僕は凄く冷たい人間なんじゃないかと思う事が多い。それは最近の話じゃなくて、僕が幼い時からそう言った部分があったように思える。周りの人からは僕の事を「心優しき青年」みたいに思われる事が多い。仕事でも他の職員や利用者や家族からの評価も基本的に好評だ。
まあそれも勘違いかもしれないけど、多分そうだと思う。でも僕の心は基本的に冷めている。多分僕の身近な人が今病気で倒れたりしてもそんなに悲しい気持ちにならないと思う。
「これはマズイな。これからどう動いて行こうか?」と次の事を考えてしまいそうだ。人の不幸とかに対して一緒に悲しむ事ができない。口では結構心配しているみたいな事を言っているけど、心の中ではものすごく冷静である事が多い。
何故そう考えるようになったかと言うと、僕は高校の時に母親を亡くしたのだけど、全然悲しい気持ちにならなかった。
よく現実を受け入れなくなるとかそう言う事があるかもしれないけど、僕は普通にピンピンしていたし、長い休みを生かして観たかったアニメを一気見して良かったなあと思うぐらいだ。
それはとても不謹慎な事かもしれないけど、本当に悲しい気持ちにならなかったからしょうがない。そもそも死ということに対して、「しょうがない」という思いを持っていたこともありすぐ受け入れる事ができたかもしれない。
僕のこの性格は生まれ持ったものなのか、いろんな経験をするうちに身についたものなのか分からないけど、物事を引きずりすぎないという点ではいいのではないかと思う。
僕は他人に自分の人生をコントロールされすぎる事が物凄く苦手という面があって、人間という生き物が嫌いなのかもしれないと自暴自棄になりそうになるときもあったけど、今はちょうどいいところで落ち着いているかもしれない。
と言っても世間一般的に言えば僕みたいな人は物凄く冷たい人間で人間らしくないと思われそうだ。僕からしたら日本人は他人に依存しすぎている部分があって、自分の事ばっかり考えている人は痛い目見ろみたいな感じがあってなんか気持ち悪さを感じてしまう。
僕のこの冷たさは高い自己愛によるものだと思っていて、自分以外の人への興味のなさがそうさせているよう気がする。基本的に僕は他人がどんな事をしても放置する事が多い。
それは呆れているとかそういう事じゃなくて、人間みんな違うのが当たり前で、その人の性格的な部分を指摘したり、怒ったりすることは意味のないことだと思っているからだ。他人はなかなか変えることが出来ないから変えようと思う事自体がナンセンスだと思う。
みんな変に他人に期待しているから他人に傷付けられたみたいな思いを抱いてしまう。前にも記事で書いたけど、他人に期待しすぎるから痛い目をみる。
だからこそ、僕は意図的に近くなりすぎないように関わっているところがある。人に対しての期待をしたも仕方ないと思っているから、冷たい人になっちゃったのではないかと思う。
と言っても表面的にはいつもニコニコしているし、怒ったりしないから他人からすると印象がよく見えるかもしれない。結局嫌われてしまう人ってしなくていい事をしてしまう人である。
そしてその大体の原因が他人に期待して裏切られるというパターンだ。
期待をして裏切られるとダメージも大きいし、自分が何をしているか分からなくなる。他人に期待することは他人へのプレッシャーになるだけでなく他人への依存を断ち切れなくなってしまうことがあるので気をつけたいところである。
話が少し逸れてしまったけど、僕は一般的に冷めている人間だけどそのことに対して今は劣等感を感じてはいない。逆に変に他人に期待して裏切られて心穏やかじゃなくなるということがあまりないのでそれは結構いいんじゃないかと思う。
もちろん人は一人では生きられない生き物で協力しないといけない時は協力することが求められるけど、なんか今の世の中って中途半端に昔の家族や家や村の名残が残っていて馴れ馴れしい感じがあって僕は好きになれないところはある。
個人の時代にシフトしていく中で、ベタベタしたエモい関係を形成していくことは時代に取り残されてしまうことにもなる。そうならないためには情報収集能力と発信力を持つ必要があると思ってそれを生かして自分のサードプレイスを作っていく必要があると思う。そのためのブログという手段はコスパ最強だ
今は会社や家族がカバーできる問題の大きさではなくなった。逆に閉鎖的な空間で一緒にいることによってDVやパワハラみたいな問題が発生するわけであるようなきがする。
実際に家族や会社で居心地が悪いと思う人が結構いるのは閉ざされた関係が影響していてることもあって、逃げ場所がなくなって問題を解決できなくなってしまうこともある。
僕が冷たいというのも、閉ざされた関係でベタベタするのがすごく嫌だからだ。案外僕みたいな考えを持っている人がいたら何か救われるようなきがするけど皆さんはどうだろうか??