洋はこの当時のアカデミズム的な知的圏域とはまったく隔絶した問題意識を持ってて……。
外山 どっちかというと『批評空間』派のほうが、当時すでに“閉じたタコツボ”と化してて、もちろん『オルガン』派も含めた“批評シーン”全体がもうタコツボ化してもいたけど、それでも相対的には『オルガン』派のほうがまだ大衆性というか、“批評シーン”の外へも届く言葉を持ってたんじゃないかな。だからこそ、『敗戦後論』を機に起きた加藤典洋vs高橋哲哉の「歴史主体論争」では、166ページ下段で東が皮肉を云ってるように、「当時はまだ無名」だった高橋哲哉は「むしろこの論争で有名になり『靖国問題』(〇五年)などを出版することになる」という展開にもなる。つまり社会全体からすれば、『批評空間』系よりも『オルガン』系のほうが、『オルガン』という雑誌自体は超マイナーだとしても、加藤典洋にせよ橋爪大三郎にせよ個々の論客たちは、まだしも“メジャー”な存在だったはずです。そういう端的な歴史的事実を、たいていの場合このテのインテリどもは見ないし見えてもいないんで、加藤典洋なんかこういう“批評史”では仮に扱われるとしても軽視されがちで、それらと比べればこの座談会は、まあ東浩紀が他の3人に比べればだいぶマトモなおかげですけど、珍しく事実に近い歴史が語られてる。
藤村 『敗戦後論』は右からも左からも批判された。169ページ上段の大澤聡の発言に「一五年経て、白井聡が『敗戦後論』に近いロジックを『永続敗戦論』(一三年)で再生することになります」とありますが、『永続敗戦論』は実際、『敗戦後論』を踏まえて書かれているんです。白井聡は加藤典洋の『敗戦後論』での主張を2つに分けていて、1つは、日本人が“敗戦”によって生じた“ねじれ”を直視してこなかったということ、もう1つは、“ねじれ”を克服した、近隣諸国への謝罪の主体としての国民国家の形成という話で、“歴史主体論争”では後者の論点ばかりが焦点化されて、前者の論点はなおざりにされた、と書いてる。で、この前者の論点について考察をすすめていこうというのが『永続敗戦論』のモチーフなわけです。日本の敗戦を為政者が 直視せずにすむようなレジームをGHQが敷き、それが今日に至るまで続いている、と。この主張は、“戦後体制打破”、“ヤルタ・ポツダム体制打倒”を唱える反米保守や反米右翼、例えば『月刊日本』とか西部邁の『表現者』といったメディアでは非常にウケがいい。じっさい『月刊日本』には何度か登場してるし、『表現者』のシンポジウムにも呼ばれてるからね。しかし大澤さんは続けて、「ただし、そこには加藤に存在した『屈託』はすっかり消失し、平板化されている」と白井聡を批判してて、これは大澤さんの云うことはオレもよく分かります。さらに続けて「これは時代的な必然ですし、本人の戦略でもあったはずです」というのもそのとおりでしょう。しかし、「にもかかわらず、人々はこれを新 しい議論として迎えた」理由は、白井聡自身がちゃんと解説しているでしょ。“国民国家の形成”という論点だけが批判的に論じられるだけで、“ねじれ”の直視という論点はなおざりにされたからだよ。だから“批評”というタコツボ業界では『敗戦後論』は“過去の本”にされてしまった、そういうことでしょう。
外山 とくに『批評空間』を中心とした“タコツボの中のタコツボ”的な“批評シーン”では、加藤典洋の書くことなんかハナからバカにされてちゃんと読まれもしなかったわけで、15年ぐらいして白井聡が似たようなことを云うと、“なんと斬新な!”ってことにもなる、と(笑)。
藤村 そうそう(笑)。ただ、この座談会のメンバーは白井聡にはあまり良い印象を持ってないようですね。その理由は、白井聡の一連の言説が“アベ政治を許さない!”的な運動の、しかも左右を巻き込む形で1つの思想的バックボーンになってるという状況にもあると思う。
外山 先週も槍玉に挙げた、“運動”的なものの復活の気配に対する彼らのトンチンカンな危機感とも関連してるわけだ。大澤発言の直前、同じ169ページ上段の「八九年から二〇〇一年というのは、とにかくある種の屈折への感性が問われていた時代で、『敗戦後論』もその一例に数えられる。ゼロ年代に入ると、その屈折がなぜかなくなる。そして単純な左翼が復活してくる」という東の発言からもそのことは窺えます。どうも東にとっては、2000年代以降というのは“苦々しい”時代のようですね。
藤村 “3・11”以降はますますそうでしょう。
