南薩摩歴訪

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○2011年12月16日・19日と、二回薩摩半島を廻って来た。その際、薩摩半島からは何処からでも開聞岳が望めることに今更ながら気付かされた。

○特に19日は、開聞岳脇から昇る日の出を枕崎市火之神公園から見、日没は南九州市頴娃町別府の番所鼻(ばんどころばな)自然公園で見た。終日開聞岳を見て過ごしたわけだが、それでも開聞岳を見飽きることはない。

○ここで最初に案内する開聞岳の写真は瀬平公園からのもの。瀬平公園は開聞岳の北西1�ほど離れているところで、開聞岳を眺望するのに、景勝の地として知られる。公園内の案内板には、次のようにあった。

      南九州市瀬平公園の景勝松林
   海岸線の松林は、海からの風や潮、また、飛んでくる砂などから海沿いの暮らしを守り、さらには
  「白砂青松」といわれるように良好な風致・景観を形成する役割も果たしています。
   樹齢おおよそ360年の巨樹などからなるこの瀬平公園の松林は、周辺地域の良好な風致・景観を
  形成し、重要な役割を果たしています。
   しかしながら、近年では、マツノザイセンチュウにより枯れるマツが多く発生し、鹿児島県と南九
  州市では、この松林を将来に引き継ぐべき自然の財産として保存していくために、樹幹に薬剤を注入
  するなどの対策を講じ、松林保全に努めているところです。
   松林の保全に対しご理解とご協力よろしくお願いします。
            平成23年3月  鹿児島県南薩地域振興局・南九州市

○別に、以下のような案内板もある。

      瀬平橋周辺道路の由来
         瀬平の観音像一体と洞窟
           南九州市指定有形文化財
           平成三年一月十一日指定
  形状
    観音像  高さ  六十四センチメートル
         石質  溶結凝灰岩
    洞窟   幅   七、八メートル
         奥行  四、一メートル
         高さ  三、二メートル
         石質  流紋岩
   この観音像は、元禄四年に建てられたものです。像の背面に刻まれた造立趣意によると、
  当時「頴娃郷」と「開聞郷」は一つで、頴娃郡と称していました。その境にあるここ瀬平は、
  矢筈嶽から連なる山地が海に入り込み、断崖となって、通行人は波しぶきを浴びながら岩の
  間を跳んで渡る難所でした。これを碑文には、「頴娃郡長崎庄左腹(せびら)の通路は、
  巍々たる岩畔」と書いてあります。
   人々の難儀を見かねた時の噯(あつかい:村役人)であった樋渡伝右衛門、鮫島伊兵衛、
  長井市郎右衛門たちが相談して工事を発起し、石工安衛が施工したものです。
   通路が完成すると、たいへん喜んだ村の人々は観音像を建てて感謝するとともに、これから
  の通行の無事を祈願しました。これが今の瀬平道路のはじまりです。現在でも瀬平橋の下の
  岩盤には瀬道の跡が一部残っています。
   この観音像は、昔の瀬道の時代から明治の土木行政官署による国道、鉄道、今のバイパス
  架橋へと道路の移り変わりを見守って今日に至りました。
   観音像背面の碑文は、大通寺九代住職雲岳和尚によるものと伝えられています。
   また、洞窟の壁面には、それぞれ元文三年(一七三八年)と延享四年(一七四七年)に
  瀬道の補修が行われたことが刻まれています。
                         平成六年三月  南九州市教育委員会

○案内板はバイパス道路の奥まった谷のところにあって、そのすぐ上が観音像の建つ洞窟となっている。これまで、何回もここを通っているが、全く気付かなかった。

○バイパス沿いに、与謝野鉄幹・晶子歌碑も存在した。

  迫平まで我れを追ひ来りて松かげに
      瓜を裂くなり頴娃の村をさ
             与謝野鉄幹
  片はしを迫平に置きて大海の
      開聞が岳立てるなりけり
             与謝野晶子

