2015年03月24日

和敬塾

 村上春樹も住んでいた、という「和敬塾」…
 ヤッホー君は、郷土の各自治体がお金を出し合って作った東京の大学に通う男子学生のための「村山学寮」に住んでおりましたぁ…

 私が心から尊敬する人について書きたい。
 身内のことで恐縮だが、それは家内の祖父・前川喜作(まえかわ・きさく)という人物だ。私と家内が結婚した29年前(1979、昭和54年)は84才でまだお元気だったが、1986(昭和61)年に亡くなってもう22年が経つ。喜作氏は、奈良県に吉野杉の山を持ち林業を営む素封家の家に生まれた。三男であったので家業を継ぐ必要がなく、将来の進路は自由が許された。上京し早稲田大学理工科に学び、そこで研究した技術を生かして産業用冷凍機製造の会社「前川製作所」を創業した。喜作氏が初代社長、二代目を家内の父が継ぎ、今は創業84年を迎え、国内64箇所、海外78箇所の事業所を置き、従業員約3,200名、年商1,500億円で、世界でも有数の技術を持ち業界シェアトップの経営をしている。
 “モノづくり”の技術で戦後の発展を支え、日本の底力を示した経営者としての喜作氏には勿論敬意を表するが、私が感銘を受けるのは、事業で成功して得た利益、つまり儲けたお金をどう使ったかなのである。
 会社経営が軌道に乗った喜作氏は、1956(昭和31)年に私財を投じて「財団法人和敬塾」という、地方から上京して都内及び周辺の大学へ通う学生達のための寮を作った。戦後、荒廃した日本を目の当たりにし、この国の将来を担う若者には「教育」が何より大事で、食住の心配なく思う存分勉強させてやりたい、そして単に「下宿屋」を提供するのではなく、人間として成長出来る「教育の場」を作りたいという壮大な理想を掲げて取り組んだのだ。

(参議院議員中曽根弘文(自民党)「私の尊敬する人」~前川喜作氏について~2008(平成20)年11月)
http://www.hiro-nakasone.com/comment/20081101.html

 「和敬塾」の中庭にはそういえば、前川喜作氏の銅像が建っておりました~「前川製作所」でしたかぁ~

 父が倒れたのは45歳のときで、日本の敗戦の3か月前である。クモ膜下出血と診断されて敗戦を迎えたあと、役人だった父はマッカーサーの公職追放令によって職を追われ、病と失職の二重苦にあえいだ。小康を得て故郷に戻ってからは商売をはじめている。肉体的な後遺症はなく幸いだったが、私は父に性格的な後遺症が残ったのではないかと疑ったりした。官舎の座敷に達筆をふるって「努力即権威」と記した色紙を飾っていた父が、故郷の店先の色紙に「春夏秋冬二升五合」と書くようになったからだ。
「何? 意味がわからんのか。これは“年じゅう商売繁盛”と読むのだ。アッハハハ」

 以来、晩酌と爆笑を欠かさず、発病から40年目の85歳で父は世を去っている。それにしても、あの変化は何だったのだろう。脳血管系の病気の後遺症かもしれないと私は思ったりしたが、最近になってふと気がついたことがある。

 私は病と失職というアクシデントに負けなかった父を新たな目で見直し、人間の二面性に注目するようになったのである。
「ならば面白い人がいる。彼は官僚としての大役を終えて、いま別な舞台に立ったばかりだ。この先の人生をもう一幕たのしむだろう」と紹介されたのが金沢学院大学学長の石田寛人氏であった。氏は東大工学部原子力工学科の一期生として東京オリンピックの年に卒業したというから、逆算すると日本がアメリカと戦争をはじめたころ生まれたことになる。卒業後に科学技術庁に入って専門分野をつき進みながら事務次官まで上り詰め、勤続36年で退官したあとチェコ特命全権大使を務めた。チェコはかつて科学技術の先進国といわれたから、ここまでは有能な技術系官僚コースとして特に驚くことはない。
 だが、科学技術庁原子力局長時代に、義太夫の脚本のコンクールに応募して入選したと聞いて私はたちまち関心を持った。

 原子力工学と義太夫を体内に同居させている人と面談すべく、緊張して約束の場に出向くと、経歴から想像したイメージが拍子抜けするほど快活な人である。
「あの義太夫は秋津見恋之手鏡という加賀藩士大月伝蔵の恋物語で、もちろん文語体で書きました。文字はすべて旧仮名づかいにしたかったのですが、これがなかなか…」と話題はのっけから義太夫である。順序として原子力から聞き出しにかかると、
「大学入学は1960年です。1954年には新進気鋭の中曾根康弘議員が、ウラン235を活用した原子力にちなんで2億3500万円の原子力予算を獲得して世の注目を集めたし、アメリカでアイゼンハワー大統領がアトムズ・フォア・ピースととなえたこととも相まって、当時の日本は政府も国民も原子力に好意的でした。私は実父が英文学者でシェークスピアの専門家だったので、文系にも心動かされましたが、東大初の原子力工学を選んで役人になりました。石川県出身の法文系の行政官はそれほどおおくないこともありまして(笑)。でも、いまだにシェークスピアの専門家小田島雄志さんには憧れを感じますねぇ」とのことだから、スタートラインから文系と理系に等分の興味があったらしい。