外山 しかし先週も云ったように、東はここで「その屈折がなぜかなくなる」と語る、つまり「なぜか」というふうにその変質の脈絡を捉え損なっている。「単純な左翼が復活してくる」のは柄谷なんかの動向とは実は全然関係なくて、90年代後半に“だめ連”が首都圏の若い政治系と思想系との“交流”を促進して、それまで非政治的だった思想系の連中の政治的発言への心理的障壁を下げ、さらに00年代に入ると“だめ連”の近傍からフリーター労働運動が登場して、いわゆる“ロスジェネ論壇”が形成されるという、そういう流れが見えてないんだね。ぼくに云わせれば、「なぜか」でも何でもないよ(笑)。白井聡はそれら“だめ連系”の圏域から出てきた人ではないけど、しかし00年代を通じて30歳前後の若い論客たちが何のテライもなく左翼っぽいことをストレートに主張してもオッケーな基盤がまずは“だめ連”の延長線上に形成されて、それなしには白井聡も登場できなかったはずです。凡庸に左翼的な“ロスジェネ論壇”がすでに形成されていたからこそ、白井聡や、あるいは栗原康とかの言説もそれほど奇異で唐突なものとは受け取られなかった。で、“アベ政治を許さない!”的な風潮には、おそらく白井聡は“ロスジェネ論壇”の面々以上に親和性があるのもたしかで、東浩紀たちにはますます“苦々しい”んでしょう。
藤村 オレは白井聡がラジオに出て喋ってるのを聴いて、オレはもともとさっきから云ってる“反米保守”系に近いんだし、白井聡には結構いい印象を持ってたのに、ありきたりのド左翼みたいなことしか云わないからガッカリしたんだ(笑)。
外山 ぼくは白井聡の単著はまだ1冊も読んでないんで何とも云えないところがあるけど、笠井潔との共著(『日本劣化論』ちくま新書・2014年)が出た時のイベントで話を聞いたかぎりでは、やっぱり超凡庸な市民派左翼っぽい言説をまくし立ててましたね(笑)。……171ページ上段に、「ゼロ年代は一般に『純粋まっすぐ君』の時代ですから」という東の発言がありますが、これもやっぱり“運動の言葉”の時代だという意味で、東にとって“政治の言葉”、“運動の言葉”というのはつまり“「純粋まっすぐ君」の言葉”だということです。そういう言説が00年代に入って台頭してきたことが東には“苦々しい”わけです。
藤村 ここで云ってる「純粋まっすぐ君」というのは、ヘサヨ的な連中のことでしょ?
外山 いや、シールズ的なものも含めてであるはずだよ。もっとも東浩紀はその「純粋まっすぐ君」たちがどこから発生してきたかをよく分かってなくて、同じ171ページ上段で「柄谷門下からは『純粋まっすぐ君』ばかりが生み出され」云々と、まるで91年の“文学者の反戦声明”以来の柄谷の“左旋回”がその大元であるかのような、トンチンカンなことを云ってるけどさ。……だけどこの第3節は、これまで『批評空間』系のヘゲモニーによる「批評界の派閥争いのなかで解釈されてしまっ」(170ページ上段・東)ていた『敗戦後論』を公正に位置づけ直す、という部分を除いては、あとは“文学の話”になっちゃってるよね。ぼくはあんまり云うことがない(笑)。
藤村 面白いと思ったのは、東浩紀の福田和也に対する評価がメチャクチャ低いということで……。
外山 あ、そのようですね。
藤村 そこはよく理解できるんだ。加藤典洋なんかは、まあ柄谷もそうだけど、その人自身の“思考”それ自体が読んでて面白いわけでしょ。それに対して福田和也は、その博識ぶりがすごい、という人であるように思う。例えば加藤典洋と高橋哲哉の“歴史主体論争”の時にも、どっちもハンナ・アーレントを引き合いに出して持論を述べるわけだけど、“アイヒマン問題”でアーレントの論敵だった……ショーレムって人だったかな、福田和也はショーレムのほうがアーレントよりずっと深い洞察をしてると云って、論争しながらお互いにアーレントを褒め合ってる加藤と高橋の教養のなさを嘲笑ってたんだ。ショーレムの、“故郷なきシオニズム”というか、ある種のファシズム的な側面を福田和也は評価してて、それはそれで面白かったんだけど、それはやっぱりそういうものをパッと引っ張ってくる福田和也の“知識”の凄さでしかない。『批評空間』で福田和也が重用されたのも、『批評空間』のそういう教養主義的な体質からだと思う。直感主義的でまさに“文学”的な加藤典洋とは肌が合わないはずで、じっさい福田和也は加藤典洋をバカにしまくってた。
外山 へー、そうなのか。
藤村 もっとも先に悪口を書いたのは加藤典洋のほうなんだけどさ。しかもはっきり名前も挙げずに、“パンク右翼とか自称してる奴がどうこう”って何かの註で書いてて、それで福田和也もアタマにきたのかもしれない。それに加藤典洋って、読んでて普通はムカつくでしょ(笑)。独特の持って回った比喩が多いし、著作のタイトルがそもそも『なんだなんだそうだったのか、早く言えよ。』(五柳書院・94年)だの『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』(クレイン・02年)だの、「“みつを”かよ!」っていう……(笑)。
東野 “ポッカリあいた…”というのはフィッシュマンズの歌詞ですね(「POKKA POKKA」97年)。
外山 おーっ!