○歌碑の背面には、次のようにあった。

      与謝野鉄幹・晶子歌碑について
   歌人与謝野鉄幹(寛)・晶子夫妻は、昭和四年七月から八月にかけて山本実彦氏
  (当時改造社社長)の案内で四十七年ぶりに来鹿、県下各地を歴訪したが、八月一日
  この瀬平海岸で休息し、当時の樋渡盛廣村長の歓待を受けた。この二首は、洋上に
  屹立する開聞岳の雄姿、樋渡村長の厚遇に対えて詠んだもので、その時の歌集「霧島
  の歌」の中に収録されているものの一つである。その歌集の前書には、「自動車を
  南薩に駆る。……池田湖に至り、次いで頴娃村に出で、迫平(瀬平)の海岸に小憩して
  近く開聞嶽を仰ぎ、また南海を展望す。竹嶋、硫黄嶋、屋久島等、遠く水煙模糊の間に
  在り。頴娃の村長樋渡盛廣氏追ひて到り、西瓜その他を饗せらる。雲ありて、しばしば
  開聞嶽を遮る。」とあり、この地からの眺望の素晴らしさを述べている。またこの瀬平
  海岸は、むかしは「瀬平渡り」といって、海岸に突き出た岩と岩との間を波しぶきを
  浴びながら跳んで渡るという難所で、ここから約五十�西方国道沿いの崖の洞穴には、
  元禄四年(一六九一年)に、この難所の交通安全を祈って作られた瀬平観音像も安置
  されている。観光協会は、この由緒ある景勝の地を永く後世に伝えるため、与謝野夫妻の
  歌碑を建立するものである。
                   昭和六十二年五月   頴娃町観光協会

○国道226号線の、瀬平橋バイパスの橋にも、与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌が刻まれていた。上記案内に拠れば、与謝野鉄幹・晶子夫妻は、
  竹嶋、硫黄嶋、屋久島等、遠く水煙模糊の間に在り
と、竹島・硫黄島・屋久島を遠望出来たとある。

○今年、平成23年は、昭和で換算すれば、昭和86年になる。夫妻が瀬平公園を訪れたのは、昭和4年とあるから、それから82年が過ぎている。その間に随分環境は悪化し、現在、瀬平公園から竹島・硫黄島・屋久島を遠望することは、なかなか容易なことではない。

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金峰山

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○鹿児島県南さつま市金峰町尾下に屹立する金峰山(636�)は、薩摩半島中央部に位置し、薩摩半島を代表する名山である。

○何よりその山容が異様である。その様子は薩摩半島の何処からでも眺めることが出来る。山の高さから言えば、
  ・紫尾山(1067�)
  ・開聞岳(924�)
と比ぶべくもないのだが、薩摩半島に於ける存在感は第一等ではないか。

○本ブログでは、すでに、

  ・書庫「南薩摩歴訪」:ブログ『金峰神社(南さつま市)参拝記』

として、2008年5月に書いている。

○ただ、その時は金峰神社のみについて記しただけで、その山頂については、何も書いていない。それで今回、金峰山山頂の様子を書いておきたい。

○金峰山へは、県道20号線大坂から金峰山直下の駐車場まで車道が通っている。駐車場で標高が580�くらいだから、金峰山登山と言っても、わずか50�くらいを登るだけとなる。

○駐車場から金峰神社への参道を登る。いくらも歩かないうちに、金峰神社社殿に至る。その先は階段になっていて、すぐに金峰神社が見える。

○金峰神社からさらに神社横を抜けて進むと、本嶽山頂に至る。山頂下には立派な祭壇が設えてある。周囲には祠がいくつも存在するから、ここが神聖な霊場であることが判る。

○駐車場にある案内板には、次のようにある。

     金峰神社
       (昔は金峯山(きんぷせん)といった。)
   南薩の霊峰、金峰山は高さ636�、本岳・東岳・北岳の三峰に分かれ、古来人々が尊敬の念をも
  って朝夕眺め親しんでいる山で、金峰山由来記によれば、推古2年(594)、大和吉野(現、奈良
  県)の金剛蔵王の分霊を招き、10月19日に、この山に移したという。
   本岳の南側下に岩穴があり、中に「稚児の宮」という祠がある。これは釣りに行き、溺れ死んだ子
  どもをここに祭ると、岩のふちから絶えず水滴が落ちるようになった。これは、その子の死を悲しむ
  母の涙であると言い伝えられている。
    ※祭りは元旦祭1月1日、秋の大祭10月19日である。

