日本軍約1万名が玉砕、米軍の死傷率も史上最も高く「忘れられた戦場」と呼ばれるパラオ諸島・ペリリュー島。「こんな島、3日もあれば占領できる」と豪語した米軍を、日本軍は4分の1の兵力で、73日間にわたり釘付けにした。生々しい痕跡が島の至るところに残り、激戦をいまに伝えている。
その島にはいま、3200キロ南から静かに靖国神社を見つめる「目」があった。今夏、ペリリュー島を訪れたノンフィクションライターの将口泰浩氏がレポートする。
6月18日、私は西太平洋パラオのコロール島から、世界遺産の美しい島々を縫うようにボートに揺られていた。1時間ほどで到着したのが、ペリリュー島だ。そして焼けつくような日差しの下、同行した人々とともに慰霊を行った。
この島は、戦後70年の平成27年4月9日、天皇皇后両陛下が慰霊されたことで注目を集め、いま戦跡を訪ねる日本人が増えているという。
昭和19年9月、サイパン、テニアン、グアムを攻略した米軍の次の目標はペリリュー島飛行場だった。フィリピン総攻撃態勢を敷く米軍にとって、放置すれば日本軍航空機がフィリピン攻略の邪魔となり、占領すれば飛行基地として使用できる。ペリリュー島の戦いは「東洋一」といわれた飛行場の争奪戦であった。
9月15日早朝、南北9キロ東西3キロの小島にガダルカナル上陸以来、その精強をうたわれたウィリアム・M・ルパータス少将率いる米海兵隊の第1海兵師団2万8000名が上陸を開始。ルパータス少将は「こんな小さな島は3日間もあれば占領できる」と豪語し、2個師団約4万名の海兵、陸軍部隊をつぎ込んだ。
迎え撃つのは陸軍歩兵水戸第2連隊(連隊長・中川州男大佐)、高崎第15連隊を中心とする守備隊9838名。中川大佐は隆起珊瑚礁の島の至る所にある自然の洞窟を縦横無尽に拡張して要塞化していた。