誠道塾

世界誠道空手道連盟会長である中村忠は大山倍達氏の元に1953年に空手を始め、極真会にて最年少の黒帯に輝いた。 1961年には19歳で全日本学生空手選手権デビューし、勝利を修める。又、米軍基地座間キャンプでインストラクターを勤め、東邦医科大学空手部の指導にあたる。1962年、
タイのキックボクシングチャンピオンを打ち破り、日本の武道家がタイのキックボクサーに初めて勝ったという事で日本の国民的英雄となる。その後極真会本部の正師範代を勤め、中村は空手の精神
を伝承する重要な人物としてニューヨークに派遣される。
中村はブルックリンミュージックアカデミーの上の小さなスタジオで空手を教え始めた。自分の実力を証明するため数多くの挑戦者と戦わなければならなかったが、全ての挑戦者が若い中村に簡単に負けてしまった。中村はどんな事があっても空手を伝達し、成功するまで諦めないと常に自分に言い聞かせ、指導に没頭した。
障害を克服するため、自分の忍耐力を保持するためにそのような決意や責任感が必要だった事を思い出す。
5年の間に極真会組織は少しずつ大きくなり、1971年5月には極真会館北米本部が設立された。その当時、アメリカにある30を超える極真会道場があり、中村が初代北米委員長となった。自分の道場の質を保ちながら、急増化する極真会道場を同時にまとめる事は並大抵のことではなかった。
1976年、理想の空手を求めるために、ついに中村は極真会を脱退する。アメリカに困難ながらも、極真会発展のために努力したにも関わらず、日本から中村を極真会から追い出そうという動きにより、武道家にとって最大の屈辱である破門にされる。そして1977年2月のある寒い夜、ニューヨークのマンハッタンの駐車場で何者かによって狙撃される。
しかし中村は回復し、誠道塾をニューヨークで新しく発足させ、その後世界中で100以上にもなる道場の組織を築きあげた。最も重要な事は誠道塾が中村忠の犠牲と
葛藤から生まれた理想であるという事だ。誠道塾が発足して以来、世界中の何千、何万人もの門下生に対して、中村は強さとインスピレーションを与え続けた。誠道塾の指導法は心、肉体、精神を強くし、少しずつ教えるという方法である。年齢、性別、身体的能力に関わらず、空手を習得することを可能にするユニークなプログラムである。
1996年10月20日、誠道塾は20周年記念式典を迎え、ニューヨーク市の世界的に有名なリンカーンセンター・エイブリーフィッシャーホールにて記念式典が行われた。この最初の誠道塾世界トーナメントに世界中の支部から多くの生徒が参加し、組手、型、試し割りを競い合った。しかし、より重要なのは世界の誠道ファミリーが一堂に会することができた事である。ビル・クリントン米国前大統領、アル・ゴア米国前副大統領、ネルソン・マンデラ南アフリカ共和国大統領、ブロトス・ブロトス・ガリ国連事務局長とダニエル・パトリック・モイニハン米国上院議員からの祝電が式典に先立って会長中村忠に寄贈され、その内容は誠道空手に対して賞賛、尊敬を表すものであった。刈田吉夫日本総領事は祝辞を述べ、またニューヨーク市において、10月20日を公式に「世界誠道空手記念日」とし、ロドルフ・ジュリアーニ前ニューヨーク市長により公約された事も伝えられた。
Kaicyo
- 1942年
- 樺太に生まれる。
- 1955年
- 中学二年で「日本空手道 極真会 大山道場」に入門。
- 1958年
- 史上最年少16歳で黒帯取得。
- 1965年
- タイ国のムエタイの挑戦を受けチャンピオンをノックアウトして破る。
4月 極真会館「正師範代」に就任。
- 1966年
- 海外初の正師範代としてニューヨークへ渡る。
- 1971年
- ニューヨークマンハッタンに「極真会館北米総本部」を開設。
「初代北米委員長」に就任。
- 1975年
- 極真会館主催「第1回世界空手道選手権大会」にて特別主審を務める。
- 1976年
- 極真会館脱退。
- 1976年
- 「世界誠道空手道連盟誠道塾」を創設し会長に就任ニューヨークマンハッタンチェルシー地区に総本部を設置
- 以後
- 障害者、家庭内暴力の被害者婦女子などの空手プログラムなどを開設上記プログラム継続のため誠道塾ベネフィット基金設立各大会ごとにエイズ患者(赤ちゃん,子供たち)救済組織にニューヨーク市を通じて寄付を続け空手を通じて人間の真の強さと可能性を伝えるべく「人間空手」を提唱し活動をつづけ現在に至る。