○だから、ここが本岳(636�)で、直下東側に見えるのが東岳(620�)で、駐車場の向かいにあるのが北岳(590�)だろうと思われる。

○現在は、金峰神社が祀られているが、本来、ここは修験道の聖地であり、金剛蔵王を祀っていた。金剛蔵王とは、日本生まれの珍しい仏様で、役の行者小角が感得したとされる。

○上記案内に拠れば、

  金峰山由来記によれば、推古2年(594)、大和吉野(現、奈良県)の金剛蔵王の分霊を招き、
  10月19日に、この山に移したという。

ことになっているが、もともと蔵王権現の故郷は硫黄島である。だから、何もわざわざ、大和国吉野山くんだりから蔵王権現がこの地に勧請される謂われなどない。

○おそらく、この金峰山は、硫黄島から勧請されたものとするのがふさわしい。蔵王権現については、本ブログでは、各所で案内しているが、
  ・書庫「吉野山の正体」
  ・書庫「硫黄島」
  ・書庫「奥駈道を歩く(吉野から弥山まで)」
等に詳述している。参照されたい。

○山頂付近で、霰が降った。風も強く、寒い。山頂付近には珍しいものがいろいろとあったし、眺望もすばらしく、桜島や開聞岳も見える。ただ、天気が悪く、おまけにカメラは電池切れになった。何とも運が悪い。だから、上掲載の写真、二枚目・三枚目は携帯写真である。

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番所鼻自然公園

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○たまたま2011年12月16日付、朝日新聞『地域統合版』で、鹿児島県南九州市頴娃町別府の番所鼻自然公園が以下のように紹介されていた。

      番所鼻(ばんどころばな)自然公園
      (鹿児島県南九州市)
   薩摩富士とも呼ばれる開聞岳を眺めながら、海にぐるりと延びる天然の小道を一周できる。鹿児島
  県南九州市頴娃町別府。道に囲まれた「海の池」はおだやかで、鏡のように空を映す。2層に重なっ
  た硬さの違う溶岩が海水で浸食されてできた地形。日本地図作製のために訪れた伊能忠敬も「けだし
  天下の絶景なり」と称賛したとされる。
   日本各地を歩いた伊能の賛辞は恰好の宣伝材料だ。九州新幹線全線開業に伴い、指宿かや知覧から
  「さらに足を延ばす場所」として公園を再整備。近年、テレビ番組を機にパワースポットとして知ら
  れるようになった近くの釜蓋神社とセットで訪れる人が急増した。公園内で旅館「いせえび荘」を経
  営する西村正幸さん(62)は「かつては県内客ばかりだったが、今は宿泊の6~7割が県外客」と
  笑顔をみせる。
   公園内には開運のシンボルとされるタツノオトシゴの養殖場もあり、若い女性客もお守りを買いに
  やってくる。「来年は辰年、さらなる知名度アップを」と地元の期待度は増すばかりだ。
  【アクセス】JR指宿駅から車で45分。指宿枕崎線なら水成川駅下車。

○これまで数回、番所鼻公園を訪れている。しかし、「番所鼻」は『ばんしょばな』と呼ぶとばかり思っていた。『ばんどころばな』であることを知らなかった。迂闊と言うよりほかない。重箱読みとは、珍しい地名である。

