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「子供の泣き声NG」なカフェの対応について

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ツイッターのタイムラインを眺めていたら、興味深いツイートを見つけた。

なかなかショッキングな事案である。

子連れでカフェに入店し、子供がぐずって泣き出すと「子供の泣き声はNG」と言って退店させられる。

退店させられた当事者からすると、深い驚きと悲しみに包まれたのではないかと思う。

そもそも、お客さんとして入った店を「退店」させられる、というのは、とても刺激の強い出来事なのではないか、と思う。「あなたはお客さんではありません」と言われているのと同義だ。

それが駅前のカフェという、そんなことが起きるとはなかなか予期しづらいお店でさせられたのだから、この方の気持ちを考えると心が痛む。

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当然ながら、このツイートについては、同情する意見、カフェに対する強い批判が寄せられていた。

寄せられた意見やツイッター主の根本となる考え方は「子供の泣き声を受容できない社会」に対する悲しみと問題提起をしたものだ。

 

私自身、このツイートを見たときは、「なんて失礼なカフェだ」「こんなカフェは淘汰されてしまえ」と思った。

子供、特に赤ちゃんなんて泣くのが仕事だし、状況を考えて泣く子供なんていない。子供の泣き声は「仕方のないもの」であるとして受け入れなければならないし、むしろ「ほほえましい」ぐらいに思ってもいいぐらいだと思った。

 

しかしながら、私はこの事案に対しては、もう少し視点を変えて考えてみたかった。

お店側の視点に立ってみた場合はどうだろうか。

「カフェ」というのは、そこに「くつろぎ」や「落ち着き」を求めてやってくるお客さんが少なくない。当然、誰かと話をするために訪れる人もいるだろうが、一人で読書をしたり、考えにふけったり、あるいは落ち着いて仕事をしたりする人もいるかもしれない。

この「子供の泣き声NG」なカフェにも、きっとそういうお客さんがいたに違いない。そのカフェに「くつろぎ」や「落ち着き」を求めてやってきているお客さんだ。

そういったお客さんにとって、赤ん坊の「泣き声」というのはどのように捉えられるだろうか。

いくら偽善を装っても仕方ないので言ってしまうが、もし私がカフェで本を読んでいて、隣に座るお客さんの子供が大声で泣きだしたら、そしてその泣き声がずっと続いているならば、私は「ちょっと嫌だなあ」と思うだろう。場合によっては、その店を出て他のお店に移動するかもしれない。

赤ん坊の「泣き声」というのは、間違いなく集中を切らせるし、場所や状況によっては、不快感を覚える人がいたって、それは批判されるべきではないだろう。

だからこそ、このお店の対応は、そういった「くつろぎ」や「落ち着き」を求めるお客さんを守った行為、と言えるのではないだろうか。

店員にしてみたって、きっと心苦しかったに違いない。「子供の泣き声NGです」と言って退店させるのは、非常に強い強制力をまとう行為であって、もし私が店員の立場だったら、そのことを伝えるのは非常に気を使うし、罪悪感や心の痛みを伴うだろうと思う。

それでもなお、このカフェは、このお店から無理やりにでも「赤ちゃんの泣き声」を排除することによって、このカフェに「日常の喧騒から逃れてきた」お客さんのことを想いたかったのだと思う。

 

もしこれが公共の場であれば、それは批判されてしかるべきだろうと思う。例えば電車やバスの中で、赤ちゃんの泣き声に怒りを覚え、何か言ってくる人間がいたら、「あんたがタクシーを使え!」と言いたくなる。公共交通機関を使うならば、赤ちゃんの泣き声は受容されて然るべきだ。

しかし、本件は、「カフェ」である。

私は、このカフェの対応は、許される部分があってもいいのではないだろうか、と思っている。言い方や伝え方に気を使う必要はあるものの、いろいろなことをわきまえれば、「子供の泣き声NG」なカフェは存在してもいいと思う。

実際に、私は今まで訪れてきたカフェの中で「小学生以下の子供入店お断り」という張り紙のあるカフェに入ったことがある。

 

しかしながら、このカフェ犯した大きなミスがひとつある。それはツイッターでも指摘されている。

カフェは、お客さんが入店する前に、このお店が「子供の泣き声NG」であることを、お客さんに理解させる必要があった。

そんな断り書きもないのに、せっかく入ったカフェでいきなり退店させられたら、どれだけショックだろうか。ルールを押し付けるなら、ルールを理解させる必要がある。このカフェにはそういう配慮が欠けていた。

そのおかげて、不愉快な思いをする人が出てきてしまったことは悲しいことである。

 

私はいつも「できるだけ嫌な思いをしない」ように生活したいと思っているけれど、こういったケースというのは、普通に生活していると出てきてしまう。それが社会というものだと言ってしまえばそれまでだけど。