われわれは有用な存在として活躍することを求められている。
チームが勝っても自分が活躍しなければ嬉しくないという話であるが、ここで厄介な問題が生じてくる。
能無しが参加しても足手まといだから、いないほうがいいというのがミクロな問題としてはある。
活躍しなければならないというのは、社会が総論として求めているだけであり、その基準に達しない人はどうすればいいのか、という難題である。

この人生には、どちらを選択しても非難されるということがある。
活躍問題もそれである。
何もしないほうがマシな能無しがいるとして、では何もしないと褒められるわけでもなく、「おまえは何もしてない」と批難されるのだ。
だから大活躍するべく、無能な味方として暴れまわることもある。

何もしないことを褒めるという対策も、理屈としては可能である。
だが、やはり無理があるだろう。

多動性が障害であるという観点から言うと、本当に「何もしない」のは山紫水明たる境地であり、禅定に入ったとも言える。
達磨禅師だって壁に向かって九年間座っていただけで聖者として扱われる。
暇人として暴れるよりは、「何もしない」のが望ましい。
だが、そういう人間理解が浸透するとも思えないし、まず、出来損ないはたいてい暇人として暴れるのをやめられないし、たとえ、本当に何もしないという坐禅の境地を学んだとしても、やはり何もしなければ非難されるであろう。

活躍する義務というのがあるのだから、本人だけに責任があるのではなく、これは社会が抱えている矛盾でもある。
性能が低い人間はどうにもならないし、不行跡として咎めれば済むわけではない。
われわれも二枚舌であり、能無しはなにもしないほうが有り難いと思いつつも、やはり非難はするのである。

この社会的な矛盾の延長として、能力が低いほど低賃金でキツい仕事という法則が出て来る。
能力が高いほうが精神的にも肉体的にも経済的にも快適なのである。
このヒエラルキーは当然という意見ももっともだが、多少は見直さないと、移民だらけになる。
もしくは移民はキツい仕事に耐えるが、移民の二世はキツい仕事を避けるとも言われる。

たとえば有村悠さんは以前倉庫でバイトをしたことがあるが、すぐに身体を壊してやめてしまった。
現在は艦これで多少は稼いでいるが、生活保護予備軍であるのは確かだ。
休み休み倉庫でバイトをして、作業した時間だけ時給を貰うような制度が求められる。
それでは生活できないが、生活保護も組み合わせればいいであろう。

有村悠さんが達磨禅師のように壁に向かって座ってるだけならいいが、まったくそうではないし、一流の人間として活躍しようとして迷惑をかけるわけだ。
これは本人の妄想というだけではなく、社会が作り出した状況でもあるから、三流の人間の扱い方も考えねばならない。







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