○12月19日に、枕崎の火之神公園で日の出を見ることは出来たが、天気はよかったが、南方角には雲が湧いていて、肝心の硫黄島が望めない。

○仕方がないから、夕方まで待とうと思い、あちこち散策した。夕方になれば、夕陽の中に硫黄島が浮き出るのではないかと期待したからである。それに昼間、天気が持ち直せば、硫黄島が見える可能性だって高い。

○方々出掛けたので、いくつかそれを案内したい。最初に、番所鼻自然公園。実際は、ここを最後に訪れたのであるが、夕陽に浮かぶ開聞岳があまりにきれいだったので、最初に案内したい。

○枕崎の火之神公園での日の出にも感動したが、南九州市頴娃町別府の番所鼻自然公園での日没も更に感動的であった。もちろん、夕日は東シナ海に沈む。

○夕日も申し分なくきれいだったが、刻々と移り変わる時間とともに、様相を変化させる開聞岳の姿に感動した。午後3時過ぎから、完全に日没となった5時半くらいまで、ずっと開聞岳を見つめていた。それでも全く飽きが来なかった。

○午後4時ころ、南の海中に硫黄島が浮かんでいるのに気付いた。今朝から一日、待ち望んでいた光景である。しかし、くっきりと見えないのが残念である。

○日没時には夕日に照らされてきれいに見えるのではないかと期待したが、漸次、硫黄島の姿は薄くなってしまい、夕闇の中にかき消えていった。

○竹島もうっすらと望めたが、写真では確認出来なかった。

○今回、波上に浮かぶ開聞岳の写真と開聞岳の逆さ富士の写真が撮れただけでも大収穫である。

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豊玉姫陵

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○長いこと、薩摩半島、川辺・知覧・加世田方面へ出掛けていない気がする。調べてみたら、川辺・知覧・加世田方面を最後に訪問したのは、2009年5月末のことになる。

○5月の連休に、ちょうど甥が岡山からやって来たので、その時、甥を伴い、加世田の吹上浜海浜公園にある『かせだ交流センターるぴなす』に1泊し、南薩摩半島を一周した。

○その時、地元の方と話する機会があり、小学生の時、遠足で竹屋ケ尾に登った話を聞き、どうしても登りたくなり、再び5月末に加世田を訪れ、竹屋ケ尾に登った。

○それから約2年半も訪れていない。これではこの方面の地理に疎くなるばかりである。それではいけないと思い、2011年12月16日に、訪れて来た。

○日の出を枕崎市の瀬戸公園で迎えたいと思い、4時に起床、4時半に我が家を出るつもりで、前日就寝したが、寝坊して、起きたのは6時前であった。

○すぐに出発し、国道10号線から末吉財部ICで、東九州道に乗り、加治木ICから高速九州道へ入って急いだが、国分付近ですでに明るくなり出した。

○桜島SA手前で7時になったので、桜島SAに立ち寄り、朝食を取る。それから高速九州道から指宿スカイラインへ走り、知覧ICで降りて、知覧へ向かう。

○知覧へ向かう途中、案内標識に『豊玉姫陵』と言うのがあるのに気付いた。これまで何回もこの道を通っているのに、全く気付かなかった標識である。

○どうせ、日の出を瀬戸公園で迎える予定はまるで駄目だったので、十分時間はある。それで寄り道することにする。

○県道23号線から左に逸れて、すぐ先の右側の田圃の中に鳥居と石垣に囲まれたところがあって、そこが豊玉姫陵である。所々に案内標識があるのですぐに判る。

○陵の前に案内板が設置してあった。

      豊玉姫陵
   ここは豊玉姫の陵墓と伝えられています。知覧には豊玉姫にまつわる伝説が数多く残されています。
   神話の世界の豊玉姫は、海神の娘でヒコホホデミの尊のお妃です。その子ウガヤフキアエズの尊と
  豊玉姫の妹である玉依姫との間に生まれたのが天皇家初代の神武天皇です。豊玉姫は神武天皇のおば
  あさんということになります。豊玉姫を祭っているのが知覧町の豊玉姫神社で、玉依姫を祭っている
  のが川辺町の飯倉神社です。
   以前は木が生い茂り小さな林のようになっていました。そこは鍬を入れてはならない場所でした。
  そのため耕地整理が行われたときもそのまま残されました。森山信仰と豊玉姫の伝説が結びついたも
  のでしょうか。