藤村 そうだったのか……さすが若者(笑)。
外山 さてはサブカル野郎だな(笑)。
藤村 ともかくその『ポッカリあいた心の穴を少しずつ埋めてゆくんだ』を初めて図書館で見かけた時は、オレもすでに加藤典洋から離れつつあった時期だったし、借りようかとも一瞬思ったけど、やっぱり“キモっ!”と思ってやめた(笑)。まあそういう言語センスの人だし、福田和也が反感を持つのも仕方がない。
外山 ぼくは福田和也とは思想的には近いんで、かなり支持してるし愛読もしてるけど、たしかに云われてみれば、ぼくもその博識ぶりに圧倒されてるだけかもしれない。
東野 我々の掲げるファシズムとは、近いようで遠いような気もしますよ。福田和也はアンガージュマン(サルトル哲学用語で“参加”。英語で云えば“エンゲージメント”だが、思想用語としてのニュアンスでは、“政治的な運動への具体的関与”)ってことからは絶対に距離をおくじゃないですか。
外山 うん、そうだね。
東野 そこは我々の立場とは全然違うでしょう。
外山 掲げてるイデオロギーは近いけど、そこはたしかに違う。……174ページ下段に「当時、福田さんは『批評空間』の外部だという話になっていたけど」云々と福嶋亮大の発言があるけど、これは『批評空間』側がそう見なしてたってこと? 実際は全然“外部”ではないよね。せいぜい“周縁”にすぎない。浅田や柄谷とは思想的に左右の違いがあるというだけで、完全に議論が成立する相手なんだしさ。『批評空間』から見れば、福田和也より『オルガン』派の面々のほうがよっぽど“外部”だったはずでしょう。宅八郎なんかもっと“外部”(笑)。……しかし東浩紀はそこらの同世代論客よりずっと広くいろんなところに目配りしてるらしいことが先週・今週の読書会で分かってきて、印象はだいぶ良くなったんだけど、それでも“宅八郎”の名前はちっとも登場しないんだもんなあ。困ったもんだ。
藤村 さっきチラッと1ヶ所、名前は出てきたけど……。
外山 だって彼らの大好きな“オタク問題”に限っても、宅八郎こそまさに最も戦闘的な“オタク活動家”でもあったはずじゃん。中森明夫の周辺から、それこそ“M君問題”を契機に、わざと“いかにもキモヲタ”なファッションに身を包んで、宮崎事件でオタク・バッシングが最高潮に高まっている渦中に自ら進んで“社会の敵”として登場してきた。
藤村 小峯隆生(当時『週刊プレイボーイ』編集者で、「オールナイト・ニッポン」のパーソナリティとしても人気を博した)との論争とか……。
外山 “論争”ではないけどさ(笑)。マッチョなキャラの小峯隆生とはもともと合わなかっただろうし、何かの契機で険悪な関係になって、たしか脅迫めいたことを云われたんだったと思うけど、それに対する宅八郎の反撃がまたものすごいんだ。当時のネガティブな“オタク”イメージそのまんまというか、のちに云う“ストーカー”そのもので、小峯隆生の自宅マンションの隣室に引っ越して、私生活を監視して、“今月の小峯”とかってふうに『噂の真相』の連載コラムでレポートするの(笑)。そういう“闘い方”の部分も含めてぼくは“宅八郎、断固支持!”だったよ。小林よしのりとの論争の時も、宅八郎が絶対に持ってるはずのない小林側の内部資料をなぜか持ってたりして、スパイでも放ってたのか、それとも小林事務所前でゴミ漁りでもしたのか、とにかくすさまじい執念だよ。いじめられっ子の復讐劇みたいな感じで、ぼくはとてもワクワクしたし、共感した(笑)
……座談会の後半は、ぼくにはあまり関心のないテーマに終始してて、とくに云うべきこともありません。
藤村 オレもこの第3節は全体として、『オルガン』系出身者としては最も違和感の少ない箇所でした(笑)。
外山 うん、ぼくも何だかんだで結局もともと『オルガン』派だしな(笑)。じゃあもう、次の第4節に進んじゃいましょうか。
藤村 そうしよう。
外山 これで最後かな? “第5節”はないよね?
藤村 うん。そのかわり第4節はけっこう長いよ。
→つづく
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