社会学者の平山亮さんは、去る2月に『介護する息子たち 男性性の死角とケアのジェンダー分析』(勁草書房)を上梓されました。その名のとおり「介護する息子」の研究をとおして、介護=ケアと、庇護される立場の男性性=息子性を分析する、男性によるあたらしいジェンダー論でした。
近年、「男性の生きづらさ」を照射する日本の男性学が注目されています。その「男性の生きづらさ」の例として挙げられているのは、一家の稼ぎ手=稼得役割になることが求められる一方、「イクメン」が理想とされ、家事や育児も期待されるたいへんさです。しかし、そもそもいまだに男女が平等とは言えない状況で、その「生きづらさ」は本当に的を射ているのか? 今回は、平山さんに「男性の生きづらさ」論によってごまかされてはならない、構造的な問題についてお聞きします。
「男の生きづらさ」論のごまかし
――「イクメン」という言葉が一般的になってきました。そして、そのイクメンのたいへんさとして、仕事と家事・育児の両立が挙げられます。しかし平山さんは、本書で、介護だけでなく家事ひとつひとつの背景には、それらが活きるように「感覚的活動」によって調整された「お膳立て」の存在を明らかにしていますね。
平山 「感覚的活動」は、ケアがケアとして成り立つために必要な、目に見えない(=頭のなかで行われている)準備や調整のことです。例えば家事だと、家族の好みや普段のスケジュールを把握した上で、一日の家事がうまくまわるように作業工程を考えたり、必要なものを揃えておくことなどが、「感覚的活動」に含まれます。
――その感覚的活動を主に女性が担ってきたことが分析されています。
平山 そうですね。本人すら気づかないくらい無意識に行われていることも多くて、たいていの場合、妻や母親が担っています。夫や父親は、彼女たちが試行錯誤の末に編み出した作業工程にただ乗りして家事・育児をしながら、「カジメン」「イクメン」を気取っている場合もあります。私たちのようなジェンダー論者は、稼得役割と家庭内のケアの両立が困難な場合に、不利な状況に置かれやすいのは女性だということを問題にしてきました。まず、ケア役割からは女性の方が圧倒的に逃れにくい。母親が仕事に一所懸命だと「子どもをほったらかしにして」という非難はついてまわりますが、男性の場合、「イクメン」が理想化されている現在だからこそ、「仕事も育児も」な父親は、称賛されることはあっても世間の非難を浴びることはありません。また、社会全体で見たとき平均的に男性の方が賃金が高いのは事実ですから、「家族が生活を維持するためには男が働き続けられるように」と、女性がケアを一手に引き受けるのが「合理的」のようになる。
――確かに、自分が稼ぎ手になるより専業主婦になりたい、出産後に育休や職場復帰が困難であるため子育てに専念する、と言う女性の声は決して少なくないように感じます。
平山 でもケア役割の比重が大きくなれば、女性が自分一人で生きていくことは難しくなります。自分自身で稼ぐ機会が制限されるためです。つまり「仕事かケアか?」という二者択一にしたまま、社会がよってたかって女性に後者を選ぶように仕向ける。かつ、その結果、仕事をする自由と、働いて稼いで自活する機会を奪っていくことが問題なんです。
――「自由」とひとくちに言っても、自分自身が生きる稼ぎのために仕事をすることと、男性にありがちな、(自分ひとりはまかなえるうえで)「家族を養わなければいけない」というような仕事の必要性を訴える物言いは異なる、ということでしょうか。
平山 「男性だってどちらかしか選べないんだから不本意なのは同じじゃないか」というかもしれませんが、稼げる役割に駆り立てられる男性と、稼げる役割を奪われる女性を比べたら、結果的に自分一人で生きていくのが難しくなるのは明らかに後者です。両立の難しさにばかり焦点を当てる「生きづらさ」論は、両立が難しいことによって自活の機会にジェンダー不平等が生じていることにはほとんど触れない。だから、ジェンダー論としては不十分だと思います。