ホンヤクこぼれ話


第110回『ブラッドランド』の巻
今回は、布施由紀子先生が翻訳を手がけた、『ブラッドランド』をお届けします。ヒトラーとスターリンが行った大量虐殺の真実を克明に描いたこの作品。衝撃的な内容の連続ですが、訳者の布施先生はどのようにして翻訳を進めていかれたのでしょうか。先生にお話をうかがいました。
『ブラッドランド
――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』

布施由紀子【訳】
ティモシー・スナイダー【著】
筑摩書房

強制収容所の代名詞であるアウシュビッツ。大量虐殺の象徴であるホロコースト。しかしそれは、ヒトラーとスターリンが行った大量殺人の一部を映しているにすぎない。ヒトラーとスターリンは、ウクライナ、ベラルーシ、ポーランドにまたがる一帯で、1400万人もの非戦闘員を殺害した。本書はその一帯「流血地帯(ブラッドランド)」で行われた大量虐殺の実態を、膨大な資料、そして犠牲となった人々の生の声から丹念に暴き出す。
●訳者の布施先生に聞きました。

悲しい話ばかりだが、ぜひ多くの人に読んでもらいたい
貴重な記録

──まずは、作品について簡単な解説をお願いします。
布施
先生:
端的に言えば、ヒトラーとスターリンが独ソ両国にはさまれた地域で進めた大量殺害政策の全容を描き出した本です。ふたりは1933年から12年間も同時に政権についていて、それぞれが自分の身勝手な野望のために、特定の民族を標的にした大量虐殺を決行しました。その結果、ウクライナからポーランド、ベラルーシ、バルト三国にかけての地域で膨大な人数の民間人が殺されました。命を奪われたのはユダヤ人だけではなかったのです。
──ホロコーストはよく知られていますが、このような大量殺害の全貌はこれまでほとんど明かされてきませんでした。
布施
先生:
これまでも、国ごとにそれぞれの歴史認識にもとづいた過去が語られてきましたが、著者は、国境で分断された地域史を掘り起こそうと調査を進め、この一帯でヒトラーとスターリンに殺された非戦闘員の合計が1400万人以上にのぼることを突きとめました。この本には、誰がどんな理由でいかに殺されたかが丹念に書かれています。悲しい話がたくさん出てきますが、ぜひ多くのかたに読んでいただきたい貴重な記録です。
──先生は、本作で記されている事実には元々お詳しかったのでしょうか?
布施
先生:
いえ、ここまで詳しくは知りませんでした。ホロコースト関係の本は何冊か読んでいますし、カチンの森事件やスターリンの大テロルについても知っていましたので、ある程度知識を持っているつもりでした。でもじつはほんの一部しかわかっていなかったと気づき、ショックを受けました。スターリンの階級抹殺や民族浄化のすさまじさ、ナチスドイツの大量銃殺の規模の大きさも、ウクライナとポーランドの受難の歴史も、はじめて知ることが多くて愕然としました。あとがきにも書きましたが、正直、読むのはつらかったです。それでも、最終章で語られる著者の真摯な思いに共感し、これは訳さなければならないと思いました。
──翻訳作業についてもお聞かせください。まず、訳す際に非常にパワーが必要な作品だったことはまちがいないと思うのですが、訳了までにかかった時間はどのくらいでしたか?
布施
先生:
1年かかりました。重い障害のある母を自宅で介護していましたので、思うように仕事の時間がとれなくて困りました。施設のショートステイを利用し、母のいない日にがんばりましたが、脱稿は当初の予定より大幅に遅れました。でも「母を介護していますので」という釈明はしにくいものです。焦ってもしようがないので、誠実にていねいに仕上げることをめざしました。母は今年亡くなりました。曲がりなりにも介護と両立できてよかったと思っています。介護をしていなくても、この作品にはかなり時間がかかったことでしょう。決してせかさず、お待ちくださった編集者に感謝しています。
──注や参考文献も多く、作業量はかなり膨大だったと推察しますが、最初から最後までお一人で訳されたのでしょうか?
布施
先生:
はい、ひとり旅でした。
──分量、内容ともに重みのある作品ですが、原文にはどのような特徴がありましたか?
布施
先生:
原書は知性と教養の感じられる個性的な文章で書かれています。いろいろな意味を内包する(つまり、いかようにも解釈できる)単語が多用されていますし、industrial killing というような、直訳できないオリジナルな表現もたくさん出てきます。一般的な語でも本来の意味に使われていない場合がありました。とにかく論旨がとりにくく、一文一文、悩みました。
──膨大なデータを基に、未知の内容を記した作品ということで、調査も大変だったのではないでしょうか。
布施
先生:
日本ではほとんど知られていない史実にちらりと触れてあったりするので、何の話をしているのかわからないこともありました。そういうときはしばらく翻訳を休み、本を読んで勉強したり、英語のサイトを利用したりして、わかるまで調査を続けました。著者と自分との教養の差を、根気と執念でなんとか埋めていったような感じです。
──そのなかで、翻訳で最も気をつけたのはどういった点でしょうか?
布施
先生:
著者の表現を生かすようにはしましたが、とにかく自分が読んでわかる文を書こうとしました。研究者ではない一般人のわたしが学術書を訳す最大のメリットはそこだろうと思いますから。
──この作品は、出版総合演習の授業で教材として使用なさったという話もうかがいました。みなさん、やはり苦労なさっていたのではないですか?
布施
先生:
課題には、第1章の冒頭部分数ページを取り上げました。固有名詞がいろいろ出てくるうえ、一文の中にたくさんの情報が詰め込まれているという難物でした。先ほども言いましたように、論旨がとりにくいので、どなたも苦しんでおられました。毎回みなさんといっしょに悩みながら読み進め、授業が終わるときには、いっしょにため息をついたことを思い出します。帰宅後もなんだか興奮がおさまらず、その夜はなかなか寝つけませんでした。本そのものはひとりで訳しましたが、授業でみなさんと苦労をともにしたことが支えになったと思います。
──ありがとうございました。最後に、学習中の方へメッセージをお願いします。
布施
先生:
英日翻訳の仕事をしていくには、英文を読みとる力が不足していてはどうにもなりません。学習中はしっかり辞書を引いて粘り強く解釈に取り組んでください。英語力を伸ばす方法はそれしかありません。訳文を書くときにも、これくらいでいいやとあきらめずに、辞書や検索ツールをフルに活用して、ほんとうにベストと思える表現、自分にしかできない表現を見つけ出すことです。要は自分を追い込めということですね。苦しいけれどもそれが楽しいという人は翻訳に向いています。家庭や仕事があって、誰しも学習時間には制約があるでしょうが、その中で全力投球を続けてください。知らず知らずのうちに力がついてくるはずです。
布施由紀子先生のプロフィール:
出版翻訳家。『ブラッドランド――ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実』(筑摩書房)、『動くものはすべて殺せ――アメリカ兵はベトナムで何をしたか』(みすず書房)、『核時計 零時1分前 キューバ危機 13日間のカウントダウン』(NHK出版)、『骨とともに葬られ』(角川グループパブリッシング)、『夜明けまであなたのもの』(二見書房)、『捜査官ケイト過去からの挨拶』(集英社)など訳書多数。
布施先生、ありがとうございました。まさに先生のおっしゃるとおり、「読み進めるのがつらい、しかしぜひ多くの人に知ってもらいたい」作品でした。また今回は、翻訳作業中の困難な状況についてもお話しいただきました。仕事や出産、育児、そして介護と、翻訳だけに集中するわけにはいかない中で学習を続けている方にも、励みになるお話だったと思います。

(written by Takasaki)
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