○設置者の名が明記されていないが、たぶん、知覧町教育委員会なのでは。どうせ建てるなら、もっと判りやすい案内が欲しいところ。

○豊玉姫神社については、本ブログの書庫「南薩摩歴訪」に、

  ・ブログ『豊玉姫神社由緒記』

として、書いているので参照されたい。

○上記の案内にあるように、知覧町の豊玉姫伝承は非常に具体的で面白い。気になるのは、豊玉姫伝承だけが存在して、ヒコホホデミの尊やウガヤフキアエズの尊の伝承がほとんど無いことである。

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竹屋ケ尾に登る

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○鹿児島県南さつま市加世田にある笠狭宮跡を再訪していた時、地元の方と出会い、持参していた「麑藩名勝考」と「三国名勝図会」を見ながら話しているうちに、竹屋ケ尾の話になった。同年代の地元の方が「あそこが竹屋ケ尾の山だ」と指さすところが竹屋ケ尾であると言う。ちょうど、笠狭宮跡とは、谷あいを挟んで、向かいの山がそうであると言う。

○実は、「三国名勝図会」に竹屋ケ尾は図入りで描いてあって、それがあまりに長屋山に似ていたものだから、私は長屋山が竹屋ケ尾とばかり勘違いしていたことに、その時はじめて気付いた。それで、よくよく「三国名勝図会」を見ると、そこに描かれているのは、間違いなく、ここの笠狭宮跡から眺めた竹屋ケ尾であることが分かった。

○地元の方は、そんな古い書物に、竹屋ケ尾が描かれていることに驚いていたが、私は、「麑藩名勝考」や「三国名勝図会」がきわめて正確に、そして詳細に、実見した竹屋ケ尾の様子を描いていることの方に、むしろ驚かされた。

○その地元の方の話では、小学生のころ、遠足は竹屋ケ尾と決まっていたそうで、何回も竹屋ケ尾には登ったと言う。木に名前を彫ったりしたそうで、数年後行くと、その木が大きくなっていて、彫った字も大きくなっていたなどという話を伺った。

○先日、再々度、この地を訪れ、竹屋ケ尾に登ってきた。加世田市街から県道29号線を3�ばかり南下すると、舞敷野の集落に到着する。ここに笠狭宮跡が存在する。舞敷野の分岐点で、右折して県道29号線を離れ、竹屋ケ尾を目指す。約1�進んで、小さい丘を越えると左手に『竹屋ケ尾登山道入り口』の案内標識があった。この附近は、玉虫野と言う集落で、案内標識のところに玉虫野公民館も存在していた。

○そこから左折して、登山道入り口に向かう。200�くらいで登山道口になる。登山道口には駐車スペースがない。だから、出掛ける時は、玉虫野公民館に駐車しておいた方が無難である。上には、茶畑等があるので、路上駐車は迷惑になる。

○登山準備を整えて、七時半ころ、登山口を出発。道はしっかりしているから迷う心配はない。途中、雑木林の中に、数カ所、竹が集中して生い茂っているところがあった。多分、台明寺竹ではないか。15分ほど歩くと、竹屋の地名由来となった竹林に行き着く。周囲を囲いで囲ってある。脇に案内板があって、次のように書いてあった。

   神話のふるさと
     『竹屋の由来』
   昔、瓊々杵尊は、この近くに笠狭宮を建て、木花開耶姫を妻に迎えた。やがて姫はここに無戸室
  (うつむろ)を作り、彦火火出見尊ら三皇子を出産した。その時、竹のへらでへその緒を切り、棄て
  た竹が、芽を吹き、竹林になり、その後、ここを竹屋ケ尾と呼ぶようになった。
   市制三十周年(昭和五十九年)、記念事業として整備した。
                               南さつま市教育委員会

