・「資格」よりも「場」を優先する日本人
「不寛容社会 - 「腹立つ日本人」の研究 - (ワニブックスPLUS新書)」では、日本人が人間関係に苦しむ理由を分析していますが、今回の記事はその抜粋です。
文化人類学者の中根千枝氏は、「タテ社会の人間関係 単一社会の理論」(講談社現代新書)において、ビジネスの場でも私生活の場でも、日本人は、その人の「資格」よりも「場」を重視すると指摘しています。
「資格」というのは、その人の技能や経験のことで、仕事の上では相手が「個人としてどんな人間か」とうことです。「場」とは、「どこに所属しているか」と意味で、これは、所属している会社を意味します。
同書の中で、中根氏は、日本人が仕事の上で自己紹介する場合、記者であるとか、プロデューサーであるとか、自分の肩書や役割を名乗るのではなく、何々社に所属していると会社名と名乗ることを好むと指摘します。
会社というのは自分とその企業の「法的契約関係」にすぎないのにかかわらず、会社は自分の一部であるかのように「主体化」して考えているのです。
日本人が「場」を重視する理由は、 「ウチ」と「ソト」にこだわる理由にも繋がります。自分の社会的位置も、対面した他人との関係性を考える場合にも、自分や相手が「どこに所属しているか」で判断するわけです。
「場」を重視するので、日本の会社では会議が意思決定の場となりません。あくまで「同じ時間を共有した」ということが重要であり、議論になることは多くはありません。またその場で意思決定しないので、会議がダラダラと長くなりがちです。日本の会社の会議では、その日のうちに決めることを列挙した「アジェンダ表」配ることも一般的ではありません。
「場」の共有が重要ですから、飲み会も大変重要です。飲み会に出て他の社員や上司と「雰囲気」を味わうことが、構成員としての義務になるのです。
飲み会を拒否する人は、いくら理由があっても、「裏切り者」あつかいです。
なぜなら飲み会は、「場」を共有するものとして、体験を積み上げていく重要な儀式だからです。
これは会社の運動会や餅つき大会、鏡開き、社員旅行、上司の親族の葬式の手伝い、同僚の引っ越しの手伝い、といった行事も同じです。
あくまで「場」共有しようと思った意志や努力が重要であり、自分の予定を犠牲にして儀式に参加することが「ウチ」の構成員としての踏み絵のようなものなのです。
これは学校でも同じです。日本の学校はやたらと儀式や集団活動が多く、教員や保護者の負担は大変なものです。入学式にはじまり、修行式、お節句の行事、遠足、運動会、水泳大会、林間学校、文化祭、お芋堀、社会科見学、スキー合宿など、ほぼ毎月のように行事があります。
このような行事は、幼いころの思い出として心に残るものですが、これだけたくさんの行事をやることは、「ウチ」の構成員としての意識を醸成するのに欠かせないことなのです。
様々な行事を積み重ねることで、同じクラス、同じ部活のメンバーと擬似家族的な関係が形成されていきます。
行事を通して同じ「場」を共有することで「ウチ」の意識を形成する慣習は、大人になっても引き継がれます。
学校で体験したことを、会社や町内会、PTA、ママ友の集まりでも繰り返すわけです。
そして、これらは「ウチ」の仲間であることを確認するための「儀式」ですから、自主的意志で参加しない人は裏切り者として村八分になってしまうのです。意味のないベルマーク収集、名簿の形式をどうするか延々と話し合う無駄な会議など生産性が低い活動にとりくみ、「みそぎ」を果たしたかどうかで相手が仲間かどうかを確認しているだけなのです。
ですから、そんな作業が無駄だといったり、効率的なやり方を提案した人は、村の裏切り者として村八分になってしまうわけです。
ダラダラした飲み会や会合を避けるのであれば、村の裏切り者になる勇気と決意が必要なのです。しかしそれは所属コミニティにおける死を意味することであって、日本人は、自分から「社会的」に死なない限り、家に早く帰れないのです。