体罰と聞いてあなたはどういう印象を受けるだろうか。
『体罰』
昨今の日本において、この言葉は決してポジティブに受け入れられるものではない。
こういった、いわゆる「体育会系精神」が当たり前だった昔の時代ではなく、「体罰」が批判の対象とされる良い時代に生まれてよかった。と、僕ら20代前半やそれ以下の若者は「体罰反対派」に共感するかもしない。ただ一方で、昭和世代のおじさんは「わからせるために、しばこう!圧倒的暴力!!!」という価値観を未だに根強く持っているように思う。
本当は、「とりあえず、しばいて、わからせる」といった体罰主義の価値観に対して「ダメ、絶対」と声を荒げて反対するのが、僕らゆとり世代の役目かもしれない。
しかし、実際に体罰を受けていた僕からすると、意外にも「体罰は無くすべきなのか」の問いに対して、「YES、無くすべきだ!」とハッキリと言えない部分もある。なぜかいうと、「体罰を受けた経験」というのは、少なからず僕の人生において「学び」になった部分も大きいからだ。
体罰される側にも、少しは問題がある
ちなみに、僕が受けてきた「ありとあらゆる体罰」というのは以下のようなものが挙げられる。
- 上記のツイート画像のように、「帰れよ!帰ったらどうなっても知らんからな!イベント」の発生。
→当時、僕は秒速で帰ったw。その日の夜、殺される位の目つきで「どうなっても知らんからな」と言われたことが寝る前にフラッシュバックし、「殺されるかもしれない!」とねれなくなる日があった。 - 挨拶の声が小さかったのが気に食わなかったみたいで、ネクタイを引っ張り、先生のゾーンに引き寄せてから大きく振りかぶってビンタされた。
- 教室後ろのロッカーを抜き打ちチェック。汚かったら即丸坊主案件発生。
- 授業中の居眠りも、即丸坊主案件。
- 炭酸ジュース飲んだだけで、しばかれる
- 教員の教卓の中にムチが常に入っている
挙げればキリがないが、当時はあまりの理不尽さに、嫌気がさしていたのを記憶している。だが、今思い返せば、自分にもそれ相応の非があったように思うし、何より、普通の環境にいれば大目に見られるような「悪い癖」を矯正してくれたように思う。
今でも僕の「悪い癖」の片鱗は少しは残っているかもしれないが、体罰を受ける前に比べれば、大きく矯正されたように思う。なぜなら、僕は中学生時代、相当な自己中心的な性格だったのを微かに記憶しているからだ。炭酸もがぶ飲みしていたし、カントリーマアムを食べるのも厭わなかった。
比べて、今はたいていの人間となら円滑にコミュニケーションを行うこともできるし、「無礼だ」と言われることはあまりない。我慢もある程度できるようになった。手のつけようのない僕だったからこそ「矯正」という意味で「体罰」は必要だったと思う。
今では、なんと!カントリーマアムも20日間なら食べずに我慢できるようになった。まだまだ睡眠、運動、瞑想、野菜の部分では足りていないので、睡運瞑菜は引き続き心がけたい。
叱ってくれるのは、自分のことを本気で思っているから
僕が高校を卒業する頃には、このように思うようになっていた。
「叱ってくれる人がいるだけで、ありがたかったなぁ」
こうして文にすると、「体罰教」に洗脳された考え方のように思うかもしれない。だが、当時も今も、考え方は変わらない。実のところ、「叱ってくれる人」がいるだけで十分にありがたかったと思う。なぜなら、本気で自分のことを叱ってくれる人がいないと「未来のどこか、ある時点で、今まで甘かった分のしっぺ返し」を必ずくらうはずだからだ。
中学生のままの自分がそのまま20歳、30歳になっていればどうなっているだろうか。きっと今頃マルハンに入り浸ってパチスロ生活だっただろう。30の頃には、年中バジリスクタイム(確変)で自己破産の絵が見える。 その頃にはきっと、誰も、僕のことを水のように優しくしてくれはしないだろう。
精神が腐れば、快楽に溺れる。体罰は僕の精神を少し強くした
精神が腐ってしまえば、快楽に溺れやすいのは確か。これは僕の周りの友人を見ていて思う。パチスロに明け暮れ、睡眠、運動、瞑想、野菜も足りない。圧倒的に、足りない。
その点で、多少未熟さは拭えない今の僕でも、当時の「体罰」あったからこそ、今では定期的にマインドフルネスを行い、圧倒的に成長することができているように思う。あの頃の「体罰」経験は、結局のところ、今の僕にとっては、よかったのだ。
ただし、ここまではあくまで主観であって、「体罰」を推奨するものではないことを強く伝えたい。
良い体罰と悪い体罰
最後に付け加えておきたいのが、体罰というのも「良い体罰」と「悪い体罰」というのに分けられ、存在するということだ。良い体罰というのは、教育のため「演技でやっている」もの。一方で悪い体罰というのは教育者側でフラストレーションが抑えられず、感情的に行ってしまうもの、と、ここでは定義する。
後者の場合はサイコな状態であり、どうしようもない。嫌いだ。許しがたい。しかし前者の場合は、受け手側が取り違えない限り、教育として成立するように思う。特に命がかかっているような水泳の場合や、勝つことにこだわるスポーツ競技の技術研鑽のためなら、指導者側が「体罰を交えた教育手法は正しい」と正当化するのは、僕の経験則上では間違っていないように思う。なぜなら、指導者側も指導される側も「結果に必死」だからだ。合意の上なら致し方ない。
これは客観的に見ると、悲惨な光景に見える。例えば、「体罰が実際に行われているシーン」を客観的に見ると、指導される側が可哀想に見えるが、教育として本気でその子のためを思うなら、僕は「体罰を演技として行う場合」にのみ、それは大きく間違っていない、と、僕は考えるということ。
以上、若干、体罰推奨派の意見のように感じるかもしれないが、決して僕は体罰の価値観を他者に強要するつもりはない。何が言いたかったかをまとめると、ただ一点のみ。僕がドMだということ。こういったアピールは誰も得しないが、文を書きなぐりたいフラストレーションを抑えられず、ついやってしまった。
とりあえず、僕は明日、朝9:30から炭酸をがぶ飲みしながら、カントリーマアムをくらい、それからマルハンに向かう文脈をお伝えしておく。つまりは、体罰というのは、後に、何も生みやしないのだ。
Youtuberが台頭し、世間を騒がせる、このゆとり真っ只中の現代において、体罰という概念は、もう古いのかもしれない。どっちつかずの意見になってしまったが、改めて考えるきっかけになれば幸いだ。