○「麑藩名勝考」には、次のように記す。

   河邊郡加世田郷内山田村
     竹屋郷(タケヤノサト)
   地誌略曰く、竹屋郷古跡は絶頂に二畦ばかりの地ありて、上古柱口の石三、小石多く之れ有り。山
  田郷にて竹屋ケ尾と唱ふ。是を王子大明神と申すと云々。今按ずるに、尾とは、丘の事にて、猶ほ、
  竹屋の岡と言へるにひとし。今見るに、一の山岡にて、其の巓闊二畦ばかりの平地ありて、竹屋大明
  神の宮蹤と言へり。この竹尾ケ尾は蓋し無戸室を営られし墟なるべし。さて、竹屋郷と云へるは、此
  の尾の麓の裳敷野と称する地にて、是笠狭宮皇居の址ならん。この裳敷野は竹屋ケ尾より亥方十町ば
  かりにて、平々たる廣所なり。(中略)
   此の竹は今の世に篁竹とも笛竹とも呼ばる物なり。其の長さ二丈ばかり、囲二、三寸、節間尺余、
  藩人植えて牆屏に換へ、或いは舟子・山伐の輩、索となし、又火縄に造る、其の制頗る多し。根鞭行
  せず。其の薑芽の如く、叢生して、母子敢て散ぜす。挿せば能く活く。漢名の義竹・孝竹などと言ふ
  属なり。(以下略)

○「三国名勝図會」には、竹屋ケ尾の図絵を載せる。それには、『川畑村石坂より見る所』とある。ちょうど、笠狭宮址あたりからの景色が同じ風景に見える。

○竹屋ケ尾の竹は、途中で見た竹林とは違って、丈も低く、竹の丸さも小さい。少し金色がかっている気がした。ただ、加世田宮原の竹屋神社境内の竹とも、少し違う気がする。竹屋神社境内の竹は、案内に、竹屋ケ尾から移植したものとあったのだけれども。しかし、竹屋ケ尾の竹は、山中に自生している竹である。それに比べて、竹屋神社境内の竹は、明るい平地に植えられているものである。同じものでも、生えるところの環境でそうなったのかもしれない。「麑藩名勝考」の説明に合うのは、竹屋ケ尾の竹であるように思えた。

○竹林から少し登ると、すぐ『神代聖蹟竹屋』の石碑がある山頂下になる。登山口から山頂まで二十分ほどでたどり着く。山頂は、平たいところであるが、樹木が生い茂り、眺望は全く利かない。わずかに加世田市街方面と長屋山方面と川辺方面に木が切り開いてあって、見通すことが出来るだけである。山頂の標高は271�。多分登ったのは、標高では150�ほどであろう。楽な登山である。

○山頂には自然石で出来た、『彦火火出見尊降誕之地』の石碑があった。いくら上古の御代であっても、ここに生活するのは、厳しいのではないか。第一、肝心の水場が近くにない。おそらく、生活の場は、竹屋ケ尾の麓ではなかったろうか。

○山行の途中、季節柄、ワラビの新緑が綺麗であった。竹屋ケ尾自体は、岩山なのではないだろうか。他の山と比べて、山全体に湿気が多い気がする。竹やシダ類も多い。登山道の周囲の木は、根元から群生している木が多く目に付いた。多分、一本の木を育てるのではなく、炭焼きに具合が良いように、柴木にしているのではないか。山の北側斜面は一面杉の植林であった。

○ゆっくり登山し、十分時間を掛けてあちこち見たつもりであったが、下山してみると、往復一時間あまりの簡単登山であった。登山口のある玉虫野あたりは、一面茶畑が広がっていて綺麗である。向かいには先日登った長屋山が見える。

○登山後、南さつま市役所の向かいにある市立図書館に行き、書籍等も見ることが出来た。ここには加世田郷土資料館も併設されている。

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