「たしかに、原子力と違和感なく義太夫を口ずさめる人間は異例かもしれません。それにしても今日まで私が両刀をたずさえてきたのは、和敬塾に入塾して2年目に原子力工学の進路を決めたとき、技術者だった前川喜作塾長から『科学一辺倒の人間にはなるな』といわれた一言が、よほど心に響いたんだと思います。あのときの言葉を、いまでも覚えているくらいですから」
 突然、飛び出した「和敬塾」に私はもちろん耳をそばだてた。聞いたこともない3文字だが、字画からすると進学塾か、武芸場か、はたまた右翼団体かと思わせる。
「いえ、男子専用、女人禁制の学生寮です」と石田氏は楽しげにいったあと、こうつづけた。

「前川塾長は、私のことを先生と呼ぶな、オヤジと呼べといってましたし、寮長たちからも管理、監督された記憶は全くありません。門限は12時くらいだったと思いますが、門限すぎて帰ってきた者は一階に住んでいる仲間が窓から引き上げてくれますしね。掟としてきびしく徹底していたのは部屋に女の子を入れるな、ということだけでした」…
「前川喜作さんはデモに参加したい者は行け。信念をもって参加するなら、たとえ警察につかまっても私がもらいさげに行ってやるから心配するな、とまでいってました。ただし、皆が行くからふらっと行ってみようという気持ちで参加すれば必ず後悔するからやめろ、と塾生を集めてキッパリいいました」…
「今になって考えると、和敬塾の良さの一つは同世代の多彩な友人がつくれることだと思います。水戸のおかめ納豆本舗の高野君も同期だし、チェコ大使をしていたときにプラハにまで来てくれた日本化薬社長の島田君も和敬塾に入ったからこその友人だなぁ」…
「アメリカのスタンフォード大学からきていた彼は共同風呂が苦手だったみたいです(笑)。塾祭では私もお手伝いして出し物の“白波五人男”の忠信利平役を彼にふり当て、『餓鬼の時から手くせが悪く……』なんて台詞をいわせたんですよ。喜作オヤジさんは笑いをかみ殺して目を細めていました」
 石田氏の尽きない思い出を聞きながら、人間の二面性を探るつもりの私の関心は、いつしか青年の多面性と可能性の育成を手がけた和敬塾に傾き、早くもおかめ納豆と日本化薬の連絡先を調べにかかったのである。

(上坂冬子「人間ドラマ和敬塾」)
http://seidoku.shueisha.co.jp/kamisaka.html

 青春時代に同じ年の若者が同じ釜の飯を食いあうというのは、たしかにアパートでひとりカップヌードルをすするのとは訳が違って、その後の人間形成には大いに資するものがあるはず。
 しかしヤッホー君の男子学生寮は、大学自体都心部から都市の郊外部に拠点を移し、都心に住む学生がガタ減りとかでその後、閉鎖され、ムカシの寮はイマ、マンションにとって替わられた、という悲しい話。

和敬塾創立の経緯
 和敬塾の創立の経緯ですが、第二次世界大戦の終わったころに遡りまして…、当時日本の国民全体が精神的に混乱しており、その上、物不足というか、食糧不足というか、そういうものに苦しめられて、みんなが毎日の食糧を得るために汲々としていたという時代です。それで日本の伝統的な道義というか、そういう気持ちが全く退廃していた時期があったわけです。当時私は中学3、4年生でした。
 そういう時に、和敬塾を創立しました故前川喜作という方が、
たとえ戦争に敗れても、一切のものを失っても、人間というのは魂を失っちゃあいけないんじゃないか。日本には元々天然資源はなかったんだ。あるのは人的な資源だけじゃないか。日本の将来はこの人的な資源の成長を待つほかないじゃないか」ということを思い、そのためには、教育というのはただ学問とか知識というのを授けるだけでなくて、広い情操的な教養と豊かな人間性を磨くことが大事であると考えたわけです。
 当時の学校教育の実態は、知識優先でして、戦後の混乱の時期ということもあって、徳育という面にあまり関心がありませんでした。また、徳育ということを何か避けている風潮があったと思います。
 「大学は出たけれど」では困るんだ、「大学を出ただけあって」というような人間になってほしいという切なる願いを持って、それには学校とはまた別に、もう一つの理念を持つ人間教育の場を作らなければならないだろう、という信念から現在のところに共同生活を基盤にして常住実践の人間教育の場として「財団法人和敬塾」を設立したわけです。
 要するに人材の育成ではなくて、人間的に成長するということを意図した塾です…
(ホットライン教育ひろしま、教育講演会2002年11月20日「共同生活と人間形成」講師:加茂田信則氏(前川総合研究所 執行役員)
http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kyouiku/06senior-plan-kouen-20021120-2002112001doc.html

 「徳育」って学校教育のなかの科目に入って甲乙丙とか点数がついちゃうものではないんじゃない? 暗記して覚え、問題を解くとき正解がある、となったら、そりゃあ「洗脳」でしょ、と考えているヤッホー君です。
 トルコ・サカリアで長髪の若い校長先生がおっしゃっていたように、すべて学校という器に「教育」を期待するものでない、というお話しがまだあたまにあって、《学校とはまた別に、もう一つの理念を持つ人間教育の場を作らなければならないだろう、という信念から現在のところに共同生活を基盤にして常住実践の人間教育の場として「塾」を設立》という経緯になるほど、とうなづいたわけです。
 写真は、「塾」の奥にあった本館です:

塾本館.jpg

 では「塾」周辺の写真をおまけに。
 近くの芭蕉庵:
芭蕉庵.jpg

 永青文庫にも寄りました:
永青文庫.jpg

 野間記念館にも寄りました:
野間記念館.jpg



posted by fom_club at 09:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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